第43話
夜景が望める窓際の席はすでに埋まっており、昊たちは奥の壁際の席へ案内された。雪葉と陣之内は絶景と隣り合わせの最高席だ。会話を盗み聞くのは不可能だが、遠目で表情は窺える。
店員にコートを回収され席に着いた。ひと息つきながら、昊は深く頷く。
「さすが。一流店は、サービスも一流だな」
「どーすんだよ! 完全に勘違いされたよ!」
「おごるから許せ。――あーあ。いきなりこんなとこ連れてこられて、雪葉困ってんじゃん。ほんと陣之内は陣之内だな」
「お前もお前だろ。気づかれたら怒られるぞ。二人で食事して欲しくないなら、元村さんに直接言えばいいだろ」
「……別に、だめってわけじゃ……」
黒制服の給仕が、恭しくメニュー表を運んできた。開いて、沖が
「コース料理……三万円からのしかないけど」
「じゃあその一番安いコースでお願いします」
給仕は「かしこまりました」と美しく礼をとり、メニュー表を持って去っていった。
×××
気後れしかしないレストランで雪葉が気にしていることは、服装とテーブルマナー、そして財布の中身だった。所持金は五千円だ。クレジットカードは持っていない。会社に勤め始めた頃、指定銀行の通帳を作った際、クレジットカード機能付属のキャッシュカードを勧められ申し込んだところ審査に落ちたため、トラウマで作っていない。
芸術品とも言える美麗な料理が運ばれてくるにつれ、しかし雪葉は、徐々に雰囲気に呑まれた。余計な心配事は忘れ、心は楽しむことに傾いていく。
「……おいしい」
ほっと息をつくように零すと、雪葉の一挙一動を観察していた陣之内がふわりと笑った。
「良かったです」
「……どうして、こんな素敵なお店に、私を誘ってくれたんですか?」
陣之内は緊張するように身を硬くして答える。
「女性が喜んでくれる店をリサーチしていたら、この店の評価が高かったものですから。女性は、夜景を喜ぶものだと」
壁一面の窓の向こうには、地上に星が躍っているような都心の夜景が広がっている。素晴らしい景色を見ながら、クラッシックの曲が流れる店内で、ワインで乾杯し、男女二人で美味な料理を楽しめば、確かに魔法がかかってもおかしくはない。
緊張している陣之内の様子に、胸が詰まった。的外れなことはもう考えられない。どこを気に入ってくれたのかはわからないが、陣之内は、雪葉を好意で誘ってくれたのだ。
誘う時も、店を決める時も、今日までの時間も、陣之内はどんな思いで過ごしたのだろうと想像する。それに、雪葉は応えられる気がしなかった。
×××
料理を堪能しているうちに、沖はすっかり上機嫌になった。
「これ、鹿の肉だってさ。初めて食ったぁー。あ、次デザートかな。メニュー表に、何のデザートって書いてあったっけ」
対面に座る同僚は、誘った恋人ならば大満足の良い反応だ。そんな沖をまるで見ることなく、昊は時折楽しそうに笑う雪葉の顔をぼんやりと見ていた。自分はいま、何をしているのだろう。
「……俺、帰るわ」
「え? まだ料理残ってるけど」
「お前、二人分食べていいよ」
「え? え?」
昊が帰り、一人取り残された沖が当惑していると、
「失礼いたします。記念日と伺いましたので、よろしければ当店からこちらを」
沖は「ひぃっ」と声が出た。給仕はケーキをテーブルに置きながら首を傾げる。
「おや? お連れさまは?」
「あーっと。ちょっと、お腹痛いって、帰っちゃってぇ……あ、でも、ケーキは僕が全部いただきますので」
給仕が一時停止したのは一秒だけで、「左様でございますか」とすぐにかしこまる。周りの客から、温かな拍手をされた。沖はぺこぺこと頭を下げた。
「ありがとうございます。いやー、すみません。ありがとうございます」
×××
「――お祝いでしょうか」
食後のデザートが運ばれる頃、奥のテーブルのほうから祝い事のような拍手が聞こえた。背中しか見えないが、男性の一人客の前に、ホールケーキがある。一人お祝いディナーだろうか。
「そうみたいですね。この店は、記念日に利用する人のほうが多いでしょうから。僕は、今夜来ちゃいましたが」
「とても素敵なお店ですもんね。今日、来られて良かったです」
食事を終える頃には十時を回っていた。会計は、当然のように陣之内がもってくれた。
駅へ向かう帰り道、陣之内に交際を申し込まれた。誠実な申し出だったが、雪葉は深く頭を下げた。
「ごめんなさい。気持ちは、とてもうれしいです。……でも、私……」
「……伊桜のことが、まだ好きなんですか」
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