第39話

「広瀬さんちって、ここからだとタクシーで一時間くらい?」


 昊の問いに、広瀬は「はい、たぶんそのくらいです」と頷く。昊は財布から札を数枚抜き、広瀬に渡した。


「もうタクシーで帰りなよ」

「いいんですか?」

「あとで久我さんに請求するから、気にしないで」


 広瀬は手元を見つめた後、上目遣いで昊に質問した。


「伊桜さんって、いま、彼女いますか?」


 昊は眉を軽く上げた後、答えた。


「広瀬さんは、すごくかわいいから、俺なんかにはもったいないよ。――お疲れさま」


 昊は広瀬に背を向け、道端の自動販売機へ向かった。広瀬が背中に声をぶつけてくる。


「別に、付き合ってくれとか言ってませんけどっ! ちょっと聞いてみただけです! お疲れさまでしたっ」


 頬を紅潮させながら、広瀬はくるりときびすを返した。そして道路際でタクシーが通りかかるのを待つ。


 昊は自動販売機で温かい缶コーヒーを買った。握っていられない熱さに、缶を左右の手の平で遊ばせつつ、街路花壇の縁に座る。沖が広瀬を手伝い、彼女の隣でタクシーが来るのを待っている。年の瀬の、日の出前の早朝だ。空はまだ暗く、道路はたまに車が一台通る程度だ。


 息が白かった。手袋がないため、指先はもう冷たい。沖たちを眺めながら缶コーヒーを飲んでいると、陣之内が近づいてきた。陣之内は冷えたレモンティーを買った。この寒さで暑いのかと訝しむ。


 だが話題を振ってまで訊くのも面倒だったので、昊は前方を見つめたまま、眠気のひどい頭でコーヒーの苦さを感じていた。すると陣之内のほうから話しかけてきた。


「なあ、伊桜」

「んー?」

「元村さんとお前って、別れたんだよな?」


 思ってもみない話題に、脳が一瞬にして覚醒した。ゆっくりと陣之内を見る。カフェインよりも、衝撃のほうが眠気にはずっと効く。


「……そう、だけど……なんで?」

「なら、僕が彼女に交際を申し込んでも、構わないよな?」


 目線がかち合った。呆然とする昊に対し、陣之内の瞳は決意とともに冴えていた。広瀬を無事にタクシーに乗せ見送ってきた沖が、「うーっ、さっみー」とコートのポケットに手を入れながらやってくる。


「あ、俺もなんか飲む――うえっ。ほうじ茶売り切れじゃーん」


 がこんと音を立てて落ちてきた、温かな緑茶を取り上げながら、沖は見つめ合う昊たちにようやく気づいた。首を呑気に交互へ巡らせる。


「どったの?」


   ×××


 年末年始、雪葉は五日間ほど帰省した。「ゆきちゃん、たーちゃん。焼き肉のたれ切れてたから買ってきてー」という母の頼みを聞き、姉弟仲良くスーパーマーケットへ向かった。村で唯一のスーパーマーケットは、雪に覆われた田園風景を二十分歩いた場所にある。


 見渡す限り、眩しいほどに真っ白な雪だ。故郷の冬に感じ入り、痛いくらいに頬を刺す冷気も気にならない。


「――で、三ヶ月遊ばれて、捨てられたと」


 昊とのことを簡単に報告すると、岳陽たけはるは溜め息をつきながら言った。岳陽は、無事に公務員試験に合格した。配属先の確定となる採用通知もきたという。


「……遊ばれたわけじゃ」

「どう考えてもそうだろ。だから言ったろ? あいつは軽い、やめとけって」


 正論かもしれず、雪葉は黙るしかなかった。


 店に着き、おつかいの品やその他自分たちのジュースなどを購入する。帰り道、岳陽が不意に訊いた。


「雪葉ってさ……。大学行けなかったこと、後悔してない?」

「え?」

「もし俺がいなかったら……普通に、滑り止め受けたり、予備校行ったり、できたかもしれねえだろ?」


 雪葉はとっさに言葉が出なかった。想像もしていなかったことを岳陽が気にかけていたからだ。片手を出し、大きく左右に振る。


「そんなこと、たーちゃんはまったく気にする必要ないよ! ……私が行けなかったのは、自業自得だから。高望みしないで、ちゃんと入れそうな大学選んでれば、良かっただけだから。――たーちゃんは、たーちゃんだよ。ちゃんと一発で大学受かったし、奨学金借りてかよって、返済も考えて公務員選んで、お母さんのために地元残って……すごく立派。私は、好き勝手してるせいだから……だから、たーちゃんが気にする必要なんて、ぜんぜんないないっ」


 振っていた手を下げてから、雪葉は一旦、足元の雪道を見下ろした。ブーツで雪を踏みしめるたび、ぎゅっぎゅっと独特な音がする。


「いろいろ、失敗してる感じもあるけど……いまの生活もね、そんなに、悪くないから」


 上手いようにいかないことは多々ある。贅沢もほぼできない。けれど、悪くない。


「いまの仕事もね、前に一緒に働いてた人に認められて、誘われてできてるんだよ。すごくない? ――こんなふうに、ちょっとずつでも重なっていくものが、毎日、大したことなんてできてない気がしても、きっとあるんだよなぁって……そう、思ったっていうか」


 岳陽は、胸のつかえが下りたような顔をした。「そっか」と柔らかくほほえむ。


「でも、もしあっちにいるのがつらくなったら、いつでも帰ってこいよ。俺も母さんも、雪葉が決めたなら、どっちでもいいからさ」

「うん。……ありがとう」


 帰省期間中に、母に寿司をご馳走し、それから父の様子もちらりと覗いた。相変わらず、自由で元気そうだった。


 そして雪葉は都心へ戻った。新幹線での帰り道は、いつも故郷と家族への感傷を抱く。野山ばかりの窓の景色が、密集する高層ビル群へ変わっていくにつれ、戦場に戻ってきたような気持ちになる。いま自分が戦っている場所は、ここだ。また頑張ろうと、心が切り替わっていく。


 一月、社内の空気が正月休み気分から抜け切らない中、上戸は溌剌はつらつと自己紹介をした。


「あけましておめでとうございます。本プロジェクトのマネージャーの上戸です。クライアントにご満足いただける製品をみんなで作り上げていきましょう! よろしくお願いします」


 忘年会では、ドレスに合わせ髪も整えていたが、いまは長い黒髪を翡翠色のバレッタで一つにまとめただけだ。眼鏡もかけている。黒髪を一つにまとめていることと眼鏡の組み合わせに、親近感が湧く。だが上戸の雰囲気は、雪葉とは正反対だ。上戸は自信に溢れていて、明るい。外見が中身と関係ないことがよくわかる。


 自社に女性の先輩がいないので、現場で会う女性エンジニアたちは見習う参考だ。雪葉は、自分ももっと自信を持とうと思った。上手くいっている気がしない人生だが、日々の積み重ねがこうしていまの仕事にも繋がった。自信を持って、前を向いていきたい。そうして過ごしていれば、いつか昊のことも風化させ、次に会って話す時には笑顔で『久しぶりだね』なんて、言えるようになるかもしれない。


 新規案件は、関東で花屋を展開する〈株式会社春野パーク〉の、販売管理システムの開発だ。設計はすでに終了しており、今月から製造開始だ。上戸をプロジェクトマネージャーとし、チームは三つに分かれている。チームリーダーの一人は、瀬尾せおという四十手前の眼鏡をかけた禿頭とくとうの男性で、残りの二人のリーダーは若手だ。陣之内と、そしてもう一人はなんと、昊だった。


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