第38話

「ほら行くぞ」

「いや俺は……明日、朝一で歯医者予約してるんで」

「嘘つけ。何だその定型断り句は」


 半ば強引に久我に連れられ、みなで近場の大衆居酒屋へ向かった。前方を行く昊に対し、雪葉は後ろのほうを歩いた。そのまま店に入ったため、席は隣にならなかった。


 一緒の空間で過ごせるのは嬉しいが、いざ話しかければ迷惑がられるかもしれない。人数がいるおかげで、昊と話さずとも飲み会の時は順調に消化されていく。


「――元村さん、前に比べて表情が柔らかくなったよね」


 場の雰囲気がすっかり砕けた中で、久我に言われた。


「笑顔が明るくなって、かわいくなった」


 狼狽えながら、「そ、そうでしょうか」と返すと、昊が口を挟んだ。


「セクハラっすか、久我さん」

「え! かわいいって言うのもセクハラ? 厳しくない!? 広瀬さん、これセクハラになるの?」

「なると思いますよ。女性の容姿について言うのが、もうアウトです」


 久我は「怖い世の中になったなー」と顔を引きつらせ、だがまたにやにやと続けた。


「付き合ってる人、いるの?」

「い……いませんが……」

「誰か紹介しようか? うちのも奥手な奴らばっかでさぁー。陣之内なんかも、彼女いないし」


 陣之内が中ジョッキを手にしたまま固まる。どういう意図の発言だろう。いや、深い意味はないのか。雪葉が曖昧な笑みを返していると、沖が助けに入ってくれた。


「久我さん、ちょっと飲み過ぎですよ。もう十一時過ぎてるし、早く帰んないと奥さんに怒られるんじゃないですか?」

「久我さんって、結婚されてるんですか?」


 新人の一人が訊いた。


「うん、してるよー。三歳の女の子いる。でも、いつも帰れば寝ててさ。朝も、起きる前に俺は家出ちゃうし。たまに早く帰ったら、『おかえり』じゃなくて、『よくあそびにきたねぇ』って、おばあちゃんの口真似されて出迎えられるっていう」

「完全によその家のおじさんじゃないですか」


 沖の発言に笑いが誘われる。昊と広瀬の席が隣同士で、二人は何かを話していた。気になって、雪葉は手元の鶏のつくね棒を食べながら、会話に耳を澄ます。いまの案件について話していた。


「広瀬さんは、いまどこにいるの?」

「私はまだあの現場ですよ。リリース一月なので」

「え? 延びたの? 十一月予定だったよね?」

「はい、延びました。伊桜さんがいなくなって、すぐですよ。九月の中旬には、プロジェクト延長が決まって――」


 雪葉はつくね棒をくわえたまま動きを止めていた。


(え……?)


 昊が、いなくなった? 九月には、プロジェクトから外れていた? 何故――。


 疑問を抱いたまま残りの時間を過ごした。久我や昊たちが会計を済ませている間、ほかのメンバーはみな先に出て外で待っていた。その時に、雪葉はそっと広瀬に近づいた。


「広瀬さん。あの」


 広瀬はほろ酔い状態の笑顔で振り向いた。


「はぁい」

「ちょっと、訊きたいんですけど……伊桜さんって、私が四月にいなくなった後、案件から外れたんですか?」

「そうですよー。八月いっぱいで」


 八月。忘れられない月だ。


「……どうして、離れたんですか?」

「なんか、お客さん怒らせたっぽいですよ。私も、詳しくはわかんないんですけど」


 つまり、客から苦情が出たということだ。通常、苦情は余程のことをしでかさない限り来ない。マネージャー交代ほどの事態となれば尚更だ。如才じょさいなく仕事をこなしていた昊からは、想像できないことだった。


(なんでだろう。昊くん、すごくがんばってたのに……)


 昊の帰りを、毎日遅くまで待っていた。そばで見ていたからわかる。じゅうぶん努力をしていた。


「よぉーし! このままオールでカラオケ行くぞーっ!」


 久我が元気に言った。若者たちの顔には当惑しかない。時刻は零時間近、終電はぎりぎりだ。心の内では、みな帰りたいのは確実で、昊が助け舟を出す。


「新人とパートナーさんは、帰しましょうよ。俺と、あと沖と陣之内は付き合うんで」


 沖が頬を引きつらせ、陣之内は顔を青くする。久我は「仕方ねえな」と妥協した。


 昊と帰り道が一緒になるかもしれないと思っていた雪葉は、少しがっかりした。マネージャーから外れたことについて確認したかった。丁度、別れた八月のことだ。昊に元気がなかった理由はこれかもしれない。


「おっし。じゃああと、広瀬はカラオケ行くぞー」

「えーっ! 嫌です!!」


 久我が広瀬の肩に手を置く。


「一人くらい女子がいたほうが、楽しいだろ? なっ?」

「ちょっ! セクハラ及びパワハラですよ、こんなの!」

「面と向かって主張できるうちは大丈夫だ。行くぞー」


 広瀬は拒否し切れず久我に伴われていく。雪葉は組織に属する厳しさを目の当たりにした気がした。


 徹夜カラオケ組と駅で別れる時、一瞬、昊と目が合った。瞬きを忘れる雪葉に、昊は目線を外しながら言った。


「遅いから、気をつけて」


 不意打ちで、返事が遅れる。その間に、昊は久我たちと行ってしまった。


 同じ方向に帰るメンバーたちと電車に乗った。乗換駅で別れ、一人になる。週末の電車内は酒臭く、いつもなら気分が悪くなる。でも今日は、そんなことも気にならないくらい、胸が苦しかった。


   ×××


「理屈じゃ~ないから~♪ 感情が~コントロール~できないから~、恋~♪」


 昊はウーロン杯を飲みながら、久我の熱唱をげんなりと聞いていた。歌い終えすっきりとした顔の久我に尋ねる。


「久我さん、この曲好きなんすか」

「ブナ坂48の新曲な。いい曲だよなぁー。俺、この前ライブ行ったよ。癒されて、元気もらった」

「……へえ」


 次の歌い手の広瀬は、来るときは渋っていたが、いまは手ぶりをつけて楽しく歌っている。二十代前半の若々しさに溢れていると感じてしまうのは、自分がもう三十近くになった証拠だろうか。


 三時間ほど歌った頃、気づけば久我は、ソファ座席で眠っていた。昊たちは軽食を注文し、電車の始発時刻まで雑談をして過ごした。朝の五時が近づいてきたので、沖が久我を起こす。


「久我さーん。起きてくださーい」


 まったく起きる気配がない。昊は決断することにした。


「もう置いて行こう」

「え、いいかな?」

「俺たちは、義務は果たした。あとは久我さんの責任だ。……一時間もすれば起きるだろ」


 四人でカラオケ店を出た。電車の時刻を確認していた広瀬が、携帯電話を見ながら苦い顔をする。


「あー……。私の電車、六時近くまで始発ない……」


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