第31話

 足が急停止した。雪葉は化粧室までゆっくりと後退した。何度か仕事で会話をしたことがある、正社員の女性エンジニアたちの声だ。廊下がタイルカーペットだったおかげで、ありがたいことに足音は立たない。


「やっぱり、最初の印象が、リーダー的に悪かったみたいよ。ほら。お盆休み終わった後に、また三日も休んだから。やる気ないと思われたんじゃない? 普段から帰るのも早かったし」

「ああー……。まあ、まだ若いから――」


 それから話は別のものに移り、二人は話しながらフロアの開発ルームへ入っていった。雪葉はしばらくしてから化粧室を出た。


 十月で契約終了だということは、先月末の帰社日に佐久間から伝えられ、知っていた。来週辺りにまた面談をし、来月から新しい現場へ移る。


 チームリーダーの評価で契約更新されないのは、仕方がないことだ。事実、八月の雪葉の勤務態度はひどかったと思う。仕事中にどんなに真面目に取り組んでいようと、みなが残業している中、毎日定時に帰る雪葉は目立った。


 残業をしていることを頑張っていると見なす上司は多いものだ。すべて仕方がない。たとえ雪葉が、夏に昊のマンションに通っていた一ヶ月間以外は、毎日のように残業してきていたとしても、この現場のチームリーダーは知らないのだから、仕方がない。


 今日は水曜日で、定時上がりを会社で推奨しているせいか、早く帰る人が多かった。雪葉も定時後三十分ほどでパソコンの電源を落とした。ビルを出る時、先程雪葉の話をしていた女性エンジニア二人と行き合った。あちらもこちらも、何もなかったものとして、退勤の挨拶を交わした。


 日はだいぶ短くなったが、空にはまだ残照の光が残っていた。アスファルトの地面にも、昼の熱が残っている。帰りに本屋でも寄ろうかなと考えながら、雪葉は駅へと歩いた。


 昊と別れて少しした頃、久しぶりに本屋へ行った。新しい本がたくさん増えていた。昊と付き合っている間は、気づけば小説を読まなくなっていた。


 小説は、やはり楽しい。読んでいる間はすべてを忘れられる。虚構へ逃げて、現実から逃避する。昔はもっと純粋に、楽しく読んでいた。だが最近は依存する逃げ道のように読んでいる。そのせいか、十代の頃のようには楽しめなくなってしまった。


 人が続々と呑み込まれる改札を通り抜け、駅のホームに立つ。電光掲示板を見ると、次の電車が来るまであと五分あった。


 頭の中を、言葉がぐるぐると回っていた。『まだ若いから』『やる気ない』『三日も休んだから』『リーダー的に……』――みな、勝手なことばかり言う。あの人たちも、ほかの一緒に仕事をしている人たちも、雪葉のことなど詳しくは知らない。毎日遅刻せず仕事に行き、がむしゃらに頑張り残業していたことなど、知らない。体調が良くなく休みたかった日でも、楽なほうに傾かず頑張って出勤したことなど、知らない。


 積み重ねてきた信用も信頼も、現場が変わればすべてがなくなる。だからあの人たちが知らないのは、仕方がない。雪葉の五年間など、雪葉以外は知らないのだから、仕方がない。ほかに誰も見ていないのだから仕方がない。自社の社長でさえ、実際に見てはいないのだ。


 なら、ほかの誰がわかってくれるだろう。家族とすら離れて暮らしている。頑張ってきたことをわかるのは、自分以外にはいない。誰もわからないから、仕方がない。他人の事情なんて、誰だって深くはわからない。あの人たちだけじゃない。表面上のものだけで浅慮せんりょにお喋りする人なんて、ほかにも大勢いる。


 もし大学受験で合格していたら、そうしたら、もっと人生は違ったのだろうか。もっと良い企業に就職して、たとえ家族と離れていても、上司や同僚に恵まれて、友人もできて、恋人もできて、人生はもっと幸せだったのだろうか。考えて、ああ、まただと雪葉は思う。また同じ場所に戻り、思考はぐるぐると同じところを回り続ける。自分でも呆れ果てているというのに、るつぼから抜け出すことはできない。


 建物に挟まれた線路の先に、電車が見えた。夜へと近づく薄明の空を背負い、電車はゆっくりと迫り来ているように見える。ふと、ホームの柱に電子表示された、今日の日付が目に入った。今日が、自分の誕生日だったと気づく。二十六歳になっていた。


(私、何が楽しくて、生きてるんだろう)


 初めてできた恋人に三ヶ月で振られ、せっかく貯めた貯金も恋愛に溺れ大量に使ってしまった。受験も就職も失敗している。仕事も上手くいっている気がしない。残酷な現実しか、目の前にはない。失敗した結果の取り返しはつかず、人生はやり直すことなどできない。過去に戻ることもできない。仮にもし、いま大学に入ることができたとしても、十八の時に思い描いたものと同じ大学生活は送れない。いまある現実の上に、立っているしかない。


 減速しながらホームへと入る電車の風に、しばしあおられる。しぶとく残る夏の暑さが、気怠い熱風を練り上げ体にぶつかってくる。ホームに電車が来る瞬間は、いつも心がひやりとする。ほんの数歩踏み出すだけで、体は一瞬にして粉々になり死んでしまうだろうことを、想像することが、あまりにも簡単過ぎて怖い。


 金切り音を立てて停止した電車に乗ると、これでもかというほど効いた冷房が雪葉を冷やした。扉際に立ち、座席端の仕切りに寄りかかる。上部にある電車内ビジョンの天気予報を眺めていると、発車ベルが鳴った。


 すると、音に合わせて駆け込んできた中年の男性がいた。ごぼうのような細長い体躯に、額が禿げている。背中で扉が閉まった男性に、そばのつり革を掴んでいた女性が迷惑げに眉根を寄せた。電車がゆっくりと動き出して、窓の景色が流れ出す。


 息をつく男性に見覚えがあった。いま一緒に働いているエンジニアだ。雪葉同様、小さな会社から契約で働くパートナーで、名前は中川なかがわという。目が合い、互いに会釈をした。


「あ、元村さん。どうも。お疲れさまです」


 中川は、弾んだ息を整えながら、対面の仕切りに寄りかかった。


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