第28話

 川沿いの会場に着いた頃には、すでに花火が上がり始めていた。よく晴れ渡った夜で、闇色の空に色とりどりの大輪が、次から次へと咲いていく。


「私、こっちに来てから、花火見るの初めてです。人、結構いますねぇ」


 川辺に人の姿が多くあり、土手の上には屋台の灯りが煌々こうこうと連なっている。雪葉と昊は、川辺の細い道をゆっくりと歩いた。花火が上がるたび、音が体の芯へ響く。


「あ、私、敷き物持ってきたんです。何か買ってきて、食べながらでも――」

「ごめん。あんまり腹減ってなくてさ。雪葉、食べたいのあったら買ってきていいよ」


 喉が苦しくなり、言葉がつかえる。反射的に涙が零れてしまわぬよう、無理に笑顔を作った。


「わ……私も、実は、帯が思いのほか締めつけられるもので、これはご飯が入らないかもなー、って思ってたところで……。――そういえば、昊くん、お盆休みはどうでした? ご実家のみなさん、お元気そうでした?」

「ごめん。ほんとは俺、実家帰るのやめたんだ。ずっと家にいた」

「そう……だったんですか……」


 作り笑顔すら難しくなってくる。


「どうして、嘘なんて……?」

「ちょっと、一人になりたくてさ」


 前を歩く昊は、一度も振り向かない。一回も笑わない。雪葉は足を止めた。もしかしたら、気づかないで先へ行ってしまうかもしれない。だが昊は立ち止まり、振り返った。


「……昊くん。疲れたなら、もう帰りますか? 花火、ちょっとは見られましたし、私、満足したので……」

「雪葉」


 花火の音の合間に、昊が言った。


「俺たち、別れない?」


 真っ直ぐ、昊の瞳と対峙する。また花火の音がした。歓声が聞こえる。どれほど鮮やかな色に照らされても、人も物も、影は常に黒だけだ。


「合わないと思うんだよね、俺ら」


 理由は、それなのか。そんなことはわかっていたことだ、初めから。昊と釣り合っていないことなど、初めからわかり切っていたこと。


「私は、たとえ合っていなくても、昊くんと付き合っていたいです」


 昊の興味は完全に失せていて、非情だった。


「ごめん」


 昊は背を向けた。そのまま歩いていってしまう。追いかける気力はなかった。追いすがったところで、何も変わりはしないと思った。


   ×××


 一人の帰り道は、よく覚えていない。とにかく歩きたくなくて、歩道が勝手に進めばいいのにと思った。


 だがどんなに体が重くとも、歩かなければ家には着かない。延々と続くような道の果てに、自宅に着いた後、雪葉は浴衣も脱がないままベッドの上で泣き続けた。昊との思い出や温もりを思い出しては泣き、翌日もほとんど泣いて過ごした。


 月曜日からは仕事だったが、目が真っ赤に腫れていて、とても人に会える顔ではなかった。熱が出たと嘘をつき、仕事を休んだ。社会人になってから仕事を休むのは、初めてだった。


 そのままずるずるとさらに二日休み、ようやく仕事に行ったのは木曜日だった。あまり休んでは、顧客から自社へ苦情が入る。それに何より、生活のためには働かなくてはならないと、心が疲れ果てていても理性が体を動かしてくれた。


 三日欠勤明けには、メンバーたちに一言ずつ謝った。「熱大丈夫?」と訊いてくれる人もいて、救われた。与えられた仕事に集中し、毎日取り組んだ。早く帰る必要も理由もないため、残業もまた普通にするようになった。そうして日々は、ひと夏の長い夢でも見ていたかのように、以前の日常に戻っていった。


   ×××


 八月の最終日、プロジェクトルームには数ヶ月ぶりに久我の姿があった。長身で、学生時代はバスケットボール部だった体つきの良さをまだ残す、三十五歳だ。話し口も快活で、敏腕指導者として数々のプロジェクトを成功へ導いてきた。


「引き継ぎお願いしまーす」


 久しぶりに会うメンバーと親しげに言葉を交わした久我は、半年間昊が使い、今日が最後に座ることになったデスクまで来て言った。引き継ぎの最中、広瀬が、化粧でばっちりと決めた顔を同情するように歪めて言った。


「伊桜さん、ここから出て、別プロジェクトに移っちゃうんですかぁ」


 大して残念でもなさそうに、「残念ですぅ」と言った後、通常の男性ならば思わず見惚れてしまう笑顔で続ける。


「お疲れさまでした。次のところでも、がんばってください」

「……広瀬さんも、リリースまであと少し、がんばってね」


 引き継ぎの伝達が終わった後、ビルを出るため、昊はデスク周りの荷物が入った紙袋を持ち上げた。外まで送ってくれる久我とともに、デスクを離れようとすると、久我は「あ」と声を出す。


「ちょっと待ってて。便所行きたい」


 手洗いに行った久我を待っている間、ベテランエンジニアの小笠原が、昊に声をかけてきた。


「私は、伊桜さん、よくやってたと思いますよ」


 半年間、毎日顔を合わせて一緒に仕事をしてきたが、もう言葉を交わすのも最後になるかもしれない相手だ。


「上との相性って、どうにもならない部分でもあるから、あんまり気を落とさないでね」


 小笠原は眉尻を下げてほほえんだ。「また仕事に誘ってくださいね」と、営業も忘れない。可笑おかしく思いながら、昊は力なく笑みを返した。


「ありがとう、ございます」


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