第27話

 壁掛け時計の針は、十分、二十分、三十分と過ぎていくが、待っている間も幸せだった。料理を喜ぶ昊を想像して、胸が高鳴る。失敗続きな人生の中で、いまはあまりに幸せで、ただ夢を見ているだけなんじゃないかと思えてくる。


 テーブルに乗せた腕に頬をつけ、時計を見続けた。そのうち眠ってしまったらしく、気配に気づいて目を覚ました。昊が、対面の椅子に座っていた。食べ終えた後の食器がテーブルの上にある。昊は椅子に座ったまま、携帯電話を操作していた。


 時計の針は十一時を差していた。一時間以上眠ってしまったらしい。音のない、静かな部屋だった。体を起こすと、肩に掛かっていたブランケットが床に落ちた。雪葉が目覚めたことに、昊が気がつく。


「おはよ。飯、ごちそうさま」

「……おかえりなさい、昊くん」


 昊が帰ってきた。嬉しい。顔を見て、声を聞くと、自然と笑顔になった。


「飯、食べてても良かったのに。いつも待ってるね」

「せっかくなので、一緒に食べたくて」

「でも、雪葉だって疲れてるだろ。飯作るのとかも、無理しなくていいのに」


 首を横に振る。本当に、無理はしていなかった。昊と一緒に食事をしたい。毎日来るのだって、少しでも一緒にいて、会って話がしたいからだ。


 昊が、空の食器を手にシンクへ向かう。皿を洗う音を聞きながら、雪葉は自分の分の晩ご飯も手早く食べた。食べている最中、昊へ何度か話しかけたが、仕事で疲れているのか反応が乏しかった。そのうち、シャワーを浴びに行ってしまう。


 雪葉は自分の食器の後片付けをして、シャワーが終わるまでソファで待った。昊が、濡れた髪を拭きながら戻ってきたので、また話しかける。


「あの、昊くん。あさってから、私、お盆休みで」


 昊は、服を下だけ穿いていて、肩にもまだタオルがかかった状態だ。


「明日の夜から、私、荷物を持って泊まりにきてもいいでしょうか」


 連泊前提で来れば、せっかくの休みを一分だって無駄にせず、二人でそばで過ごせる。


「ごめん。俺、あさって会社に呼ばれててさ」


 だが昊に断られた。雪葉はぼんやりとして、首を傾げる。


「休日出勤……ですか?」

「うん。あと、お盆休み中もさ。やっぱ、親が実家に泊まれってうるさくて。しばらく泊まろうと思ってる。親戚の子どもも来るみたいで、顔見ろとか言われてて。だからやっぱ、雪葉と一緒にいられそうにないや。ごめん」


 雪葉はどうにか、「そう、なんですか……」と返した。昊の調子の違いが、居心地悪かった。先程から感じていた違和感が、はっきりとした形になる。


 今日の昊は、機嫌が悪い。雪葉は鞄を手にとった。


「じゃあ、私、帰りますね」


 いつもは泊まって行けばと止められるが、昊は「うん」と返事をしただけだった。玄関に見送りに来る気配もない。ソファに腰を下ろしたままの昊に、雪葉はリビングの扉を出る前に訊いた。


「昊くん、あの。……何か、ありました?」


 昨日までは普通だったため、仕事で何かあったのかなと思った。


「いや、別に」

「……そうですか。……おやすみなさい」


 嘘をつかれたことはわかった。だが言いたくないことを深く訊いて、嫌われるのも嫌だったので、それ以上は訊かなかった。


 昊が嫌がることはしない。顔色を読むのは得意だ。放っておいて欲しそうな時は、放っておく。そのほうがいい。多分、彼はそういう性格だ。基本的には、あまり本心を見せない。自分の中で考えて、答えを出す。踏み込まれることが好きではない。大丈夫、間違っていないはずだ。


 それから十日間、昊から連絡はなかった。夏季休暇が終わり、仕事が通常通り始まってからも、雪葉は夜に、マンションへ行かなかった。昊から催促の問い合わせもなかった。約束していた花火大会も断られるのかと、怯えていたが、幸い、その連絡はなかった。


 花火大会当日の土曜日の午後、直前の断りもあり得ると考えながらも、雪葉は仕度をした。夏季休暇中に買っておいた浴衣を、悪戦苦闘しながら着付ける。帯に下駄に、髪飾りにと、また金が飛び立っていったが、可愛いと言ってもらいたかった。そして、昊にまだ元気がないなら、花火を一緒に見ながら元気になってもらいたいと思った。


 約束の時間になり、雪葉はアパートの外へ出た。ハナミズキの木は葉が生い茂り、秋に赤く熟れる、小さな緑色の実をつけている。待ち合わせ時刻は六時と、今朝メッセージで送っておいた。返事はなかったが見ているはずだ。五分遅れて、昊は来た。


 十日ぶりに見る昊は、何一つ変わらず、格好良かった。雪葉にとって、そこにいるだけで褪せた世界が彩るような存在だ。


「こんばんは、昊くん」


 来てくれた嬉しさを抑えられないまま笑いかけた。


「今週、夜に行かなくて、すみません。昊くん、忙しいかなと思って」

「いや、大丈夫」


 しかし昊の態度は冷めていた。目もろくに合わせないまま、浴衣も見ているのかわからないまま、「行こっか」と歩き出す。まだ元気がないのかなと思いながら、雪葉は昊の後ろをついていった。


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