第26話

「お? 珍しく気ぃ合うじゃん陣之内。わかってんな」


 昊は陣之内の背を親しげにばしりと叩いた。そして中ジョッキを空にし立ち上がる。


「じゃ、俺行くわ。彼女が手料理作って待ってるんだ。おっ先ー」


 帰っていく昊に、向井は愕然とする。


「なんだあいつ……彼女を自慢しに来ただけか……!」

「なんだか、いまの彼女とは、まじめに付き合ってるらしいよ」


 沖が教えると、向井は「ほんとかー?」と片眉を上げた。


   ×××


 問題ないと思われた昊の確認漏れは、しかし河嶋には許せないことのようだった。翌日から、河嶋の態度が変わった。指示されてもいない作業を口頭で伝えたと言い出し、昊の誤りとして全プロジェクトマネージャーのメーリングリストに回す、という行為をされた。


 通常業務でも、話しづらい返しばかりをされるようになった。口調も態度も、昊を見下し、ばかにするもので徹底していた。


『あーあ、こっちが言いたいこと、全然わかってくれてないなぁ。そもそもわかろうとしてないんじゃない?』

『考えれば判断できるじゃん。いちいち確認するようなこと? こっちも忙しいのにさー』

『はぁー。ちゃんと報告してくれなきゃ。お客さまの意見無視して進めて、どうすんの?』


 昊の報告を曲解したようなひどいやりとりが、毎日繰り返された。あまりに理屈が通っていない時は、控えめながらも意見してみた。すると鼻で笑われ一蹴された。もはや、会話以前の問題だった。


 こういった場合の九割方の理由は決まっている。嫌われたのだ、河嶋に。


 だが昊には、あの程度でと疑問に思う気持ちが正直あった。もちろん、その程度を判断するのはノヴァソリューションの顧客である河嶋だ。どうにか挽回したかったが、機嫌を損ねた相手の対応は非常に難しい。強固な壁を作られてしまったら、ひとまずは相手の気が済むまで耐え、時間をかけて地道に信頼を戻す以外にない。あとは河嶋にびを売るという手もあるだろうが、個人的にはあまり好かないやり方だ。言いがかりのような態度をされることへの自社への相談も、最終手段だ。


 手持ちの作業がひと区切りついたところで、昊はビル内の喫煙ルームへ向かった。精神的に疲弊している時は、煙草を吸う。喫煙所というものは、エンジニアたちと情報交換をする場にもなる。たまたまいたチームのメンバーや、他プロジェクトの顔見知りと雑談しながら、上手く気分が切り替わったところで喫煙ルームを出た。


 河嶋からの嫌がらせはつらいが、とにかくは誠実に頑張るしかない。心の内で気合いを入れ、プロジェクトルームへ向かう。途中、スーツのポケットで会社携帯電話が振動した。着信相手の表示を見て、昊は通行の邪魔にならない廊下の端へ移動する。


「はい、伊桜です」


 電話に出ると、受話口からは、よく聞き慣れた声がした。


『お疲れさまです。久我くがです』


 昊の自社の直属の上司であり、前任のプロジェクトマネージャーでもある久我だった。


「お疲れさまです」

『最近電話してなかったから、二ヶ月ぶりくらい? 調子どうですか? PMなって、半年経つけど』

「井上さんや柏崎さん、ほかにもメンバーのみなさんに助けていただきながら、どうにかやってます」

『そっか。手のかかるメンバーは残してないはずだからね。お前にも、いい勉強になってると思うよ』

「はい」


 要件は、ただの近況確認だろうか。考えたところで、久我は話を切り出した。


『まあでも、残念なんだけどさ。お客さまから、苦情が入っちゃったんだよね。――お前に』


 耳に響いた言葉を、すぐに理解し切れなかった。


「え……」

『河嶋さんからね、また俺に戻せないかって、言われちゃってね』


 電波から変換され届く、久我の音声を、呆然とただ聞く。


『そんなわけだから、一応、今月を目途に、お前は別案件に移ってもらうことになるから。俺もいまの案件まだあって、当面の間はそっち行けるの、火曜と木曜だけになっちゃうんだけど、それでもいいってことだったから。引き継ぎあるし、今月の終わり辺りに、一回そっちのビル行くわ。俺が入れるよう、手続き進めてもらってるから――』


 久我の声が、耳の奥のほうで響いていた。声が出ない。具体的に何がいけなかったのか、久我に、河嶋に、理由を問い質したかった。


 だがそんなことをしても、決定が覆ることはもう絶対にないだろう。意味がまるでないことがわかるから、昊はすべてに了承をして、通話を終えた。


   ×××


「……お先に失礼します」


 パソコン作業をする人たちがいるだけの、静かなデスクの島から、今日も定時後十分もしないうち、一番初めに席を立つ。一時間程度の残業をする人が多い中で、最も心臓がひやりと小さくなる瞬間だ。何人かが「お疲れさまでーす」と小さく返してくれて、心の緊張はわずかに和らぐ。


 後ろめたい気持ちを完全に切り替えられるのは、駅まで数分の道を歩き、さらに電車に乗る頃だ。鉄の連結部が引き合う甲高い摩擦音の後、窓の風景が動き出す。さて、今日の夕食は何を作ろうと、雪葉は考える。恋愛は不思議だ。悩みも嫌なこともつらいことも、昊といると、すべてが気にならなくなる。


 駅からスーパーへ向かい、食材が入った袋を持ち、真っ直ぐ昊のマンションへ向かう。食材を冷蔵庫にしまってから、一旦自分の家へ戻り、シャワーを浴びる。眼鏡も、コンタクトレンズに取り替える。仕事に行く時は、相変わらず眼鏡だ。眼鏡のレンズにブルーライトカット効果を入れているため、長時間パソコンと睨めっこをしなくてはならないこの職業には、都合が良いところもある。


 昊のマンションに戻り、今日の晩餐にと決めた、チーズ入りハンバーグを作り始める。できあがった頃には、時刻は九時を回っていた。ダイニングテーブルに、料理や食器を並べ、そろそろ帰ってくるかなと椅子に腰かけ待った。


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