第24話
「あ……なら、レモンを」
昊がビールを選び、二人で夜のバルコニーへ出た。椅子に座り、「初旅行にかんぱーい」と乾杯する。
「いいなぁこの、日常を忘れられる感じ」
「ふふっ。旅の醍醐味ですよね」
バルコニーの欄干の向こうに、砂浜と海が見えた。夜の海は黒く、呑み込まれそうな怖さがある。だがその上には、星が綺麗に見えた。ビルの明かりが一つもないからだ。雪葉は故郷の星空を思い出した。街の明かりがないと、夜の闇は濃くなるが、反して星は光り輝く。
毎日、目の前のことで忙しく、時は慌ただしく過ぎていくばかりだ。受験に惨敗し、夢破れ、とりあえず社会的な立場を得たくて、逃げるように都会に出て働いた。友人がみな大学へ通う中、自分だけが社会で宙ぶらりんな存在な気がして、立場が欲しかった。頑張って、頑張って、気づけば五年が経っていた。自分には何もないから、何かを掴みたくて必死だった。
このまま、いつまで同じ生き方を続けられるだろうと、不安になることがある。将来のことを考えれば、気は沈む。
けれどいまだけは、時の流れが緩やかだった。幸せだ。昊と付き合ってから、楽しいことだらけだ。
「……昊くん。あの」
「ん?」
「旅行に誘ってくれて、ありがとうございました。私いま、すごく楽しいです……」
楽しさが溢れて、抑えられない。昊の顔が近づいてきて、唇が触れ合った。一旦離れ、すぐにまた重なる。飲んだばかりの酒の味がした。口づけは徐々に深くなり、激しさを増していった。いままで何度かしたキスとは、まるで別物だった。
それから先は、恥ずかしさに
「――俺、今日誕生日なんだ」
枕元の時計の日付表示が、気づけば変わっていた。昊がベッドで横になったまま言う。同じように横になっていた雪葉は、驚いて頭を上げた。
「言ってくれたら、プレゼント……」
「いいよ。一緒に旅行できたから、じゅうぶん」
抱きしめられて、口を塞がれた。しばらくまたキスをした後、昊が訊いた。
「雪葉は? 誕生日いつ?」
「私は、秋――十月です」
「へえ。雪がついてるから、冬だと思った」
「父がつけたんです。十月に、父が山登りしていた時に、山に初雪が降ったからって。私、その日に産まれたらしくて――。あ。命名の良い思い出ふうに聞こえるかもしれませんが、臨月に嫁を放っておいて、泊まりがけで登山するような人ですよ。仕事でもなく、趣味で。信じられません」
「……離婚、してるの?」
昊はどこかで察したのだろう。雪葉は困り笑みで頷いた。
「はい。私が高校生になる頃に、母が家を出ることを決めて」
母は、子育てをほぼ一人でやってきた。ずっとパート勤務だったが、離婚をする数年前から正規雇用してくれる職場を探し、仕事が安定したところで離婚した。
父は問題が多々あり、一緒に暮らしたいとは到底思えない人だった。だがそれでも、決して悪い人ではなかった。三人で家を出ていく時の父の顔を、雪葉はいまでもたまに思い出す。だから雪葉は、帰省した時は、一人で暮らす父の様子も見に行っている。
×××
一線を越えた後は、昊との距離がずっと近くなった気がした。本当の恋人同士になれた気がした。
日曜日だけでなく平日も会いたくて、その想いを口にすると、昊はマンションの合鍵を渡してくれた。いつでも来ていいと言われたので、雪葉は仕事帰りに昊の家へ行き、夕飯を作って帰りを待つようになった。そのまま泊まることも増えた。朝自分のアパートに戻り、仕度をして出勤する、半同棲のような生活を送ることが続いた。
だから仕事は、毎日定時で帰った。振り分けられた作業が終わった後も、定時まで一時間ほど、雪葉はまだ仕事を続けているふりをした。早めに報告をしても、また追加の仕事を割り振られ、果てにはほかの人の作業の手伝いもさせられることは経験済みだ。それでは早く帰れない。
定時直前に、仕事完了をチームリーダーに報告し、次の仕事を振られる前に、「お先に失礼します」とそそくさと仕事場を出る。これで無事に定時に帰ることができた。
昊と恋人関係になって以来、私生活にばかり気が向いてしまい、ずっとそんな仕事ぶりだった。こんな働き方だから、当然ながら次の契約延長はなかった。残るパートナー会社の社員もいたが、雪葉はその中に選ばれなかった。七月中に、また面談をした。八月から、新しい現場で別の案件に携わることになった。
現場も人も変われば、いつもなら残業しながら少しでも早く慣れようとするところだ。でも昊に夕食を作りたく、作業を多く割り振られないよう、八月に入って現場が変わってからも、ゆっくりと仕事をした。自分の限界よりも少ない量を限界に見せ、新しいチームリーダーから任される作業量を減らし、定時で帰った。
仕事に対して
「――雪葉って、お尻のすぐ上に、三角形あるよね」
昊が、服を着る雪葉をベッドの上で眺めながら言った。雪葉の腰の左側には、ほくろが三つ、白い肌に浮かんで小さな三角形を作っていた。雪葉は真っ赤になって、キャミソールの裾で腰を隠した。
「気にしてるところなので、見ないでください!」
「なんで? 俺、好きだよ。……そそるよね、位置が」
雪葉は首まで赤くして口を開閉した後、「変なこと言ってないで、昊くんも服着てください!」とキッチンへ向かった。
日曜の昼間、もう、朝食なのか昼食なのかわからない時刻だ。手早く作ったミートソースのパスタを二人で食べながら、会話の途中で雪葉は言った。
「そういえば、今月、市の花火大会ありますよね」
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