第16話

「でも、仕事に対してはすごくまじめなんだよ。それにそもそも、そういうんじゃないから。……私なんか、相手にされるわけないし」


 釣り合うわけがない。今日だって、デートというわけではないと、いつも仕事に行く服装と変わらないものにした。着飾ったら、自惚うぬぼれた勘違いをして気合いを入れているみたいだ。ただ、いつもより髪を丁寧に梳かし、結わないで下ろしてはみた。


 伊桜が何故連絡先を訊いてきたのかが、疑問だった。理由としてあり得るならば、借金の保証人になって欲しいとか、マルチ商法の会員になって欲しいとか、その手の頼み事だろうか。岳陽は冴えない表情のまま言った。


「俺は、心配してるよ。雪葉はこっちに知り合いもいねえし」

「大丈夫だよ。もう五年も一人でやってきてるんだから」

「……それに雪葉、男とまだ付き合ったことねえし」

「な、何言ってるの!? 私だって、こっち来てから、たーちゃんが見てないところでお付き合いの一人や二人、あったかもしれないでしょ!」


 まるで信じていない眼差しを向けた後、岳陽は溜め息で話を打ち切った。


「じゃあ、俺行くよ。体に気をつけてな」

「たーちゃんもね。夏まで試験で忙しいだろうから、体調管理、しっかりね」


 岳陽が帰っていった後、伊桜が店から出てきた。今日の伊桜の私服は、グレーの長袖にジーンズという簡素な組み合わせだ。だが顔とスタイルが良いため、どんな服装でも格好良く見える。人生とは、まったくもって平等じゃない。


「あれ? 弟さんは?」

「行きました。元々、こっちにいる友達のところへ、これから行く予定で」

「……そっか」

「急に、すみませんでした。何だか、心配だったみたいで……」


 曖昧な笑みを浮かべる雪葉に、伊桜は沈黙を返す。一旦会話に間ができた。伊桜が訊く。


「あの。これから行きたいところとか、ある?」

「……え!?」


 どういう意味だろうか。雪葉は何を聞かれているのかわからなかった。質問の意味はもちろんわかるのだが、どういう意図でこんなことを訊いてくるのかがわからない。


 黙り込む雪葉に、伊桜は居心地悪そうに目線を泳がせる。彼自身も、戸惑っているように見えた。


「行きたいところは……特には」

「あー。じゃあ、いま買いたいものとかは?」

「……夕方までに、さがるまーたに食料品を買いに行こうとは、思ってましたが」


 仮にデート的なものに誘われているのだとしたら、微妙過ぎる選択だ。伊桜がぎこちない笑顔で頷く。


「じゃあいまから行く? 俺、荷物持つよ」

「え! いやそんな、いいですっ!」


 申し訳なさ過ぎる上、そこまでしてもらう理由もわからない。


「大丈夫だよ。暇だから」

「いえ。ほんと、いいです……」


 伊桜が途方に暮れたように首の後ろを掻くので、雪葉は何も提案しないのが、逆に悪い気がしてきた。


「……なら、代わりに、伊桜さんのおうちに行ってもいいですか?」

「……え?」

「あっ、だめだったら、いいんですけど! ……すごく、きれいなマンションだから、一度、中を見学してみたいなって、ずっと思ってて」

「…………いいけど」


 不思議な流れで、二人で伊桜のマンションへ向かうことになった。普通は、異性の家に単身で気軽に上がり込むものではないだろう。だが相手は仕事関係の人で、さらに雪葉など相手にせずとも、女に困るわけがないと思われる人だ。


 事故も誤りも起きはしまい。心にあるのは新築マンションへの純粋な興味のみ、適当な会話をしながら歩く。伊桜だって雪葉の部屋を見たのだ。


 十四階建ての新築マンションは、エントランスの外観から真新しさを放っていた。白とグレーを用いたモダンな造りで、入ってすぐ横に管理人室の小窓がある。いまは管理人の姿はない。平日の昼間以外は休みなのだろう。


 伊桜が自動ドアをくぐって中に入っていく。ロック解除の動作がなかったので、雪葉は首を傾げた。


「鍵を開けなくても、通れるんですか?」

「このマンション、ハンズフリーキー対応してるから」

「ハンズフリー、キー?」


 初めて聞く単語だ。伊桜が、ポケットから黒くて小さな四角い物体を取り出す。


「これ、鍵。車とかでも見たことない? 持って近づくだけで、ロックが解除される仕組み」

「へ、へえーっ」


 手動の鍵しか知らない雪葉は、自動車と建築のIT化に驚いた。


 自動ドアの奥には、広いエントランスロビーが広がっていた。そこにはなんと、卓と椅子が置かれたラウンジがあった。ホテルの受付ラウンジさながらだ。雪葉は思わず呟いた。


「鍵を忘れた夜は、ここに座って待っていれば良かったのでは……」


 ほかのマンションの住人が自動ドアをくぐった隙に、一緒に入ることは容易そうだ。伊桜は「ふっ」と笑い損ないの息を漏らした。


「やっぱあの時、かなり迷惑だった?」

「あ、いえ、そうではなくて!」

「ここ、住んでる人、結構通り過ぎるからね。それに、もしかしたら元村さんなら、家に上げて飲み物でも出してくれるかもって。そっちのほうが、のんびり二時間潰せるし」


 悪戯いたずらとがめられた子どものように首をすくめ、伊桜は「ごめんね」と謝る。つまり、雑なもてなしは受けないだろうと計算したということだ。


 厚かましいと腹が立つどころか、伊桜の茶目っ気のある笑顔にまあいいかと思ってしまう。我ながら何とも単純だ。しかしあの夜がなければ、いまこうして伊桜と二人でいることも、なかった気がする。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る