二章「盛夏」

第15話

 何故、元村もとむら雪葉ゆきはに連絡先を訊いたのか。しかも、わざわざ彼女が帰ってくるのを家の前で待ち伏せてまで。


 こうは自分でも理由が判然としなかった。彼女に惚れたのか。否、そこまでではない。ただもっと単純に、純粋に、このまま元村雪葉との関係が終わってしまうのが、惜しいと思ったのだ。


   ×××


 雪葉のアパートの部屋の、扉の前に立つ。日曜日、時刻は正午十五分前。互いに休日である今日、近所で昼食でもどうかと昊から誘った。


 深い意味はない。ただ単に、家が近く、どうせどちらも昼食は食べるものなのだから、ならば一緒に食べようかなと軽く考えただけだ。約束をとりつけたのは先週の水曜日、日数にやや余裕を持ったおかげか雪葉は快く了承してくれた。


 正午に、雪葉のアパートの前で待ち合わせることになっていた。早めに着いたので、部屋まで迎えに行くことにした。


 そして玄関チャイムを押そうとすると、扉から知らない男が出てきた。時が止まったように固まる昊を、男は無遠慮に見つめ、眉をひそめる。歳は二十歳を超えた辺りの、短髪で、運動部の部活でもやっていたように胸板が厚い男だ。大きなショルダーバックを肩に提げている。部屋の奥から雪葉の高い声がした。


「たーちゃん! 洗ったパンツ、干したまま忘れてる――……あ、あれ? 伊桜さん!?」


 『たーちゃん』及び『洗ったパンツ』という単語に、まずは雪葉の男なのかと思った。男は、昊の内面を表に映し出したように、深く眉根を寄せている。低い声を出した。


「雪葉。誰?」


 下の名前を呼び捨てだ。


「前の現場で一緒に働いてた、ええっと、上司の方」


 厳密には顧客だが、実質は同じチームとして一つのプロジェクトに取り組む上司みたいなものだ。だからだろう。


「すみません伊桜さん。いま出ようと思ってたところで」

「……いや。俺が、来るの早かったから。……えっと」


 視線で、この男は誰だと窺う。雪葉はすぐに察した。


「あ、弟です。昨日から、こっちに遊びに来てて、うちに泊めてて」


 弟か、と昊はゆるゆると警戒を解いた。言われてみると目の辺りが似ている。それに顔をよく見れば、雪葉の部屋にあった家族写真の中にいた青年である。写真ではあひるのキャラクターコナルドの大きな帽子をかぶっていたため、すぐ気づかなかった。


 警戒を解いた昊に反し、弟はまだ鋭い目で昊を見ていた。


「昼から用事あるって、この人と?」

「うん、そう。一緒にご飯食べに――あ、伊桜さん。いま出ますのでっ」


 雪葉は弟への返答よりも、昊への気遣いに必死のようだった。慌ただしく鞄を手にし、玄関まで来る。外へ出て、三人でアパートの階段を下りた。


「――じゃあ、たーちゃん。お友達の家まで、気をつけて行ってね」


 笑顔で見送ろうとする姉に対し、だが弟は言った。


「俺も一緒に飯食っていい? 腹減った」

「…………ええっ!?」

「俺が行っちゃ、まずい感じ?」

「ま、まずい、っていうか……」


 雪葉は困惑していた。昊は話の流れを汲み、人好きする態度で間に入った。


「俺は大丈夫だよ」


 弟からは、意地でも一緒に行くという気迫を感じた。


「三人で、食べに行こっか」


 雪葉とは恋人同士というわけでもないのだから、二人きりである理由はない。家から歩いて、一番近い飲食店であるファミリーレストランに入る。


 本当は、落ち着いた雰囲気のイタリアンで昼食をと思っていたが、やめた。昼時だったが、店内には待たずに入れた。メニュー表から、各々食べたい品を適当に注文する。


「弟さんとは、何歳離れてるの?」

「三つです」


 雪葉の答えに、弟がにこりともしないで付け足す。


「いま、大学四年です」

「じゃあ就活だ。大変だね」

「地元の役所、受ける予定なんで」

「なら、そろそろ公務員試験の時期かー」

「はい」


 雪葉が朗らかに言う。


「去年から、勉強がんばってるんですよー。ね?」

「俺は、雪葉みたいに人生ギャンブルはしないからな。堅実なんだ」


 雪葉は笑顔を固めた後、転じて羞恥と不満が混じった顔をする。


「じ、人生ギャンブルって……。いまは、ちゃんと現実を見て、行動してるよ」

「どうだかな」


 弟は、自分から提案しただけあり、昊へなんら怖気づく気配がない。雪葉のほうは、慣れない状況に居心地悪そうにもじもじと身じろぎしている。


 今日の雪葉の服装は、仕事でよく見る紺色の、飾り気のないものだ。いつも通り眼鏡もかけている。だが普段一本に結っている髪は下ろしていた。髪を下ろす雪葉を見るのは初めてで、親しみやすさを感じた。次の会話が開始する前に、雪葉は意を決したように昊を見た。


「あの、ごめんなさい。いきなりなんですけど、お手洗い行ってきてもいいですか? 出る時、行くの忘れちゃって」


 忘れたというよりは、昊が早めに来たので出る前に行けなかったのだろう。「どうぞ」と頷く。


「すみません。料理がきたら、食べちゃってていいのでっ」


 雪葉は、二人きりにさせることを心底申し訳なさそうにしながら、席を立った。テーブルに沈黙が降りる。弟がまず、口を開いた。


「遊びで雪葉に手ぇ出すつもりなら、やめてもらえますか」


 恐らく本題であっただろう事柄を、直球で投げ込まれた。なんだこの弟、と昊は考える。やはりシスコンか。男女の仲に口を挟むとは、無粋なことこの上ない。


「お姉さん想いなんだね」

「……俺から言いたいのは、それだけなんで」


 昊のほうが五つは年上のはずだが、肝の据わった弟だ。それから雪葉が戻ってくるまで、互いに一言も話さなかった。食事中も、上っ面の会話をして終わる。会計のため伊桜が伝票に手を伸ばすと、雪葉が慌てた。


「あ、伊桜さん。私の分、えっと……」

「払うからいいよ」

「いいです」


 弟が、有無を言わさぬ態度でテーブルに三千円を置いた。頑固な念力まがいを感じ、昊は「ああ……じゃあ」と受け取った。


   ×××


 伊桜が会計をしている間、雪葉と弟――岳陽たけはるは、先に店の外へ出て待っていた。


「雪葉。あいつはやめといたほうがいい。たぶん、女に軽いぞ」

「それは……私も、なんとなく感じてるけど」


 外見も良く、仕事もできて、会話力もあり、あれで女性に放っておかれるわけがない。部屋を雨宿りにされたことを思い返しても、女性に対して根が真面目な人が、簡単に一人暮らしの部屋に入りはしないだろう。


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