第14話

 それからの半月は、またたく間に過ぎていった。次の現場は無事に決まり、引き継ぎも問題なく終わった。もしもの時の資料も残した。これで伊桜のプロジェクトから雪葉がいなくなっても、困ることは何もない。


 最終出勤日は、自社へ帰社もするため午後三時に上がった。最後に、世話になった人たちへ軽く礼を言って回り、チームのメーリングリストへプロジェクト離任の挨拶メールも流す。


 デスク周りの私物であるペン立てや座布団などは、前日までに何日かかけて自宅へ持って帰っていた。綺麗に片付いたデスクを残し、すべてが済んだところで、伊桜がそばへ来た。


「準備、終わりました?」

「はい」


 伊桜と二人でプロジェクトルームを出る。ビルを出る時に、セキュリティカードを返却する相手が必要だからだ。


「本当に、お世話になりました」


 エレベーターに乗りながら、伊桜が口を開いた。


「元村さんには、すごく助けてもらいました」

「いえ、私なんて……大したことは……」


 一階へ着き、歩きながら、次の現場はどこかだとか、とりとめのない会話をした。広い玄関ホールは、他の社員も行き来していた。セキュリティゲートの横には警備員がいて、受付嬢が座る受付カウンターも入り口正面にある。


 二人でゲートを出た後、雪葉は首にかけていたセキュリティカードを外した。カードと一緒に、手に持っていた箱菓子の紙袋も、伊桜に手渡す。


「これ、良かったら、みなさんで食べてください」


 離任する時に箱菓子を用意するのは、以前一緒に現場に入った女性エンジニアがやっていたことだ。いいなと思って以来、真似るようになった。人の入れ替わりが激しいゆえ出会いも別れも淡白で、菓子など用意しない人のほうが多い業界だが、感謝の気持ちとして素敵だ。


「ああ、……ありがとうございます」


 伊桜はぺこりと頭を下げつつ受け取る。


 これで、伊桜と会うのは最後だ。雪葉はしっかりと顔を上げ、目を合わせてほほえんだ。


「本当に、お世話になりました。ありがとうございました」


 深く、頭を下げた。よくある形式通り、伊桜は、「こちらこそ、ありがとうございました」と返した。雪葉はビルの出口へ向かった。伊桜は少しの間後ろ姿を見ていたが、仕事へ戻るため、またゲートをくぐって中へ戻った。


 ビルを出た雪葉は、午後のビル街の歩道を行きながら空を見上げた。四月の終わり、細い雲が伸びる淡い青の空がある。半年以上通ったこのビルとも、通勤路とも、駅とも、すべてお別れだ。この瞬間は、何度経験しても、やはり寂しく思う。


   ×××


「元村です。よろしくお願いします」


 初めはいつも、自己紹介からだ。それからチームリーダーに自分の席へ案内され、環境設定のマニュアルファイルがあるフォルダの位置を教えられる。環境設定とは、必要な開発ソフトをインストールして使えるよう設定したり、データベースにアクセスできるようIDやパスワードを登録したりすることだ。


 新しい現場の初日は環境設定で終わることが多い。マニュアル通りにやっても上手くいかないことが、不思議とある。そうなると教えてくれそうな人を観察して選別し、そして邪魔にならないタイミングで尋ねる。人に慣れるまでが、大変だ。


 三日ほど経った日の帰り道、雪葉はいつものように、駅からスーパーさがるまーたに立ち寄った。夕食の惣菜と朝食のパンを買い、夜九時過ぎ、疲れた足取りで自宅へ向かう。


 アパート前のハナミズキの花は満開だ。花弁の外側へと、白から桃色へ色づく花が、枝いっぱいに咲いている。その下の腰高の石塀に、スーツ姿の男性が腰掛けていた。男性が雪葉に気づき、ゆっくりと立ち上がる。雪葉は呆けて足を止めた。


「……伊桜さん?」


 そこにいたのは伊桜だった。


「もしかして、私、プロジェクトルームに忘れ物でもしてました?」


 何故ここで待っているのか、すぐに思いついた最も高い可能性を尋ねた。伊桜は、一旦雪葉から目線を外し、それからまた目を合わせて答える。


「忘れ物、と言えば、忘れ物なんだけど……」


 数日ぶりに見た伊桜と、彼の声だった。伊桜は、スーツのポケットから携帯電話を取り出して言った。


「俺と、連絡先を交換しませんか」


 雪葉は鞄と買い物袋を持ったまま、瞬きを忘れた。伊桜は続ける。


「あ。会社支給の携帯とかのほうじゃなくてね。……元村さんの、プライベートなほうの連絡先を、教えて欲しくて」


 その表情は緊張がちで、照れ臭さを裏に隠している。


 天気予報通り、今夜は雨が降っていない。代わりにハナミズキの花びらが、夜の歩道にひらひらと舞い降りた。


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