第2話

 席の横に立つと、伊桜がパソコン画面から顔を上げた。輝かしい伊桜に対し、雪葉は従業員数たった七名の、零細れいさい企業に身を寄せている。伊桜のプロジェクトにたずさわれているのは、伊桜の会社の協力会社として契約を交わし、客先常駐勤務として派遣されているからだ。


 雪葉は学歴もなく、容姿も冴えない。化粧もほぼしていない状態で、髪も後ろに一本に結っているだけの、美容院すら半年に一度行く程度の女だ。そんな、女を捨てているような状態に、さらに黒縁眼鏡をかけている。色が黒なのは、赤や青などの彩色フレームは、自分の顔に合わない気がして勇気が出ないからだ。


 そんな残念な雪葉にとって、伊桜は直視するとまぶしいお天道様のような存在だった。


「頼まれていた帳票ちょうひょうの修正、終わりました。これ、印刷確認したものです。修正ファイルのファイルパスは、メールで送っておきました」


 伊桜は帳票用紙を受け取りながら、口元に笑みを浮かべつつ、雪葉を見上げる。


「ありがとう。確認しときます」


 やはり、格好良い。しかし胸が高鳴るなんてことはない。雪葉は自席へ戻る。


 自分のような下層の人間など、眼中にもないだろう相手に緊張しても、どうしようもない。たとえ天と地がひっくり返ったとしても、伊桜とは、絶対に釣り合わない。


   ×××


 所定勤務時間は朝九時から夜六時までだが、残業をするため会社を出る時刻は毎日八時を過ぎる。そこから電車を乗り継ぎ自宅の最寄り駅に着くのはさらに一時間後、家に着くのは十時近くだ。それを五日間繰り返すのはつらいので、最も疲れを感じる木曜日の今日、雪葉はいつもより帰る時刻を一時間早めることにした。昼休憩時間の昼寝をつぶし、仕事をした分である。まだ仕事をしている人たちに、気持ち肩をせばめながら、夜七時、雪葉は会社を出た。


 一時間早く帰れるだけで、気分は大いに異なる。自宅の最寄り駅に着き、駅の出口階段を下りながら、冷蔵庫に賞味期限切れの卵が残っていたことを思い出した。夕食にオムライスでも作ろうかなと考える。作る手間はあるが、早く帰った分気力も残っている。


 家へ向かう前に、駅前の本屋に少しだけ寄った。買いたい本があるわけではないが、ふらりと本屋に寄るのが雪葉は好きだった。本屋には、心おどる無限の空想が詰まっている気がする。いるだけで楽しい。向かう本棚はいつも決まって、女性向け小説がまとめてあるコーナーだ。


 雪葉は恋愛小説が大好きだった。格好良い男性と、ときめく恋をする小説だ。毎月出る新刊を必ずチェックし、家計との兼ね合いを考えながら買う。食べ物や服を我慢してまで本を買ってしまうこともよくある。それくらい好きだった。二十分ほど本棚をただ眺めて回る。ささやかな幸せを存分に吸い込んでから、雪葉は本屋を出た。


 自宅のアパートまでは徒歩八分で、駅近と呼ぶには微妙な距離である。間に個人経営のスーパーマーケットがあり、雪葉は普段、夜九時過ぎに、総菜を買いに寄る。今日は、オムライスの具材の人参ニンジンと鶏肉を買うために立ち寄った。


(あ、イチゴ、おいしそう)


 買い物かごに人参を入れた後、目立つ位置に陳列された苺が目に入った。いまは三月、苺が旬の季節だ。果物は家計に優しくないため基本的に買わない。しかし空腹だったこともあり実に美味しそうに見えた。広告の品らしく、値段も三九八円、悪くない。


 雪葉は売り場の前で苺をじっくりと見定めた。どのパックが最も苺の数が多く、かつ大きく色艶いろつやもいいか。パックを二つまで絞ってから、両方を持ち上げ、いたみや潰れがないか底面も確認していく。せっかくたまに買うのだから、良い品を買いたい。


 ようやく買う苺が確定した。けち臭くて知人には絶対に見られたくない姿だ。そんなことを思いながら振り返ったところで、すぐ後ろに立つスーツ姿の男性と目が合った。


 すらりとした長身にダークグレーのスーツ、仕事終わりのためか、少しだけゆるんだネクタイからは首元がのぞく。鼻梁びりょうの通ったおも立ち、やや可愛い印象を持つ目元、文句なしの好みのイケメンだ。雪葉は呼吸を忘れた。相手が好みのイケメンだったからではない。


「あ。やっぱり元村さんだ」


 後ろに立っていたのは伊桜だった。雪葉は背筋に汗が伝うのを感じた。どこから見られていただろう。貧乏たらしく苺を選別していたところから見られていただろうか。そんな雪葉の内心など知らず、伊桜は気の抜けた笑みを作る。


「すみません。素通りしたほうが良かったんだろうけど、ちょっと似てるなぁって思って。見てたら、目、合っちゃった」

「……は、はは」


 とりあえず愛想笑いを返した。頭が衝撃しょうげきから抜け出せない。伊桜は関係なく話題を振ってくる。


「元村さんって、家、この辺なんですか?」


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