上司が会社に家のカギを忘れたと言うので
砂山むた
一章「春の雨」
第1話
三度目の大学受験の不合格も、独り、パソコン画面の前で知った。
人生って、理想通りにはいかない。
×××
「おっ。この店
「彼女と行けばいいじゃないですか。歓迎会の時、いるって言ってませんでしたっけ?」
「ああ……。この前、別れたんすよ」
昼休憩中のプロジェクトルームは静かだ。社員食堂や外へ食事に行く者で八割方の席は空き、残る者は昼寝をしている。忙しい製造工程が終わり、単体テストも終盤に差しかかっているいま、昼休みまで仕事をしている者は
「え、そうなの! なんで?」
「いやぁ。『ぜんぜん構ってくれないー!』とか言われちゃって」
背面側のデスクの島から聞こえる会話は、プロジェクトマネージャーの
「ははっ。二十七歳で、
「そりゃあ、上から期待してるよって任されたら、受けるしかないでしょう」
伊桜は、ひと月前に新しく就任したプロジェクトマネージャー(略称PM)、つまりはプロジェクトの司令塔だ。プロジェクトの途中でマネージャーが交代することはあまりないのだが、会社事情か先月前任と交代となった。
「でもほんと、社会人なってからますます誰も長続きしなくて、僕の花の二十代は仕事に捧げて終わりそうです」
「自慢にしか聞こえませんよ。私なんか、伊桜さんくらいの時は、仕事の合間にどうにか女の子との出会いの場に行ったって、
「それは、小笠原さんの魅力を理解できる女性が、そこにいなかっただけですよ。僕が女なら絶対飛びつきますもん。『あなたが書くコード、なんてすばらしいの! わかりやすくて無駄もなくて、おまけにどこで出たエラーなのか一瞬でわかるよう、とても細かくログ出力してくれてある!』……って」
「そんな女いねえー!」
雪葉は画面をスクロールさせながら、わずか二メートルほど後方の会話をしっかりと聞いていた。プロジェクトルームというのは、プロジェクトの間だけ急ごしらえで作る開発室で、基本はデスクの間隔は狭く、設備も悪い。いまも、普通に立てば
システム開発というものは、人員が常に大量に必要なわけではない。最も必要なのは製造及び単体テストまでのほんの二、三ヶ月間のみで、その工程期間中、普段使われていない部屋を使用してプロジェクトルームを作り、忙しい時期を乗り切る。
雪葉はメールソフトを立ち上げながら、しみじみと思った。
(伊桜さんって、やっぱりモテるんだなぁ)
メーリングリストの宛名一覧に目を留める。伊桜
技術者というのは、技術があってもコミュニケーション能力が欠けている者も多い。だが伊桜はソースコード(プログラミング言語で書かれた文字列)も読め、会話の要領もよく、人当たりもいい。聞くところによると有名な大学を出ているらしく、そのまま大手企業に就職、おまけに長身で顔も良しと、絵に描いたような完璧な御仁だ。エンジニアは外見にこだわらない冴えない容姿の者が多く、眼鏡率も驚異の八割超えなのだが、その中で異彩を放っている。
画面の右下に表示された時刻が、昼休憩終了を示す午後一時に変わった。数分前からぱらぱらと人が戻ってきていて、座席もほぼ元の通りに埋まる。午後の作業開始だ。だが声が飛び交うことはない。響くのはキーボードの音と椅子がきしむ音のみである。仕事の指示は、基本はメールやメッセンジャーソフトで行われるからだ。
雪葉は画面に表示された印刷ボタンを押して立ち上がった。扉際にあるプリンターへ向かう。そして出力された数枚の用紙を手に、今度は
「伊桜さん」
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