上司が会社に家のカギを忘れたと言うので

砂山むた

一章「春の雨」

第1話

 三度目の大学受験の不合格も、独り、パソコン画面の前で知った。


 人生って、理想通りにはいかない。


   ×××


「おっ。この店うまそう。でも、男だけじゃ行きづらそうなとこだなー」

「彼女と行けばいいじゃないですか。歓迎会の時、いるって言ってませんでしたっけ?」

「ああ……。この前、別れたんすよ」


 昼休憩中のプロジェクトルームは静かだ。社員食堂や外へ食事に行く者で八割方の席は空き、残る者は昼寝をしている。忙しい製造工程が終わり、単体テストも終盤に差しかかっているいま、昼休みまで仕事をしている者は元村もとむら雪葉ゆきはくらいのものだった。雪葉は持参した弁当をものの五分ほどで食べ終えパソコンに向かっていた。作業の進捗しんちょく具合はいつも通り、やや遅れ気味だ。


「え、そうなの! なんで?」

「いやぁ。『ぜんぜん構ってくれないー!』とか言われちゃって」


 背面側のデスクの島から聞こえる会話は、プロジェクトマネージャーの伊桜いざくらと、その隣の席に座る、初期からプロジェクトに関わっているベテランエンジニア小笠原おがさわらのものだ。携帯電話でグルメ記事でも見ながら話をしているようだったが、話題が伊桜の恋愛話になり、思わず耳をませてしまう。


「ははっ。二十七歳で、PMピーエムなんかやってるから」

「そりゃあ、上から期待してるよって任されたら、受けるしかないでしょう」


 伊桜は、ひと月前に新しく就任したプロジェクトマネージャー(略称PM)、つまりはプロジェクトの司令塔だ。プロジェクトの途中でマネージャーが交代することはあまりないのだが、会社事情か先月前任と交代となった。


「でもほんと、社会人なってからますます誰も長続きしなくて、僕の花の二十代は仕事に捧げて終わりそうです」

「自慢にしか聞こえませんよ。私なんか、伊桜さんくらいの時は、仕事の合間にどうにか女の子との出会いの場に行ったって、はしにも棒にもかからなくて」

「それは、小笠原さんの魅力を理解できる女性が、そこにいなかっただけですよ。僕が女なら絶対飛びつきますもん。『あなたが書くコード、なんてすばらしいの! わかりやすくて無駄もなくて、おまけにどこで出たエラーなのか一瞬でわかるよう、とても細かくログ出力してくれてある!』……って」

「そんな女いねえー!」


 雪葉は画面をスクロールさせながら、わずか二メートルほど後方の会話をしっかりと聞いていた。プロジェクトルームというのは、プロジェクトの間だけ急ごしらえで作る開発室で、基本はデスクの間隔は狭く、設備も悪い。いまも、普通に立てば椅子いすが後ろの椅子と衝突してしまうほどの狭さだ。回転させて横から立つ配慮が必須である。


 システム開発というものは、人員が常に大量に必要なわけではない。最も必要なのは製造及び単体テストまでのほんの二、三ヶ月間のみで、その工程期間中、普段使われていない部屋を使用してプロジェクトルームを作り、忙しい時期を乗り切る。


 雪葉はメールソフトを立ち上げながら、しみじみと思った。


(伊桜さんって、やっぱりモテるんだなぁ)


 メーリングリストの宛名一覧に目を留める。伊桜こう。若くしてマネージャーに抜擢ばってきされるだけあり、優秀な人だ。


 技術者というのは、技術があってもコミュニケーション能力が欠けている者も多い。だが伊桜はソースコード(プログラミング言語で書かれた文字列)も読め、会話の要領もよく、人当たりもいい。聞くところによると有名な大学を出ているらしく、そのまま大手企業に就職、おまけに長身で顔も良しと、絵に描いたような完璧な御仁だ。エンジニアは外見にこだわらない冴えない容姿の者が多く、眼鏡率も驚異の八割超えなのだが、その中で異彩を放っている。


 画面の右下に表示された時刻が、昼休憩終了を示す午後一時に変わった。数分前からぱらぱらと人が戻ってきていて、座席もほぼ元の通りに埋まる。午後の作業開始だ。だが声が飛び交うことはない。響くのはキーボードの音と椅子がきしむ音のみである。仕事の指示は、基本はメールやメッセンジャーソフトで行われるからだ。


 雪葉は画面に表示された印刷ボタンを押して立ち上がった。扉際にあるプリンターへ向かう。そして出力された数枚の用紙を手に、今度は最奥さいおうのマネージャー席へ向かった。


「伊桜さん」


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