第3話
淳一さんが亡くなったのは、突然のことでした。散歩中に足をつまずかせて頭を打った。その打ちどころが悪かった、と私は聞いています。相違ないですか?
……なるほど。そうなんですね。
私がその話を耳にしたのは「ひまわり」の職員が勇太君を訪ねて田所家にやってきた時のことです。
それまでの数日間、淳一さんは家に帰ってきませんでした。私は彼の行方が気になっていましたが、それ以上に腹が減ってしようがありませんでした。あのスープが食べたい。温かな幸福で胃袋を満たしたい。けれど、勝手に台所に立つわけにもいきませんし、そもそも材料がありません。うずくまって空腹に耐え忍んでいた時に、外から扉をたたく音がしました。普段であれば来客があったとしても勇太君が対応することはなかったのですが、さすがの彼も何かを感じ取っていたのでしょう。彼はおぼつかない足取りで、階下へ降りてきました。「ひまわり」の職員が勇太君に話をしている間、私は玄関の近くに身を潜めて、ずっと聞き耳を立てていました。
淳一さんの死の知らせを聞いても、勇太君の態度は相変わらず憮然としたものでした。そもそも他人と言葉を交わしたのも数年ぶりの事だったでしょうから、うまく感情を表現することができなかったのかも知れません。
「ひまわり」の職員は、これからの事について淡々と申し伝えました。遺体の引き渡し、火葬の段取り。就労支援を受ける意志があるかの確認。勇太君は黙って話を聞いていましたが、淳一さんの遺体をそのまま荼毘に付する事だけは断固として拒否しました。
何故かはわかりませんでした。そういった葬儀の様式については、ご家庭によってそれぞれ事情でもあるのだろうと、その時の私は考えていました。
勇太君のたどたどしい主張を「ひまわり」の職員が全て受け入れたかどうかはわかりません。しかし、そうやって淳一さんの遺体は、一度田所家に帰ってくることになりました。
仏壇のある和室にそのまま置かれた簡素な棺を前にして、勇太君はただぼんやりと、自らの面倒を見続けてきた父親の変わり果てた姿を見つめていました。
私は相変わらず身を潜めたままでしたが、淳一さんが亡くなったという事実にはそれなりにショックを受けていました。
悲しかったのです。
当然、私と淳一さんの間に交流などは一切ありません。ですが、私はずっと彼の作った温かいスープを食べて命を繋いできました。
そのスープは、淳一さんが息子の勇太君の為に愛情を込めてこしらえた物でした。少しでも栄養のあるものを食べさせたい。お金も無いなかで必死に材料をかき集め、長時間味を見ながら煮込んだスープです。淳一さんの勇太君への思いは、他人である私にもひしひしと伝わってくるものでした。
私は、淳一さんを人として尊敬していました。老いてなお、献身的に息子の世話をするその姿に、愛情というものの姿を見ていました。
雑然と積まれた衣服の下で私が涙を拭いていると、それまで茫然と棺を眺めていた勇太君がすっくと立ち上がり、台所の方へと向かっていきました。
何をするのだろう。そう思って私は、彼の姿を出来る限り目で追いかけました。
再度、淳一さんの遺体がある部屋に現れた勇太君の手には鉈が握られていました。鈍い光を放つ鉈は、生前の淳一さんが愛用していたものでした。
ハァハァと荒い息を漏らす勇太君は、棺に眠る淳一さんの遺体を目掛けて、その鉈を振り下ろしました。
ゴッ、と鈍い音がしました。
それは鉈の刃が骨にぶつかった音でした。
解体の経験が少なかった勇太君は、関節の部分にうまく鉈を命中させる事が出来なかったのです。
その時私は、勇太君が何をしようとしているのか、やっと理解することができました。
同時に、勇太君がそのレシピを知っていたという事実に少しだけ驚きました。
なんせ彼は、ほとんど自分の部屋に篭ってゲームをしているばかりで、淳一さんの手伝いをしている姿は一度も見かけた事がなかったからです。
そうです。
勇太君はスープを作ろうとしていました。
人間の肉を加工しやすいように切り分け、血を洗い、皮を剥いで、食べやすい大きさになるまで小さくカットする。
口で言うのは簡単ですが、これは大変な作業です。人間ひとりの身体は想像以上に重たいですし、生半可な力では切れません。勇太君も途中で鉈からノコギリに道具を持ち替えて、必死の形相で加工をしていました。
ですが、淳一さんはずっとこの作業を一人で続けてきたのです。八十を超える年齢だというのに、すごいと思いませんか?
淳一さんのようにジーン・ケリーの鼻歌を効かせる余裕はなかった勇太君でしたが、数時間かけてようやく肉を切り分けるところまで到達しました。
赤黒い血が滲んだ死装束は汚れた衣服の山に積み上げ、勇太君は必要な分の肉を手に持って台所へと向かいました。
肘から指の先くらいの塊ならそのまま煮込む事ができる大きな鍋に水を張り、そこに材料を投入していきます。
正直に言わせてもらえば、彼の調理技術はお粗末なものでした。コンロの火は強すぎてお湯は沸騰していましたし、灰汁取りも不十分です。香辛料や香草が足りないせいで獣っぽい肉の臭いが家中に充満していましたし、全体の味付けもどうしたら良いのかよくわかっていない様子でした。
しかし、父親の淳一さんを弔おうとする勇太君の必死さだけはヒシヒシと伝わってきました。私は彼のことはあまり好きではありませんでしたが、その時だけは同じ気持ちでいたのだと思います。
数時間にわたる調理の末、勇太君はようやく「淳一さんのスープ」を完成させました。
愛用の大きな器にたっぷりとスープを盛り付けると、勇太君は猛烈な勢いでそれにむしゃぶりついていきました。
ガツガツと肉を喰らうその姿は、飢えた獣のようでもありました。きっとお腹が空いていたのでしょう。気持ちはわかります。私も彼と同様に、数日の間何も食べていませんでしたから。
冷蔵庫に入っていた備蓄の缶ビールも、その時にほとんど飲み干してしまったのではないでしょうか。
やがて食卓に突っ伏すような体勢で勇太君が眠ってしまってから、私は隠れていた場所を這い出して立ち上がりました。
足音を立てないようにして、台所へと向かいます。途中、いびきを立てて眠る勇太君の横を通り過ぎました。彼の頬には涙が通った跡が残っていました。父親に対して横暴にふるまってきた彼にも、そういう感情があったのかと、私は少し驚きました。
その時、私もまた不思議と涙ぐんでいました。奇妙な形であったとはいえ、同じ屋根の下で暮らしていた相手です。知らず知らずの内に思い入れを持っていたのかもしれません。
勇太君の丸い背中に赤褐色のシミが滲んだブランケットをそっとかけると、私はスープの入った大鍋の前に立ちました。
いつものように適当なお椀を手に取り、一杯分を盛り付けます。
そのスープは白く濁っており、全体的に嫌な臭いが漂っていました。淳一さんの肉のスープは、淳一さんの作るスープとは違い、あまり美味しそうではありませんでした。
しかし、私はそれに口をつけました。
それが何も持たない私に出来る、淳一さんへの最大の弔いだと思ったからです。
立ち昇る臭気に耐え、私は器に残る最後の一滴までをしっかりと飲み干しました。器を空にした後、舌の上に異物感がありましたので、ペッと吐き出してみたところ、それは毛髪でした。白髪でしたから、淳一さんのものでしょう。勇太君の下処理が甘く、まだ肉に付着していたのです。
もう二度と、淳一さんの作る甘美なスープは飲むことはできない。その事実を強く実感したのは、その時だったと思います。
その夜、私はひっそりと田所の家を出ました。
季節は春を迎えていました。
肌寒さは残っていましたが、生きていけないほどではありません。
霞がかった朧月の下を歩きながら、私は大きく伸びをしました。
次はどこに行こうかと、ぼんやりと考えを巡らせながら片手に携えた鍵開け道具をカチャカチャと弄んでいました。
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