第2話

 若い頃にスリの技を覚えてから、私はこの年齢になるまで盗みを生業にして飯を食ってきました。

 先程、その若い刑事さんが言われたように、刑務所に入っていた時期もあります。

 まぁ、日陰者の人生ですよ。

 まともな仕事に就いてみようと努力してみた事もあるのですが、身に染み付いた悪癖というのはいかんともしがたいものですね。すぐにこちら側に戻ってきてしまいました。

 財布を抜き取る指が震えるようになってからは、空き巣を専門にするようになりました。

 とはいっても、でかい盗みはしません。

 昼の誰もいない時間に忍び込んで炊飯器の中の白飯を茶碗一杯頂いたり、冷蔵庫の缶ビールを一本だけ抜き取ったり、そんな程度の些細なものです。

 やり始めのルーキーはでかい獲物を狙いにいってトチったりもするものですが、私ぐらいのベテランともなると、その日の食い扶持だけを稼げればそれで満足するのです。

 大切なのは気付かれない事です。

 違和感があったとしても、自分の気の所為かな、と家主が勘違いしてしまうくらいが丁度いい。

 そうやって私は長らく暮らしてきました。その生活になんの不満もありませんでした。

 問題が起きたのはある年の秋の事でした。

 長年寝床にしていた住処が、五輪だか万博だかに伴う街のクリーン作戦とかで丸ごと撤去されてしまったんです。

 私は途方に暮れましたよ。

 冬が迫っていましたから。極寒の中では、寝床の有無は文字通り死活問題です。

 私は僅かな小銭と愛用の鍵開け道具だけを持って北風の吹く町を彷徨い歩きました。

 田所、という表札がかかったあの古い一軒家に忍び込んだのは、そんな時の事でした。

 刑事さんは、我々が仕事をしやすいと感じる家の条件はご存知ですか?

 ……ええ。流石です。お詳しいですね。

 田所の家は、まさにそんな特徴を備えていました。手入れされていない庭木は鬱蒼と生い茂っていて外からの目隠しになりましたし、ポストには大量の郵便物が突っ込まれていて、家主があまり几帳面ではない事も予想できました。

 それに加え、玄関先に大量のビニール袋が積まれているのを見て、私はその家に忍び込むことに決めました。袋には多種多様な酒の空き缶と瓶が詰め込まれていました。この家であれば、間違いなく潤沢に酒の備蓄があるだろうと私は予想しました。

 私にとって酒を飲む事は、人生で唯一の楽しみだったんです。

 いつものように鍵を開け、玄関から家に忍び込みました。その瞬間、獣の身体のようなキツい臭いが鼻の奥を突きました。家の中は想像以上の荒れ具合でした。

 とにかく物が散らばっているのです。

 鞄や衣服が至る所に積まれていました。それらはけして、清潔とは言えませんでした。

 ……ええ、赤褐色に汚れていましたよ。

 その時の私には、それをいちいち気に留めるような余裕はありませんでしたが。

 靴を履いたまま部屋に入り込み、つまみになりそうな食べ物と酒を探していると、不意に二階の方から物音がしました。

 私は息を呑みました。

 それまで、家の中に人のいる気配は全くしていなかったからです。想定外でした。長い空き巣人生の中でも、こういった類の失敗は初めてだったかもしれません。

 早くここを立ち去らなければ。

 そう思って足を踏み出そうとした時でした。後ろの方から、ガチャリと音がしました。玄関の扉に外から鍵が差し込まれたのです。

 家主が帰ってきたようでした。

「あれ……俺、鍵かけてなかったかなぁ」

 しゃがれた男性の声が、扉の向こうでブツブツと呟いているのが聴こえました。

 見つかる。そう思った私は咄嗟に身を隠しました。隠れる場所はいくらでもありました。至る所に衣服が積まれていましたから、その下に潜り込めば良かったのです。

 汚れた布の塊の下で身体を丸めていると、近くを男性が通り過ぎて行きました。フンフンと上機嫌な鼻歌交じりで台所へと向かった男性は、そのまま料理を始めたようでした。

 それが、私と田所家の奇妙な共同生活の始まりだったのです。

 

 変だと思いますか?

 ええ、自分でもそう思います。

 どうして空き巣の私が、偶然盗みに入っただけの田所家に居着いてしまったのか。

 指折り数えれば、それらしい理由は幾つかあるんです。

 当時、その年の厳しい寒さに耐えられるような住処を持っていなかったこと。

 ほとんどゴミ屋敷といっても過言ではない田所家では身を隠しやすかったこと。

 缶ビールの買い溜めが大量にあったこと。

 家主の耳が悪く、多少の物音をたてても気付かれる様子が無かったこと。

 けれども思い返してみれば、一番の目的はあのスープだったのだと思います。家主の田所淳一さんが作る、温かなスープです。

 聞けば淳一さんは既に八十五歳を超えていたとのことですが、私の目には六十代くらいにも見えました。びっしりとした白髪頭ではありましたが、背中はピシャリとまっすぐでしたし、肌にも脂っ気があるように見えたからです。

 外出から戻ると、淳一さんはいつもそのまま台所に向かいました。両手いっぱいになる程の材料を、大きな鍋にたっぷりの水を張って火にかけるのです。引きこもっている息子の勇太君の分まで、淳一さんが全て食事を用意しているようでした。

 勇太君については、わざわざ私が説明するまでもないでしょう。彼の来歴や人格については、刑事さんたちの方が詳しくお調べになっていることと思います。

 正直言って、私は勇太君の事があまり好きではありませんでした。四十歳になろうともいうのに働きもせず、実家で父親の世話になりながら自室にこもってゲームばかり。玄関先にまとめられていた酒の缶も、ほとんど彼が空けたものです。

 刑事さん達のような立派な方々からしたら、私も彼と同じような社会の落伍者と思われるかも知れません。

 しかし、少なくとも私にはこれまで自分の力と技で生き抜いてきたという自負があります。他の誰かに頼り切って無責任に生きてきた訳ではないのです。勇太君と私は違う。それだけは分かって欲しいのです。

 ……すみません、話が逸れてしまいましたね。

 そう、スープの事です。

 田所家の収入は、二ヶ月に一度支給される淳一さんの年金だけでしたから、とても満足と言えるものではありませんでした。

 その上、勇太君の酒代やゲーム代、ネットの通信料もバカにならない金額でしたので、淳一さんの苦労は相当なものだったと思います。

 NPO団体の「ひまわり」から幾らかの食料が現物で支給されていたようでしたが、それだけでは到底足りなかったのでしょう。

 淳一さんは自らの足で歩ける距離をまわって、食べられる食材をかき集めていたようでした。河川敷の野草や食用にできる球根。林に群生していたきのこ。時には、野鳥や小型の生き物を獲ってくることもありました。

 ……そんな顔をしないで下さいよ、刑事さん。野にあるものを食べるのは、気持ちが悪いことだと思いますか?

 それは偏見です。

 私に言わせれば、管理されて育った野菜や養殖の生き物しか食べられない人間の方がよほど気持ちの悪い存在のように思えます。

 ……すみません、言葉が強かったですね。

 とにかく、淳一さんのスープにはたくさんの素材が使われていました。

 鍋一杯の具材を、沸騰させないような火加減でグツグツと煮込むのです。料理をしている時の淳一さんは、いつも機嫌の良さそうな鼻歌交じりでした。

 きっと料理が好きだったのでしょう。

 鼻歌の曲目はいつも決まってジーン・ケリーの「雨に唄えば」でした。

 料理が出来上がると、淳一さんは鉢のような大きな器いっぱいにスープを盛り付け、その上からピッタリとラップフィルムを張りました。冷めにくくするためです。

 息子の勇太君は日に一度のトイレ以外には部屋を出てくることはありませんでしたから、食事はいつも淳一さんが部屋の前まで運んでいるようでした。

 ゲームをしている最中に声をかけると勇太君は奇声を発して部屋の中で暴れ回ってしまいます。ですので、食事は彼のタイミングで食べてもらうしかないのです。

 おぼんの上に、手作りのスープと数本のアルコール飲料を乗せて、淳一さんは毎日勇太君の部屋がある二階へと向かう階段をのぼっていきました。そして、その手に勇太君が飲み終えた後の空き缶を携えて一階に戻ってくるのです。勇太君は空き缶の処分すらまともにこなせなかったようでした。

 淳一さんは自分の食事を済ませると、いつもすぐに眠ってしまいました。

 寝室からいびきが聞こえ始めると、私は身を潜めていた衣類の下からそろりそろりと抜け出して、台所へと向かいました。

 そこにある温かいスープを食べる為です。

 シンクの周りに適当に転がっているお椀を手に取り、まだホカホカと白い湯気を立てているスープをゆっくりと注ぎ込んでいきました。

 お椀に口を付けてズズズと啜ると、それだけで身体が暖まっていくようでした。

 味付けは何だったのでしょう。

 きっと珍しい香辛料を使っていたのだと思います。あまり馴染みのない風味でした。獲ってきた材料の臭みを消すために、工夫されていたのでしょう。ただ間違いなく言えることは、そのスープがとても美味しかったという点です。

 私はそうして毎日、一杯のスープと一本のビールをいただきました。大きな鍋でしたから、たった一杯分のスープが減っていたところで淳一さんに気付かれることはありませんでした。沢山あるビールの缶も同様です。

 そうして、私は日々を過ごしていました。冬が過ぎて気候が暖かくなるまでは、この家にお世話になろう。毎日、一杯だけスープをいただこう。そう考えていました。

 本当にそれだけで良かったのです。

 暖かい寝床と食事、自分の生命を守る最低限のものだけです。

 ……ええ。罪に問われることは分かっています。ですが、理解して欲しいのです。あの冬、私もまた命の危機に晒されていた。それも一つの事実なのですから。

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