第4話
ぴちゃん、と水滴が落ちる音が聞こえて、百香は布団の中で目を覚ました。
そっと瞼を開く。辺りはまだ暗い。
パパが帰ってきている気配もないし、まだ夜のはずだ。
ぐぅ、とお腹が鳴った。
夕御飯はほとんど食べられなかったから、しょうがない。百香はぐっと自分のお腹を抑えた。ご飯の時にあんなにおかずを残しておいて、後になってお腹が空いた、なんて言ったらきっと叱られてしまう。
布団の中で丸まって、空腹に耐えていると、なんだかすごく惨めな気持ちになった。
この家には晴樹とおばあちゃんもいるはずなのに、なんだか一人きりみたいだった。
その時、背中のあたりで何かがモゾモゾと動く感触がした。
瞬間、サーっと血の気が引いた。
百香は掛け布団を捲り上げ、自分のパジャマの中に腕を入れた。
肌の上を必死にまさぐる。
そして、それに指が触れた。
叫びそうになる声を抑え、掻きむしるようにしてその異物を取り払った。
闇の中で立ち上がり、天井から垂れている紐を探り当てて強く引っぱる。
電気が灯り、和室の中がパッと明るくなった。その畳の上を見て、百香は一瞬気を失いそうになった。
至る所にシロアリ、シロアリ、シロアリ。
羽を広げた茶色い虫が、連なってモゾモゾと動いている。
「うううう……」
身震いするほどの嫌悪感が百香を襲った。無理だ、ここには居られない。
パジャマの裾を握りしめ、百香は和室を出ることに決めた。
台所や、食事をする部屋には、横になれるようなスペースはない。
安心して眠れるとしたら、やはりおばあちゃんと晴樹がいる寝室だろう。
けれど、百香はおばあちゃんの怒りをかってしまっている。静かに忍び込めば気づかれないだろうか。とにかく、シロアリが出てこない場所で一晩を過ごしたい。
百香は、そろりそろりと廊下を歩いた。床板をよく見て、そこにシロアリがいないか確認してから足を踏み出す。裸足で虫を踏んづけてしまうのは、どうしても避けたかった。
予想通り、所々にシロアリは現れた。百香は掃除用具入れから、床拭き用の柄の長いワイパーを取り出した。行く先を阻むシロアリを、それで潰しながら進もうと思ったのだ。
床の上にそれを見つけるたびに、百香はワイパーの先で潰していった。
プチュ、プチュ。
潰れたシロアリは、白く濁った体液を清掃シートいっぱいに撒き散らせた。
これは掃除だ、と百香は自分に言い聞かせた。私は、虫の形をした「汚れ」を拭いて、家をキレイにしているだけなんだ。
寝室の前に辿り着く頃には、ワイパーのシートが隙間なく汚れてしまっていた。
どこからこんなに湧いて出てくるのだろう。おばあちゃんと晴樹は寝室で静かに眠っているようだが、あの部屋にはシロアリは全く出ていないのだろうか。
ワイパーの柄を握りしめ、百香は寝室の扉を開けた。
窓ガラスから月の光が差し込んでいて、部屋の中は薄ぼんやりと青く光って見えた。
畳の上に布団が二組並んでいる。
すやすやと寝息を立てている晴樹の顔が見えて、百香は少しだけホッとした。
おばあちゃんの眠る布団は、中央がこんもりと盛り上がっている。中で蹲るようにして眠っているのだろうか。おばあちゃんの頭も足も、掛け布団にすっぽり覆われていて百香のいる場所からは見えなかった。
弟の晴樹は、あどけない顔で眠っている。
黙っていれば、こんなに可愛いのに。
昔みたいに、晴樹の布団で一緒に寝かせてもらおう。
百香は膝を突き、その薄い掛け布団をめくりあげた。
身を寄せようとしたその時。
「ヒェッ」
思わず、息を呑んだ。口の中に酸っぱいものが込み上げる。
布団の中の晴樹の下半身には、その表面いっぱいにシロアリが張り付いていた。
百香は飛び跳ねるように後ずさった。
この部屋もダメだ。
むしろ、ここの方が酷いぐらいだ。どうして晴樹はこんな状態に気づかず眠っていられるのだろう。
冷や汗が、額を伝っていく。
胸の動悸がおさまらなかった。
百香は立ち上がり、再び掃除用のワイパーの柄を強く握りしめた。
もうそれしか頼りになるものは無かったからだ。
寝室を出ようと、足を踏み出す。
一刻も早く、ここを離れよう。
そのつもりだった。
なのに、どうしてだろう。
気になってしまったのだ。
こんもりと山なりになっている、おばあちゃんの布団。
その中は、一体どんな状態になっているのだろう。
ドクン、ドクン。
百香の心臓が脈打っている。
つい数時間前、大声で怒鳴り散らしたばかりのおばあちゃんがそこにいる。
身体に這い寄るシロアリに気づきもせず、晴樹のように眠ったままでいるのだろうか。
気づけば、百香はその掛け布団に手をかけていた。
ほんの少し無様な姿を見られたらいい。
それだけのつもりだった。
心の中でおばあちゃんに対抗できる材料が、少しだけあれば。
百香は、布団を剥ぎ取った。
ブゥンという音を立て、羽虫が飛び立った。
「イヤアアア!」
自分でも気づかないうちに、百香は叫び声をあげていた。
蠢いている。
脈打つ心臓のように、波打っている。
シロアリだった。
おばあちゃんの身体は、頭のてっぺんから足の先まで、シロアリで覆われていた。
ブブブッ、という音がして百香の顔めがけて虫が飛んでくる。
反射的に目を瞑り、百香は手に持っていた掃除用のワイパーを振りかざした。
やたらめったら振り回したそれは、おばあちゃんの頭がある場所に、直撃してしまう。
ドチャ、という音がした。
大量のシロアリが、そこからウゾウゾと散らばっていくのがわかった。
白い体液が滲んでいた。
どうしよう。
おばあちゃんに、当たってしまった。
起こしたら、また怒られる。
怒られる、怒られる、怒られる。
ドチャ。
百香はまた、ワイパーを布団の上に振り下ろしていた。
ドチャ、ドチャ。
何度も、何度も、振り下ろした。
その度、部屋中にシロアリが飛び散った。
何度叩いても、布団の上で寝ているはずのおばあちゃんの身体は見えてこなかった。
そこにいるのは大量のシロアリばかりだ。
百香はそれを潰し続けた。
「……ハッ、アハッ」
何故だろう。
込み上げてくる笑いが止まらなかった。
これは、掃除だ。
私は、汚ない虫を掃除している。
古い家に巣食うシロアリ。
この家は、おばあちゃんそのものだ。
だから、シロアリはおばあちゃんの身体に巣食うんだ。
この気持ち悪い虫が際限なく湧き出て来るのは、全部おばあちゃんのせいなんだ。
ドチャ、ドチャ。
潰れたシロアリは、残った羽をピクピクと動かしながら、体液を垂れ流している。
あの時、晴樹が夢中になってシロアリを潰していた理由が百香にはわかった。
晴樹は、気持ちよかったんだ。
私も、すごく気持ちがいい。
「アハッ、アハッ、アハハッ!」
顔に飛び散ったシロアリの死骸も気にせず、百香は笑い続けた。
窓の外では、月が白く輝いていた。
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