第3話

 夕食時の事だった。


「これ食べたら出かけるよ。同級生と飲む約束をしているから」


「あらそう。帰りはどうするとね?」


「タクシーで帰るよ。先に寝てて大丈夫。モモちゃんとハルちゃんも、おばあちゃんいるから大丈夫だよな?」


 口いっぱいにおかずを頬張った晴樹が、大きな声で「大丈夫!」と叫んだ。

 テーブルの上に、食べカスが飛び散る。

 ママがいないせいか、晴樹はいつにもまして行儀が悪い。

 おばあちゃんの作った晩御飯は、パパと晴樹の好物ばかりだった。大皿の上には脂っぽい肉料理がずらりと並んでいる。

 百香はお肉があまり好きではない。

 自宅での晩御飯はママの好みに合わせて作ってあることが多いから、自然と脂物は少なくなるのだけれど、ここではその真逆だ。

 それに加えて、食欲も湧かなかった。昼間に、あんな風に潰れたシロアリの死骸を見てしまったからだ。

 ああやって、どこかしこに虫が湧いているのなら、どこかで調理器具や食材に触れていないとも限らない。そう考えると、どうしても食事が喉を通らなかった。


「モモちゃん、食欲ないかな?」


 心配そうな表情を浮かべて、パパが声をかけてきた。


「うん、ちょっと……」


「そっか。無理して全部食べなくてもいいからね。母さん、百香が体調悪いみたいだから、少し気をつけて見てもらっていい?」


 パパは、晴樹の横に座っているおばあちゃんに声をかけた。


「ああ、わかったよ」


 平坦な声で、おばあちゃんは返事をした。

 その細い目の端が、ちらりと百香の姿を見とめた。何故だか、百香はどうしようもなく居心地が悪かった。

 

 おばあちゃんの寝室には、布団が二組敷かれていた。

 電車のイラストが入った水色の薄い掛け布団は、確認するまでもなく晴樹の為に用意されたものだ。もう一組の布団は、おばあちゃんが普段使っているものなのだろう。独特の香りが、つんと鼻をついた。


「おばあちゃん、私のお布団はどこにありますか?」


 シンクで洗い物をしていたおばあちゃんに、百香は背後から声をかけた。

 敬語で話しかけたのは、それが礼儀だと思ったからだ。


「……押入れの中にあるがね」


 返ってきたのは、しゃがれた低い声だった。こんな声をしていたっけ、と百香は不思議に思った。けれど、その言葉は確かにおばあちゃんの口から発されたものだ。なんだか怖くなった百香は、足早に寝室へと向かった。言われたとおり、押入れの扉を開ける。

 確かに、そこには布団が一組あった。

 百香はそれを両手で掴み、体重を逆側に倒すようにして必死に引っ張り出した。重たい布団を持ち上げるのは、簡単なことではない。

 やっとの思いで押入れから出した自分用の布団を、百香は畳の上に敷いた。

 綺麗には並んでいないが、敷き方は上出来だ。

 その瞬間、身体がものすごい力で引っ張られた。

 百香は寝室の畳に叩きつけられた。びっくりして顔を上げると、そこにはおばあちゃんが立っていた。今しがた百香が敷いた布団を、無言で片付けている。折りたたんだ布団を持ち上げたおばあちゃんは、スタスタと寝室を出て行った。


「ま、待って、おばあちゃん!」


 追いかける百香を気にも止めず、おばあちゃんは和室の畳にドサリと布団を置いた。

 先ほど、シロアリが出た部屋だ。

 百香は顔を引き攣らせた。

 ここでは寝たくない。

 眠っている間にシロアリが身体をよじのぼってきたら、と思うと身の毛がよだつ。


「おばあちゃん、あの……」


 寝るなら他の場所がいい、と言おうとした百香は、次の瞬間、その言葉ごと息を飲み込んだ。

 振り向いたおばあちゃんの顔が、見たこともないほどに怒りに歪んでいたからだ。鬼のような顔をしたおばあちゃんは、百香ににじり寄り、信じられない程大きな声で怒鳴った。


「なんやね、お前は! わざわざ、よそもんごつふるまって。いやみったらしく、めしんせも残してよ! どうせあん女に吹き込まれたっちゃろが!」


 突然の事に、百香は目を白黒とさせた。

 おばあちゃんの言葉は訛りがきつく、何を言っているのか全くわからない。ただ、とてつもなく怒っていることだけはわかる。身体の芯がキュウ、と冷えこんでいくのがわかった。


「なんかあれば父親ん後ろに隠れて、あまえちかいよ! そんとしで、おんなんごつふるまうとか、このあばずれのむすめよ! しまいには晴樹にも手を上げて……わのかわいいまごに近づくな、まこちしんきな!」


 物凄い勢いでそう言い捨てて、おばあちゃんは部屋から出て行った。

 百香は、しばらくの間呆然としていたが、やがてゆっくりと膝から崩れ落ちた。

 怖かった。

 そして、それ以上に悲しかった。

 あんなに優しかったのに。あんなに大好きだったのに。数年前にここを訪れた時のおばあちゃんと、さっきのおばあちゃんは、別の人みたいだった。

 百香はちゃんとしていたつもりだ。おばあちゃんに失礼がないように、挨拶もきちんとした。言葉遣いにも気をつけた。

 なのに、何一つちゃんとしていない晴樹はあんなに愛されて、一生懸命頑張った百香はこうして嫌われてしまっている。

 いったいどうしてこんな事になってしまうんだろう。

 目頭が熱くなった。

 溢れてくるものを止められなかった。

 寝室から晴樹がキャッキャと騒いでいる声が聞こえてくる。

 百香はかび臭い布団を頭からかぶった。そして、その楽しげな声が聞こえないように、必死に耳を塞いだ。

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