第2話
駅からタクシーに乗って十数分、田んぼの広がる地域におばあちゃんの住む家はあった。タクシーの車窓から、玄関先で待っている人影が見える。
おばあちゃんだ。
停車したタクシーのドアが自動で開くと、弟の晴樹がそこからすぐに飛び出していった。衝突するような勢いで、おばあちゃんの身体に抱きついていく。
こいつはこういう振る舞いが本当に得意だよな、と百香は思う。
「ハルくん、よう帰って来たねぇ」
声をあげて騒いでいる晴樹の頭を撫で、おばあちゃんはただでさえ細い目をさらに細めていた。記憶の中にあるおばあちゃんの姿から、随分と小さくなってしまったような気がするのは百香だけだろうか。もしかしたら、自分が大きくなっただけなのかもしれない。
「母さん、ただいま」
荷物を抱えたパパがタクシーから降りる。百香もそれに続く。
「あぁ、おかえり。ごはんは? どこかで食べてきたとね?」
「まだ食べてないよ。空港から真っ直ぐ来たから」
「じゃあ、先にごはんにしようかねぇ。西瓜をもろうたから、それも切ろうか」
おばあちゃんはパパと晴樹を連れ立って、玄関へと歩いていった。
前を歩くパパの背中に続いて、百香は足を踏み入れる。
「あ、あの……おじゃまします」
靴を脱ぐ前に、百香はそう言った。
きちんと挨拶をするように、とママに言いつけられていたからだ。弟の晴樹といえば、そんな素振りはカケラも見せようとしない。靴も揃えずに、そのまま脱ぎ捨てている。
姉として、百香はちゃんとしていなければならなかった。
おばあちゃんは、百香の方をゆっくりと振り向いた。その目は、いつものように細かった。
「……ああ、モモちゃん。いらっしゃい。ゆっくりしていってねぇ」
そう言って、おばあちゃんはゆっくりと会釈をした。
どうしてだろうか。その時百香は、おばあちゃんがとても怒っているように思えた。
パパとおばあちゃんが明日行われる法事の話をしている間、百香達は和室でそれが終わるのを待っていた。手持ち無沙汰だったので、持ってきた宿題を済ませることにした。
晴樹は畳の上に横になり、電車のオモチャで遊んでいる。
久々に訪れたおばあちゃんの家は、なんだか独特な臭いがしていた。
仏壇の前で焚かれた線香の煙に混じり、カビのような臭いも漂っている。
古い家だからきっと仕方がないのだろう。
百香は鼻で息をしないようにして机に向かった。集中するのが少し難しかったが、数分が経つ頃には良いペースでペンを走らせることができた。
ふと、足の上に何かを感じた。
そわ、そわ、という感触が、足首の方からふくらはぎに向かってくる。
百香は何気なくそちらを向いた。
そして、小さく悲鳴を上げた。
シロアリだった。
一センチくらいの大きさのシロアリが、二匹連なって百香の身体を這っている。
「い、いやッ!」
百香は目の前に広げていたノートを丸め、叩くようにしてシロアリを追い払った。。
ぞわぞわと、悪寒が背筋を駆け上がる。
気持ち悪い。
こんな虫、東京のマンションには絶対に出ないのに。
ティッシュを何枚か手に取り、百香は自分のふくらはぎをゴシゴシと拭った。
皮膚が真っ赤になるまで擦り上げて、ようやく安心する。
ふと隣に目をやると、弟の晴樹はうつ伏せになったまま、少しも反応していなかった。
虫を払うのを手伝ってくれても良いのに、と百香は思った。
それにしても、晴樹がこうして大人しくしているのは珍しい。何をして時間を潰しているのだろう。その手元を後ろから覗き込み、百香は再度悲鳴を上げた。
晴樹は、畳の縁から次々と湧き出てくるシロアリを、夢中になって潰していた。
親指を突き立てるようにして、ぷちっ、ぷちっと気味の悪い音を立てている。シロアリを圧死させているのだ。潰れた虫の胴体からは濁った体液が滲み出ていて、それが晴樹の指の先を白く汚していた。
「イヤッ! 気持ち悪い!」
全身に鳥肌が粟立つのがわかった。
百香は立ち上がり、板張りの廊下に逃げ出した。
おそらく、和室の床下にシロアリの巣があるのだろう。そこから虫が湧き出しているのだとしたら、もうこの部屋にはいられない。
「モモちゃん、どうしたの?」
悲鳴を聞きつけたパパが、廊下の奥から姿を現した。
百香はパパの着ているシャツを手のひらでグッと掴み、涙声で訴えた。
「虫が、虫がいっぱい出てくるの……」
それを聞いたパパは、やっぱりか、という感じの表情を浮かべた。
「シロアリか。昨日、雨が降ったらしいからな。出てくるかもなぁとは思ったんだ」
「イヤだ、本当に気持ち悪い。晴樹なんか指で虫を潰してるんだよ?」
「ええ? それは汚いなぁ。ほら、ハルちゃん。ちょっとその指洗いなさい」
掴もうとするパパの腕を、晴樹はするりと抜け出した。
こちらが嫌がっている事を知ってわざとやっているのか、笑いながら、こちらに汚れた指を向けてくる。百香は頭にカァッと血が上るのを感じた。
いつもこうだ。
晴樹は甘やかされているから、こうやってふざけて百香に迷惑をかけてくる。
私がいつもどんなに頑張っていて、どんなに我慢しているかも知らないくせに。
気付けば百香は右腕を振りかぶっていた。近づいてきた晴樹の頬を、張り手で容赦なくバチンと叩く。
鋭い音がした。
少し遅れてから、晴樹がギャンギャンと泣き始めた。
「あぁ、叩いちゃったのか……」
パパはそんなやり取りを見ても、困ったように頭を掻くだけだった。
晴樹を叩いた百香の掌は、熱を持ってジンジンと痛んでいる。
「あらあら、ハルちゃん可哀想にねぇ」
気付けば、近寄ってきたおばあちゃんが、泣く晴樹を抱き寄せていた。
虫の体液で汚れた手で自分の服を掴まれているのに、それを気にする様子もない。
晴樹は、恨みがましく「おねえちゃんがぁ」と私の方を指差して、これみよがしに甘える態度を見せていた。
おばあちゃんはそんな晴樹の頭を、泣き止むまでずっと撫で続けていた。その細い目はずっと晴樹に向けられていて、百香を見ることはただの一度も無かった。
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