シロアリの家

エビハラ

第1話

 車窓から覗く線路脇の電柱に、鮮やかな緑色をした植物の蔓が巻き付いている。

 それを見た百香は、自宅のベランダに残してきたアサガオの花の事を思った。

 家に一人残ったママは、きちんとお水をあげてくれているだろうか。

 ベランダに出た時に、そこにある鉢に気づいてくれると良いのだけれど。

 ぷおん、という警笛と共にゆっくりと列車が動き出す。海岸線を走る列車は、百香が通学で使う私鉄の電車とは異なり、ディーゼルで走るらしい。見慣れない電車に興奮していた弟の晴樹は、はしゃぎすぎて疲れたのか、隣に座るパパに寄りかかるようにして眠っていた。パパは、列車に乗ってからスマホばかり見ている。百香は窓の外に視線をやった。


 夏休みに入る少し前、六月の蒸し暑い季節に、百香の家族はパパの実家がある九州の田舎町へと向かう。羽田から飛行機で九十分ほど、そこから電車に乗ってまた同じくらいの時間をかけ、ようやくおばあちゃんの暮らす家の最寄り駅に辿り着く。

 今年はおじいちゃんの七回忌の年に当たるのだという。百香は先月の誕生日で十歳になったばかりだ。正直言って、おじいちゃんが生きている頃の記憶はあまり残っていない。仏壇の写真で顔を知っているぐらいだ。

 おじいちゃんと、その息子であるパパの顔は全然似ていない。パパはどちらかと言えばおばあちゃんによく似ている。二人とも、いつも細い目尻を下げて笑っている印象だ。

 パパは優しい。けれど、少し頼りないところもあるように百香は思う。ママが何かを言うと、たいていパパは引き下がってしまうのだ。今回の七回忌についてもそうだった。行きたくない、と声を荒げたママに対し、パパは何も言わなかった。

 

「嫌よ、あんなシロアリだらけの家。絶対に行きたくないわ」


 スカートの先からベランダに脚を投げ出すように、ママはフローリングの床にべったりと座っていた。細いタバコを、人差し指と中指で挟んでいる。ベランダの方に白い煙を吐き出すのが見えた。百香はリビングのテーブルで、宿題に出された算数の問題を解いていた。その向かい側で勉強を見てくれていたパパは、ママの方を向いていつものように笑いかけた。


「そっか。今回は僕だけで行くことにするよ」


「あ、どうせならモモとハルも連れていってよ。お義母さんも喜ぶでしょう。その方が私も時間が取れるし。来週、大事なコンペがあるのよ」


「わかった。モモちゃんもそれでいい?」


 パパは柔和な顔を百香の方に向けた。百香はコクリと頷いた。そうしないと、パパが可哀想だからだ。本当はママと同じで、百香もおばあちゃんの家にはあまり行きたくなかった。

 この時期、おばあちゃんが住む古い木造の家には大量のシロアリが出る。雨上がりの湿った空気が漂う梅雨の合間、気温と湿度が急激に高まると一斉に巣から飛び出してくるのだ。

 おじいちゃんの命日が梅雨の時期と重なっている為、百香達は毎年のようにその被害に直面してきた。


「そろそろ施設の話もしておいた方がいいんじゃない? いつまでもあの家では暮らせないわよ」


「うーん、何度か話しているんだけどね……。やっぱり離れ難いみたいで。あの家は、母さんの人生そのものだから」


「あなたの言い方が弱いから伝わってないのよ。もっと強く言わないと。あ、絶対に同居はしないからね。その条件で結婚したんだから」


「……うん、わかってる」


 パパは俯きがちに頷いた。


「私、お義母さんのこと苦手なのよね。自分の事を『古き良き妻』みたいに思ってそう。価値観が違うのよね」


 そういってママは再度タバコを咥えた。

 目を閉じて煙を吸い込み、気持ちよさそうにそれを吐き出す。

 煙がアサガオのツボミに当たりませんように、と百香は思った。何となく花の生育に良くない影響を及ぼすような気がしたからだ。


「とにかく、施設の話は絶対ね。これはあなたの為に言っているのよ。親に孤独死してほしくはないでしょう?」


「……そうだね」


 ママはベランダに置いてある空き缶にタバコの吸い殻を押し込んで立ち上がった。リビングを通り抜けて、浴室がある方へと向かって歩く。すれ違いざま、頭に軽く手を置いた。百香は思わず、ビクッと身体を震わせた。ママは机の上の宿題を、上から覗き込んだ。


「……ここ、間違えてる」


 人差し指が答えを指し示す。指の先の爪は、マニキュアが綺麗に塗られていた。

 百香は「あっ」と声を漏らし、急いで間違っていた答えを消した。


「勉強、サボっちゃダメだからね」


 百香の頭を撫で、ママは脱衣所に入っていった。パパは何を言わず、その背中をぼんやりとした表情で見つめていた。

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