退学届けと思い出の薔薇園―5

「……私は」


 口籠り、男性の背中を見つめる。

 この薔薇園は本当に素晴らしいけれど、学院生にも大学校生にも知られているとは言い難い。まさか、私と同じ気持ちの人がいるなんて。

 男性は軽やかにその場で半回転し、片目を瞑った。


「ま、人生色々あるからね。今、思い悩むことがあっても、時間が経てば大したことじゃないかもしれないよ?」

「そんなことはっ」


 思わず、カッとなりかける。

 確かにそうかもしれないけれど、初めて会った人に言われたくもない。

 私は自分を落ち着かせる為、制帽の位置を直しつつ、言葉を続ける。


「――……分かっています」

「ああ、うん、そうだね。……ごめんよ。気分を害させるつもりはなかったんだ。ただ、お気に入りの場所で出会えたのが嬉しくなってしまったんだ。許してほしい」


 一介の学生に過ぎない私へ、男性は躊躇なく深々と頭を下げた。

 明らかに上質な身なりと、植物園への出入りを許されていることから、この人は相応な社会的地位を持っているのだろう。

 なのに……。

 私は自分でも分からない苛立ちを覚え、目を逸らした。


「……いえ。私の口調が悪かったので」

「うん。確かにそうかも? 君みたいに綺麗な子から睨まれると、別の扉が開きそうになるし」

「っ! ……貴方は」


 顔を上げた男性の言葉に、今度ははっきりとした怒りが噴き上がる。

 私が綺麗? 『魔女』と同じ黒髪を持ち、今や全てを喪った私が??

 ……酷い言い草。

 制服の袖を握り締め、一歩を前へと出て、男性を睨む。


「嫌な人ですね。ここの薔薇を知っている人は少ないのに……それが、貴方みたいな人だなんて、がっかりです」

「それは残念。僕は、君みたいな子と出会えて嬉しいけどな」

「…………ッ」


 幾ら怒りをぶつけても、男性は愉し気に微笑んだまま。

 どうして……学院生活最後の夜に、こんな人と出会うなんて。神様はきっといないか、私のことが嫌いなのだろう。

 汚れてもいない制服の裾を手で払い、踵を返す。


「おや? もう行ってしまうのかな?? 僕としては、お互いの自己紹介くらいはしておきたいんだけど」

「……無駄です。貴方と私が会うことなんて、二度とないので。…………先程、助けてもらったことは、改めて有難うございまじた」


 私は背中に視線を受けながら通路を歩き始める。

 ……他者へ怒りをぶつけることなんて、この数年で初めてだったかもしれない。


※※※    


「…………」


 長い黒髪の少女が去った後、俺は独り立ち尽くしていた。

 まさか……そんな…………そんなことが?

 俺は神を信じていない。神は俺の全て……より良き者の命を、心底から愛した妻を、アニエスを奪いやがった仇敵だと確信もしている。

 ――だが。

 杖を突く音がし、植物園を管理している白髪の老教授が姿を現した。


「もう来ていたのか、アレックス。すまない、少し遅れて――ど、どうした? 姫に忠誠を誓うかのように、その場で片膝をついて?」

「…………今さっき、生まれて初めて『奇跡』とやらに遭遇してな。祈りたい気分なんだよ」

「お前が? 祈り?? ――明日は、王都に龍が降るな」

「……五月蠅ぇっ」


 立ち上がり、膝の埃を手で払う。

 二百年間、永々と命を繋いできてくれたアニエスの薔薇が揺れた。

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