退学届けと思い出の薔薇園―1
「え? ……エ、エリナさん、こ、これはいったい、どういう……」
私が窓口へ退学届けを差し出すと、顔馴染みの若い女性職員――年上とは思えない程に可愛らしいクレア・ウェストさんは驚きで双眸を見開いた。夕方近い休日なこともあり、職員棟に人は疎らで、生徒は私以外に誰もいない。
予想通り、これなら目立つこともない。伯爵家から王都へ戻ってすぐに此処へ来て正解だった。
出来る限り平静を装い、説明する。
「一身上の都合で、魔法学院を退学します。手続きをお願いします」
「ち、ちょっと、待ってくださいっ! ……取り合えず、中へ」
転げ落ちる勢いで席を立ったクレアさんは、声を潜め私を手招きした。
室内に入ると、ふわっと、薔薇の香り。自然と呟く。
「――いい香り」
「大学校の植物園で試作されている香水のサンプルをいただいたんです。『女性の意見を聞きたい』とかで、色々な所へ配っているみたいです。気に入ったら、エリナさんの分も手に入れてきます」
「……いえ、そんな」
胸に痛みが走る。
約二百年前、匿名の篤志家により創設された魔法大学校の植物園は、王国のみならず大陸でも屈指の規模を誇っている。
中でも名高いのは薔薇の研究。
炎の魔石を用いた温室の中で一年中、大輪の花を咲かせている。
私も……大学校へ進学したら、あの場所で研究をしたかった。
椅子に腰かけ、制帽を外す。伯爵家で何度も握り締めたせいか、皺がついてしまっている。親友達がいたらすぐ問い詰められていただろう。
目の前のテーブルに紅茶の注がれた、白磁のカップが置かれた。
「どうぞ。つい先日、実家から送られた来たんです」
「ありがとうございます」
クレアさんの御実家である、ウェスト侯爵家は広大な領土を持ち、中でも農作物の生産で名を馳せている。
両手でカップを持ち、一口だけ飲む。
「美味しいです」
「ふふ、ありがとうございます。エリナさんに褒められた、と聞いたら家の者達も喜びます」
とても優雅な動作でクレアさんもカップを手にした。窓から差し込む夕陽を受け、長い銀髪がキラキラと光り輝く。着ているのは、学院指定の嗚淡い茶色基調の職員服でも、気品さは隠しようもない。
……私とは大違い。
侯爵家の令嬢でありながら、自分の意志で学院の職員になった行動力と、入学したばかりで、途方にくれていた黒髪の私へ一切の躊躇なく話かけ、今まで親しくしてくれた勇気も。
カチャリ、とカップをソーサへ置き、クレアさんが私を見つめる。
「エリナさん、詳しくお話を聞かせてください。退学には相応の理由が必要となります。まして、貴女は学年首席であり、大学校への進学も奨学金付きで内定しているんですよ? ……この連休は御実家へ帰られていたんですよね?」
「…………」
私は何も答えられない。
叔父から受け取った書簡には、今後の行動予定が全て記されていた。
反撥したくとも、
『もし、お前が私の言いつけを破るならば、領内に未だ残っている、父上と兄上が雇用した者達を全員解雇する。それでも構わぬのなら、好きにするがいい』
余白部分の脅迫はどうしようもない。
屋敷の者達は助けられなかったけれど、せめて残っている者達は……。
制帽を握りつぶし、私は視線を膝へ落とし懇願する。
「一身上の都合、としか。お願いです、クレアさん。あの子達が――パメラとマリアが学院へ戻って来る前に退学届けを受理してください。二人の顔を見たら……私は、私は……」
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