そして、桜の花は散る
白水カトラ
はじめ
ここはとある拘置所。
ここには、70人を超える未決囚と、40人ほどの死刑囚が収監されている。
そして、今日もまた、この拘置所の1日が始まろうとしていた。
刑務官、
「おい!240番!起床時間だぞ、起きろ!」
男の声を聞き、大きなあくびと伸びをする女。
彼女の名は
罪状は殺人。
彼女は、5年前に東京の町中で起こった無差別殺人事件の犯人である。
20分足らずで8人の犠牲者を出したこの事件は当初、日本では初の女性が起こした無差別殺人事件として大いに騒がれた。
しかし、時の流れは不思議なもので、時間の経過と共に彼女の起こした事件、そして名前は、世の人々の記憶から薄れていった。
彼女は2年前に死刑判決を受け、ここに収監された。
しかし、それからも彼女の性格は変わることはなかった。
「んー…もう朝?」
「そうだ、もう7時だ。ほら、さっさと起きろ!」
「…はあい」
のっそりと起き上がり、面倒臭いと言わんばかりにゆっくりと眼鏡をかけ、朝食へ向かう。
自由時間になった。
莉愛は、最近愛読している小説に目を通す。
タイトルは『影の消える日に』。
幼い頃から親に虐待を受けて育ち、心を塞いだ少女が、とある青年との出会いをきっかけに、少しずつ心を開いていく…というストーリーだ。
「…」
莉愛はASD (自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)という2つの発達障害を持っており、人付き合いを好まない。
その代わりに、昔から読書が好きだった。
故に、ここに来てからも毎日暇さえあれば読書をしており、また食事や入浴の時ですら、人と話そうとしない。
そのため、周りの囚人からは「アンドロイド」や「ロボット」などと呼ばれ、いつも変人扱いされている。
だが、彼女にとってはどうでもいい事だろう。
彼女は、自分の世界にいられればそれでいいというタチなのだ。
朝はダラダラと起き、昼はのっそりと昼食に向かい、夜はさっさと寝る。
莉愛は、ここに収監されてから2年間、ずっとこの調子だ。
死刑囚は、死ぬ事こそが刑罰。
故に、普段の時間は腐るほどある。
その時間の中で、彼らは自身の罪を悔い改める者、いつ来るかわからない死に怯える者、文学や慈善活動に目覚める者などに分かれる。
しかし、その一方で全く変わらない者もいる。
彼女もまた、その一人だ。
彼女は人懐こく、またとても陽気な性格だ。
傍から見ていると、死刑囚どころか悪人であることすら疑わしい。
「ねえー、前頼んだ本持ってきてくれた?」
今も、こうして一人の刑務官…
「持ってきてない」
「えー?なんでー?」
「前も言っただろ、ここではそういう本は読めない決まりなんだ」
「えー?ここにはいい男がいないから、結構溜まってるのにー。
…てかさ、あんた…よく見たらなかなか…」
「用が終わったなら、俺はもう行く」
「あ、ちょっと、待ってよ!」
「なんだ、莉愛」
「あ、名前で呼んでくれた。ちょっと嬉しい」
「…。それで?」
「あんたに聞きたい事があってさー。
あんたって…なんでここで仕事してるの?」
「…なんでそんな事を気にする?」
「私、ろくに仕事続いた事なくてさ。そんで、もうここに来て長いっていうあんたにちょっと話を聞きたいな、って思ってさ」
「…」
真司は、答えなかった。
「はあ…ねみー…」
真司は、大きなあくびをする。
夜勤は、朝型の彼にはきついものだ。
「おう、お疲れ」
同僚が休憩室に入ってきた。
「…お疲れ」
「眠そうだな。ま、お前は夜勤の時はいっつもだけどさ」
「わかってんなら、突っつく必要ないだろ」
「はは、そうだな」
そして、同僚は言った。
「なあ、240番とは上手くやれてるのか?」
「…!?なんでそんな事を?」
「だって、みんな言ってるよ。あいつとお前がよく話してるって」
「それは…まあ…」
「聞いたけどさ、お前あいつと結構楽しく話してるんだろ?」
「いや、別に…」
「隠さなくてもいいよ。仕事は、明るくやんなきゃ意味ないからな」
「俺は…別に…」
この時、真司は少し考えていた。
ここに勤務して、ちょうど10年。
莉愛は、今までに見てきた死刑囚の中で、最も個性的で、変わった囚人だ。
そして、同時に…
いや、いいんだ。
自分は看守、あいつは死刑囚。
刑務官である自分は、彼女をいずれ殺さねばならない。
それは、紛れもない事実だ。
一人となった真司は、ぼんやりと窓の外を見る。
ここの窓からは、ちょうど拘置所の敷地内に植えられた一本の桜の木が見える。
最近は暖かくなってきたからか、花は少しずつ咲き始めている。
「…」
そう言えばいつだったか、莉愛は花見が好きだと言っていた。
この花を、あいつに見せられたらな…
真司は、うっすらとそう思った。
あれ…?おかしい。
なんで、こんな事思ったんだろう。
今まで、こんな事なかったのに。
真司は、自分の気持ちがわからなかった。
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