第2話
集落での生活に慣れるまで、僕は住人の一人に付いて行動することになった。
ペアを組んだ相手は、前歯が欠けた髪の長い男で、呼び名をキーホールといった。
「あん? なんでキーホールって呼ばれているか、だって?」
僕がそう尋ねると、キーホールは歯を剥き出しにするようにしてニッと笑った。
黄ばんだ前歯のうち数本が欠けていて、確かにその形が鍵穴のように見えた。
「安直だろ? でもそれでいいんだ。ドクターの奴なんか、医者の真似事をしているだけでそう呼ばれているんだからな」
集落の住人達は、明るいうちは各々の仕事をして、夜になると集まってオーガニック・ティーを飲みながらおしゃべりをする、という生活をしていた。
仕事の内容は、各々の適性を見てリーダーのオリンピアが割り振っているようだった。
ドクターはメンバーのメディカルチェック、ロック(坊主頭の大男の名前だ。顔の形が岩のようだから、らしい)は発電施設のメンテナンス、という具合だ。
キーホールと僕の担当は、シンプルな肉体労働だった。つまるところ、雪かきだ。太陽光パネルやシェルターの周りを中心に、雪をどかして地面を整える。
「腰に頼るなよ、なるべく膝を使え。そうしないとドクターの下手なマッサージを受ける羽目になっちまうからな」
教育係のキーホールは、見た目の印象に反して面倒見が良く、僕にさまざまな事を教えてくれた。
僕が作業に夢中になって雪を掘り進めていると、キーホールがその肩を叩いた。
「そっちの方は、あまりやらなくてもいいぜ。集落から離れちまう」
周りを見渡すと、確かに僕のシャベルの先はシェルターから逸れた方向に向いていた。
「なるべく集落からは離れない方がいい。……ザントマンに連れていかれるからな」
ザントマン。その単語には聞き覚えがあった。この集落に辿り着いた時に誰かが言っていたのだ。
よくザントマンに見つからなかったな、と。思い返してみれば、その声はキーホールによく似ていた。
「そのザントマンって、何なの?」
僕が聞くと、キーホールは困ったように頭を掻いた。
「えぇとなぁ……うまくいえないが、危ねえんだよ。そうだなぁ、ロックにでも聞いてくれ。あいつは説明がうまいから」
そう言ってキーホールはシャベルを担いで集落へと戻っていった。陽の落ちる時間が近付いていたのだ。僕も慌てて作業をやめ、それに続いた。
「ザントマンは、ヨーロッパ諸国の伝承に登場する妖精だ。魔法の砂が詰まった袋を携えて、夜更けに現れると言われている」
揺れるランタンの明かりに照らされたロックの影が、テントの中に映し出されていた。
「その妖精がこの辺りにいるの?」
ロックはゆっくりと首を横に振った。
「そういう訳じゃない。ただ、いつからか、あれをそう呼ぶようになったんだ」
メンバーのほとんどがそこに集まっているのに、テントの中は妙にシンとしていた。
重苦しい空気の中、ドクターが口を開く。
「不安神経症の一種だと思うんだがな。ここに来たばかりのヤツに多いんだ。吹雪の夜に、集落の外へ向かう黒い人影を見つける。それを追いかけて行ってしまったヤツは……ここからいなくなってしまう」
ゾッとするような寒気が背筋を伝った。
みんなの目が、僕を見つめている。
ここに来たばかりのヤツに多いんだ、というドクターの言葉が、頭の中で反響した。
この中でザントマンを見てしまう可能性が一番高いのは、僕なのだ。
カチャリ、とチタンカップを置く音がした。赤いフリースジャケットを着たリーダーのオリンピアが僕の事を見つめていた。
「おいおい、もうやめようぜ! 辛気臭えったらありゃしねえ」
キーホールが立ち上がり、大袈裟に腕を広げた。
「こういう時は夢の話だ。いいか、ジョン。俺のとっておきを聞かせてやるぜ」
テントの中の空気がフッと緩み、みんなの表情に笑顔が戻った。
「またキーホールの話か、聞き飽きたな」
「おまえの夢、いつも同じ内容だろ?」
「うるせえぞ、ロック! まだジョンには話した事ないだろうが」
男たちがザワザワと騒ぎ始める。
すると、オリンピアが凛とした声で「いいよ、キーホール。話してちょうだい。久しぶりに、あなたの夢の話が聞きたい」と言い放った。
渋々とした表情で押し黙った男たちを嘲るようにフフン、とキーホールは鼻を鳴らし、得意げに彼の「夢」の話を始めた。
それはこんな話だった。
夢の中の俺は、大海原にいるんだ。
あのガチガチに凍った、どデカいスケートリンクの事じゃねえぜ。
青い空、白い雲。夏真っ盛り、見渡す限りのオーシャンビュウさ。
クソッタレな雪も、吹雪もねえ。僅かな電気カイロを巡って争うこともねえ。
太陽の恵みがサンサンと降り注ぎ、水面がキラキラ輝く暖かな世界だ。
もちろん暑くてたまらない日もあるが、そんな時は海に飛び込んで、浮き輪の上でプカプカと浮いているのさ。
傍には冷やしたビールがあるといい。
塩の濃いフィッシュ&チップスをつまみながら、一杯やるんだ……。
「飲酒しながらの水泳はおススメしないな」
おい、ドクター!
今いいところなんだから、黙ってろ!
夢の話なんだ、カタいことはなしだぜ。
とにかくその世界には、こんな氷河期なんか来てやしないんだ。
照りつける太陽。果てのない海原には美味い魚がウジャウジャと泳いでやがる。
そいつを捌いて、カリッカリにフライするんだ。いや、塩を振って焼くだけでもいい。脂の乗った魚は、それだけで美味いもんさ。
こんなパサパサとしたミート・キューブじゃなくてよぉ。
ああ、いいなぁ。
寒さの無い世界で、生きていきたいなぁ。
話を聞くまでは騒いでいた男たちも、いつのまにかうっとりとした表情でキーホールの話に耳を傾けていた。
みんな、ここではない別の世界に想いを馳せているようだった。
「どうだい、ジョン。これが俺の夢さ」
キーホールは僕の方を向き、自慢げにそう言った。僕はこう答える。
「ああ。とても素敵だと思うよ」
「そうだろう? じゃあ次はお前の番だ。お前の夢を聞かせてくれ」
「僕の、夢?」
「そうだよ。何でもいい。お前の思い浮かべる、最高な風景を教えてくれよ」
みんなの目が、一斉に僕の方を向いた。
その目には、期待が込められていた。
この人間には、どんな夢があるのだろう。
どんな希望を抱いているのだろう。
僕はそれをなんとか話そうとした。けれど、喉から出ていくのは吐息だけだった。
何もない。何もないのだ。僕には、みんなに話せるような夢がない。
テントの中に、じんわりと失望が広がっていくのがわかった。
それから後、僕はもう言葉を発する事はなかった。オーガニック・ティーを腹に流し込みながら、みんなの夢の話に耳を傾けた。それだけで夜は更けていった。
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