ザントマン

エビハラ

第1話

 旅の始まりは、いつの事だっただろう。

 それを明確に思い出すことはできない。

 視界を遮る白い嵐は、依然として激しく吹き荒れていた。

 冷え切った手足に、既に感覚はない。

 僕は身体の先についた棒切れを無理に動かすような感覚で、終わりの見えない道を歩き続けていた。

 標高二千を超える高原地帯。

 見渡す限り、生き物の姿はない。

 この先に、生き残った人々が暮らす集落があるのだという。

 僕はその集落を目指して旅を続けてきた。

 けれど、もう限界が近いようだ。

 視界が暗く霞み、風の音が遠のいていく。

 足がもつれ、身体が平衡を失う。

(ここで終わりか……)

 そう思った瞬間だった。

 フワ、と浮き上がるような感覚がした。僕は誰かに身体を抱きかかえられていた。


「ようし、よく辿り着いた!」


「たった一人か? よくザントマンに見つからなかったな」


「安心しろ。ここまで来ればもう大丈夫だ」


 複数の人々が口々に叫ぶ声が聞こえた。

 彼らは、僕の周りに集まってきているようだった。薄ぼんやりとした視界に、いくつかの影が動いているのが見える。

 その中に一際目立つシルエットがあった。

 真っ赤なアルパインウェアを着ている。その影は機敏に動き、絶え間なく周囲に指示を出し続けていた。

 その双眸が、ふと僕の方に向けられた。

「ようこそ、雲の町クラウドシティへ。……私たちはあなたを歓迎します」

 凛とした女性の声だった。何故だか僕はとても安心した気持ちになって、そのままゆっくりと目を閉じた。

 

「それじゃ、何も覚えてないってことだね」


 シェルターの一室、僕は柔らかいベッドに横たわったままドクターの質問を受けていた。


「ええ……すみません」


「いやいや、謝らなくてもいい。ここでは珍しい事じゃないんだ。こうやって話をしている私だって、元は君とおんなじ名無しの権兵衛ジョン・ドゥさ」


 ドクターは手元のカルテに何かを書き込んでいた。


「だいぶ疲労が溜まっていたみたいだが、幸い目立った凍傷や外傷は無かったよ。君の体調さえ良ければ、早速この集落の仲間を紹介しようかと思うんだが、如何かな?」


 吹雪の中に居た時のような身体の苦しさはほとんどなく、歩くことや話すことにも問題は無さそうだった。

 僕は頷き、ドクターの後をついてシェルター内の病室を出た。

 

 人類最後の拠点、雲の町クラウドシティで人が生活できるのは、地上にはない電力源があるからだ。化石燃料の枯渇に加え、気候変動による大氷河期も到来し、地表は永遠に晴れることのない分厚い雲で覆われた。

 状況を危惧した新環境主義者ネオ・エコロジストの呼び掛けで設置されたのが、この町の太陽光発電パネルだ。太陽光を遮る分厚い雲、それよりも高い場所に発電施設を作れば電力を確保できると彼らは考えた。

 地球上にあった生命のほとんどを死に追いやった大災害。それが起こるよりも先に設置できた高地発電施設は、この町にあるたった一箇所の太陽光パネルだけだったらしい。

 ドクターに付いて歩いたシェルターの外は、思っているよりも吹雪いていなかった。

 僅かだが空から光も射している。


「蓄電できる容量にも限界があるからね。吹雪がよほど酷い時以外は、なるべくシェルターの電力に頼らない生活を心掛けているんだ」


 周りを見渡すと、雪原の上に簡易的なテントやタープが張られていた。

 ドクターはその中でも一番大きなテントの入り口をくぐり、僕に向けて手招きをした。


「やぁ、みんな。新入りを紹介しようと思うんだが、歓迎の準備はどうかな?」


 テントの中には十名ほどの人がいた。

 僕が顔を覗かせると、小さな歓声が上がった。指笛を鳴らしている男性もいる。

 その中心に座っていた一人の女性に、僕は視線を惹かれた。

 赤毛の髪を短く刈り上げている。切れ長な目が印象的だ。派手な赤いフリースジャケットを纏い、チタンカップに口を当てている。

 この町にはじめて足を踏み入れた時に出会った、あの女性だった。


「当たり前さ、ドクター。こっちはもう待ちくたびれているぜ」


 前歯の欠けた長髪の男がそう言った。

 続いて、身体の大きな坊主頭の男性が僕に問いかけてくる。


「不躾だが、まずは一つ確認させてほしい。君は名無しの権兵衛(ジョン・ドゥ)か? それとも初めから名を持つ他の誰かか?」


 テントの中にいたメンバーの視線がジッと僕に集まった。唯一、中央の女性だけがそのままの姿勢で手元のカップを見つめている。

 しばしの沈黙の後、僕は応えた。


「……僕は、名無しの権兵衛ジョン・ドゥだよ」


 そう言うやいなや、テントの中にいたメンバーの八割が歓声をあげた。当てはまらない数人はガックリと肩を落とす。


「ほら見ろ! だから俺は言ったんだぜ、狙いすぎるのは素人のやることだってな!」


「ふん、カタく賭けたってつまらんのだよ」


「ゴタクはいいから、さっさとチップを支払いな。ミート・キューブを一欠片ずつだぜ」


 坊主頭の大男が舌打ちをして、懐から銀色の包紙で覆われた立方体に見える何かを取り出した。周りの男達が、歓声を上げながらそれに群がる。

 僕が戸惑いを隠せずにいると、中央にいた女性がこちらの方を見てニコリと微笑んだ。


「騒々しくてゴメンね。こいつら、君の記憶が残っているか、そうじゃないかを賭けていたんだ。バカみたいでしょう?」


 女性がそう言うと、前歯の欠けた男が大袈裟なジェスチャーで腕を広げた。


「そりゃないぜリーダー。俺たちゃ、日常の些細な出来事を、少しでもエンジョイしようとしているんだぜ?」


「その通り。賭博は閉鎖的な環境においてその精神をよりよく保つ一つの方法……なのかもしれないな」


 僕の隣にいたドクターが微笑みながらそう言った。そしてテントの中央に腕を伸ばし、坊主頭が広げていたミート・キューブを一つ摘み上げる。


「これで私は勝ち越し。今日も心は健康だ」


 苦い顔をした坊主頭の男が「よく言うよ、このヤブ医者め」と言うと、テントの中に笑い声が上がった。

 人類に残された最後の拠点とは思えないような、朗らかな空気だった。

 釣られて僕も笑っていると、目の前に手が差し出された。

 リーダーと呼ばれた女性が、僕に握手を求めていたようだった。


「改めて歓迎します。私はオリンピア。雲の町クラウドシティの管理責任者です。あなたの事は便宜上、ジョンと呼称します。よろしいですか?」


 僕は少し躊躇したが、彼女の手を握った。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 すると、陽気な男達がまた指笛を鳴らして歓声を上げた。


「仲良くしようぜ、ジョン・ドゥ!」


「俺たちもみんな初めはジョンさ。名前はこれから決めていけばいい」


「さぁ、こっちに座れよ! クソまずいオーガニック・ティーをご馳走してやる!」


 みんなに導かれ、僕はキャンピング・チェアに腰を下ろした。差し出されたチタンカップに並々と満たされていた液体は、確かにクソまずかったけど温かかった。

 そうして、僕の雲の町クラウドシティでの生活は始まった。

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