第38話 よみがえる大地



 ひたり。


 懐かしい足裏の感触。深い黒色をした鏡のように小夜子の姿を下から映す地に、いつの間にか小夜子は足を着けていた。でも如何にもツルツルと滑る。小夜子はくるぶし丈の靴下を脱ぎ丁寧に畳んでキュロットのポケットに突っ込むと、素足で久しぶりの彼の地の感触を楽しみだした。こんなに地面が真っ黒だったかしら。確かに黒曜石のようではあったけれど、ここまでは黒くはなかったような気がする。己の姿が映らなければ、まるで一足先が黒い穴のように見える彼の地に佇んで、小夜子は周りを見渡した。ここは入り口辺りかしら。もしかしたら未だバッグベアードの腹の中なのかも知れない。でもそうだとしたら、小夜子に何か一言あっても良いはずなのだけれど。そんなことを思いながら、どちらにしても行く宛はないのだからと悟った小夜子は、一歩足を前に踏み出した。


「やあ、救い主のご帰還だ」


 うわんと響く声がして、小夜子は「わっ」と驚いた。聴き覚えのある声。

 これは、やはり。

「バッグベアードさん!?」

 小夜子の立つ地が少しく揺れて、小夜子は一瞬よたりと傾いたけれど、すぐに体勢を立て直し、彼の人が笑っているのだと気が付いた。「如何したってこんな所にいらっしゃる?お嬢さん」笑い声を含んだ太い声は、愉快そうにそう云った。小夜子はバッグベアードの陽気さに少しく心が救われて、「ちょっと道に迷っちゃって」とクスクス笑いながら答えた。「そりゃあ大層な迷子だなぁ」ともうひと笑いして小夜子をグラつかせたバッグベアードは、「行きたい所はきっと真っ直ぐ行った彼処だな?お嬢さんの小さな足でもすぐ着くよ」と小夜子がグラつかないよう落ち着いた仕草で宣い、「行ってらっしゃい」と優しく背中を押してくれた。小夜子は「ありがとう!行ってきます!」と元気に応え、バッグベアードの云う真っ直ぐがどちらなのか一瞬逡巡したけれど、小夜子の向いている方を真っ直ぐ行けば良いのだと気付き、もう一度「行ってきまぁす!」と溌剌にバッグベアードへと伝えた。「行ってらっしゃーい!」

 小夜子がずっと聴きたかった言葉がうわんと響きながら降って来て、小夜子の全身を暖かく包み、小夜子は泣きそうになった。あやかしは優しい。どんな人間よりも、きっと。

 小夜子はバッグベアードから多分に元気をもらった気がして、ズンズンとその歩を進めた。そう云えばバッグベアードは「救い主のご帰還」と云っていた。と云うことは彼の地は無事に元の姿を取り戻せたのだろうか。そんな事を考えている間にも足は勝手にひたひたと歩を進め、穴のような小さな明かりを小夜子の瞳に反射させた。彼処が出口?走り出したくなるほどに急く気持ちを抑えながら、小夜子はそれでも早まってしまう足を止められなかった。

 ピーチチチ。

 最初に聴こえたのは小鳥の鳴き声。後から続くのは聴き慣れた音、樹々のざわめき。

 穴に向かって歩いていた小夜子は迫る灯りに目を取られ、光は明滅し、いつの間にか森の中へと迷い込んでいた。

 なんて美しい森だろう。

 様々な樹々や植物が種や環境を超えて、それでも尚在るべくして在るようにそこいら中に生えている。見上げれば鬱蒼とした樹々の葉の隙き間から、小夜子の大好きな葉っぱの宇宙がキラキラとその身を輝かせている。暑くもなく、寒くもなく。風もないのに樹々はまるでお喋りをしているかのようにざわめいて、小夜子の来訪を歓迎しているようだ。温かな土を踏む柔らかい感触。肥沃な地。小夜子が通る道を開けてくれるのか、石ころは小夜子の足筋に沿ってコロコロとその身を道端に寄せ、小夜子の足を傷付けまいとしてくれた。小夜子は石まで意思を持っているなんて!と、心を躍らせた。石ころに「ありがとう」と云いながら森の中の一本道を繁々と見渡していると、ガサリ、と大きなモノが動く気配がした。

 小夜子は一瞬身構えたけれど、木から覗くそのシルエットに息が止まりそうになった。「…ヨナ…ちゃん…?」 そう呟くとその物体は林から飛び出し、大きな瞳を涙でぐしゃぐしゃにしながら小夜子に飛び付いて来た。「小夜子ちゃぁぁん!」

 小夜子はそんなヨナちゃんを笑い泣きしながら受け止めて、「ヨナちゃん!無事だったのね!」と、ヨナルテパズトーリの横に広い体躯を精一杯腕を伸ばして抱きしめた。「小夜子ちゃん!小夜子ちゃぁん!」 と、泣きじゃくるヨナルテパズトーリの毛を優しく撫でながら、小夜子も親友との再会にほとほとと涙を零した。良かった、本当に。あの時渦に巻き込まれ、もしかしたら何処こかへと飛ばされてしまったのかも知れないとも心配していたのだ。

 ひとしきり再会を喜んだのち、目を赤く泣き腫らしたヨナルテパズトーリは、それでもとびっきりの笑顔で「小夜子ちゃんに会わせたいあやかしがいるんよ!着いて来て!」と宣った。


 ヨナルテパズトーリに強く手を引かれながら、時に森をきょとする見知ったあやかしたちに手を振られたりして(なんと土精プッツが手を振ってくれた!)静かに興奮をする小夜子は、夢の国とはこう云う場所を示すのに違いないと思った。そうして、どうかこれが夢ではありませんように、とも。

 不意にキラキラとした星々の明滅の光が反射をして、瞼を瞬いた小夜子はヨナルテパズトーリの「着いたよぉ!」と云う明るい声に、眩しさを堪えて目を開いた。


 そこにはキラキラと明滅する水晶を散りばめたような砂の岸辺と、そこから続く何処までも真っ青な、しかし白藍色から紺碧までも色移りをする水の、壮大な海辺が広がっていた。「セドナの海…!」

 小夜子はそう呟いて、ヨナルテパズトーリが自然と離してくれた手を勢い良く振って水晶の岸辺へと辿り着いた。さらさら。さらさら。足に触る砂の感触は初めてガァちゃんと訪れたあの時となんの遜色も無く、小夜子を優しく受け止めてくれた。セドナは…戻れなかったのかしら…。

 小夜子がそう思った途端小夜子のいる岸辺よりずっと先の海面がポコポコと泡を立て、それは次第にボコボコとした泡飛沫となりザブンと大きな音を立て、小夜子のいる岸辺まで水滴をほとぼらせた。小夜子の目の前に海の女王で在るセドナが顔を出していた。

「この見てくれは正直好きでは無いのだが」

「其処な小さきもの、主の記憶では我はこのような姿であろうが、別の姿もあるのじゃ。そう、お主のように美麗な、の」とセドナは憂いるように呟いた。そうは云っても小夜子の識るセドナは水木しげる先生の描いた『セドナ』でしかなく、大きな顔に毛をたくさん生やして、目は虚気味に上を目指し、ヨナちゃんと同じように目の下に小さく穿たれた鼻、唇は半笑いで象られいる。確かに。確かに美麗とは云い難い。でも。小夜子には如何しても見慣れた姿であり、そんなセドナを決して醜いなどとは思えなかった。むしろ荘厳である。海の女王と呼ばわれるだけの気品すら持ち得ている。「セドナさんは美しいです、その身も、心も」小夜子は世辞では無く本心でそう呟いて、セドナとの会合に感謝をした。彼の地を救うまで、その水晶の輝きがどれだけ小夜子を救ってくれていただろうか。今もこうして小夜子の傷付いていた足を優しく包み込んでくれている。

「小さき娘、主がこの地を救ってくれたと、其処なあやかしから聴いて居る」

「我ら『淡い』のモノとして、御礼の言葉も無い」

 小夜子は咄嗟に「私だけの力じゃ無いです!」と、叫んだ。


 ガァちゃん、 ガァちゃん、


 貴方が全てを担ってくれた。


 そうして改めてガーゴイルの不在、若しくは消滅の事実を、まるで雪で出来た玉をぴしゃりいきなりぶっつけられたような衝撃を以て認識した小夜子は、辺りを気にすること無く大声で泣き出した。


 ガァちゃん、 ガァちゃん、


 貴方は本当にいなくなってしまったの。

 涙で濡れた朧げな瞳で見渡しても、様々な水辺のあやかしが小夜子を心配そうに見ているけれど、そこにタラスキュの姿は無い。

 澄んで溶けるような色彩の青空を見上げても、小夜子の好むあやかしの姿はあれど、ガーゴイルの姿は無い。ドルイド・ドラゴン、貴方さえも。

 ヒック、ヒックと喉を詰まらせて何とか平静を保とうとする小夜子をあやかしたちは優しく見守ってくれていた。小夜子は水晶の上へとへたり込んで、潤んだ目でその煌めきを見詰めた。ガァちゃん、愛しい人。ここに今貴方がいてくれたのなら。


「小夜子」


 聴いたことのある声が上から降って来て、小夜子は驚いて上を向いた。

 白銀の色を帯びた一体のドラゴンが宙に浮いていた。


「ドラゴン…さん…?」 なんとなく郷愁のような心持ちを抱きながら、小夜子はヨナルテパズトーリと同じように瞳を赤く染めつつも、鼻に掛かった声で顎を上げそう呟いた。


「そうだ、小夜子。覚えているか、我の、この姿を」


 白妙が如く繊細で大きな翼をはためかせ、

 陽の光を浴びずとも白銀に輝く鱗の一片一片までもを煌めかせながら、

 長い首をしなやかに弛ませる。

 翡翠石を思わせる色をした鋭い眼差しからは何故か慈愛の表情が見て取れて、

 その鋭い爪先の一本一本までもが何者をも傷つけぬ聖者のように見目好く安らかに映る。


「ドラゴンさん…私の。私の想像上の、ドラゴンさん…」


 ドラゴンは満足そうに翼をはためかせ、

「ここはそう云う地なのだ、仮令お前の無意識下に置いても我はお主の感覚のままに顕現さるる。

「ならば」


 そう。ならば。

 小夜子はドラゴンの言葉に大きく頷き、大きく息を吸ったのち、息を吐きながらゆっくりと胸元に据え置いている『ガァちゃんのバッジ』を強く掴み、彼の人の立髪の先端から、美しく、時に猛々しく湾曲する尾の先までをも想起して強く願った。


 ガァちゃん。 私のガーゴイル!!

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