第37話 色の抜けた小夜子



「翁とは誰のことかと思うたが、ワシのことか」


 翁は最後に会った時と全く変わらずに、相変わらずよく分からない面立ちで小夜子よりも少しく宙に浮いていた。否、浮いているのでは無い、切り株の上に佇んでいるのだ。いつもあの上にいるのはやはりあの老木の上が落ち着くからなのかな…などと如何でも良いことを考えていた小夜子に「なんだ、呆けた顔をして。ワシに何の用だ」と翁は問うた。

 小夜子はその一言でハッとして、そうしてごくりとつばきを飲み込んでから、「先ほども云ったでしょう。約束を果たしに来ました」と、はっきりと翁を見据えて云った。翁は巫山戯てでもいるのか、「はてはて、約束とな」と顎髭辺りに片手を当て、小首を傾げる仕草をした。 如何しても小夜子の口から云わせる気だ、なんて小狡い爺ぃだろう、と小夜子にしては珍しく心内で悪態を吐きながら、「貴方に体を捧げると約束をしたわ。届け物をしてもらう代わりに」 と、半ば苛立たしげに言の葉を発した。こんな自分はらしくない、とても嫌だ。でも。

「ホッホッホ!」 

 と、さも可笑しそうに笑い声を上げる老爺は、少しく眉間に皺を寄せる小夜子を面白そうに見ながら、「ホッホッホ、その捨て鉢さは何か大切なものを失ったな。ん、そうか、あの妖に棄てられたか」そう云ってまたもやホッホッホと高らかに笑った。


「棄てられてなんていない!!」


 小夜子は途端に憤り、身体の表面は青みを帯びて、翁の佇む辺りにいかづちを落とした。無意識の攻撃に自分自身が驚いた小夜子であったが、翁は「おお、怖い怖い」と小夜子の攻撃も意に介さないようであった。足元の古木がプスプスと燻っている。老爺は熱くはないのだろうか。熱かったら良いのに、などとらしからぬ感情に小夜子は若干戸惑った。

 生身の身体でもうつろう世界では力が使えるのか。それともこの空間に入った途端、小夜子は入れ物にくたいを無くしてしまうのだろうか。そうだとしたら、小夜子の差し出す身体は何処にある?


「ここは『淡い』のようなものだからな。全てが虚う」

「主の肉体いれものは確かに存在しておるよ」


 そうなのか、良かった。ならば約束を果たすことが出来る。

 翁の云う通り小夜子は半ば捨て鉢な気分でいたのだ。ガァちゃんも、ガァちゃんの石像も無くなってしまった今、小夜子のよすがはガァちゃんのバッジくらいしか無い。あの、嵐の明けた朝の騒動のあとも小夜子に対して全く変わらぬ(むしろ母に至っては酷くなった)親たち、奇異や嘲笑、哀れみの目で見て来るご近所さんやクラスメイトたち、小夜子は全てが嫌になってしまったのだ。このまま、下卑た他人の目を掻い潜りながら、生きて行くのはもう、しんどい。「如何やら、随分と変わったようじゃの」「変わった…?」「うむ。お主から出てくる気のようなものが濁っておる。何があったのか知りやせぬが、今のお主には最前に会った時と違い一欠片の興味もないな」

 変わった。そうかも知れない。

 ちゅうに顔を思い切り上げて、それでも何となく遠慮がちに咲いているように見える向日葵の鮮やかな黄色も、今の小夜子の胸には響かない。平素だったら賑々しさに心を振るわせてくれる蝉たちの大合唱も、小夜子の耳には届かない。蚊取り線香の烟った匂い、瑞々しく茹で上がった枝豆の緑、何処からか流れてくる花火の喧騒も、その全てが濁ってしまった。小夜子を小夜子たらしめる感覚の全てが。それはもう、小夜子であって小夜子ではない。小夜子の世界は全てが灰色で、きっと流れて出る血潮ですら灰の色を帯びているだろう。ガァちゃん。貴方がいない世界はこんなにも昏い。


「まあしかし約束は約束だからの、取るものは取らせてもらうぞ」


 翁がそう云った刹那小夜子の身体はどさりと前のめりに倒れた。

 そんな小夜子を立ちすくんだままの小夜子が見遣っている。ああ、離れたんだ。  なんだかガァちゃんと長くて短い小さな夜の旅行をしている時の身体の軽さに戻ったようで、小夜子は懐かしさに涙ぐんだ。『小さな夜の子どもか!それは好い!』と云ってくれた彼の人の声が聴こえたような気がして、小夜子は小さく微笑んだ。


「小夜子、何を泣く?「体を失ったことがそんなにも悲しいか」

「…違うわ」「懐かしくて、まだ半月ほどしか経っていないのにもう随分前の出来事のようで、「還れるものなら還りたい、あの夜に。もう一度」

 小夜子はポロポロと涙を流したが、頬を伝うその粒はあの夜零した涙には到底及ばない、ただのあまじょっぱい水滴であった。


「ふむ」


 翁は再び顎鬚に手を遣り、「小夜子、お主この先如何する」と尋ねた。

 小夜子はびっくりした体で、「私は死んでしまったんじゃないの?」と尋ね返した。「死んでは居らんよ、あの夜と同じ、器が無くなり中身だけになっただけだ」「否、あの夜は肉体を持っていたか、如何にもお主の存在は胡乱でいかん」


「私、これから如何すれば良いんだろう…」

 独り言のように呟いた小夜子は、身体を取られたら死んでしまうものだと思っていたから途方に暮れていた。このまま翁とここにいるなんて嫌だ。今の小夜子は苔たちにとっても魅力が無いらしく、苔の精霊たちも姿を現してくれない。「行く場所がないなら彼処あそこに戻れば良いだろうて」「彼処?」小夜子は胡乱な瞳で答えた。「お主が随分と執心していた彼の地だ」「…彼処へ、行けるの…?」「お主が望むのならばな」


 ガァちゃん。ガァちゃんの地。ガァちゃんが命懸けで守り救った地。ヨナちゃんともドラゴンとも一言も話せず、彼の地が救われたのかもそう云えば見届けられなかったんだ、と思い返した小夜子は、彼の地が如何なっていようとも、ここにいるよりはずっといい。仮令ガァちゃんがいなくとも。と、思い至り、


「彼の地に、飛ばしてくれますか…?」と些か慇懃に翁へと頼んだ。


 翁は特に面白そうでもなく、やはり判事得ぬ表情で、「構わんよ、今のお主には一欠片の興味もないでな。いつまでもここにいられても困る」と云った。前までの小夜子だったら傷付き兼ねない翁の台詞も、小夜子の胸には響かなかった。それが彼の地へと赴ける(若干の)喜び故なのか己の感情の鈍麻さ故なのか、小夜子には、もう、分からなかった。

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