第36話 神隠しの場所



 小夜子はかつて未だ見通っていられた頃のように、ガーゴイルの庭を切なげに横目で見ながらも、いつもの遠回りではなく、あの最初にお社へ続く十字路を見付けた裏ぶれた道筋の、多分に山本家が軒並んでいたであろう通りへと久しぶりに足を運んだ。この並びの何処かに山本くんと『お兄ちゃん』の家があったのか。幼い頃から遊んでいた、云わば幼馴染のような関係だったのに、家の場所は終ぞ知らなかった。

 錆びついたトタンの屋根、干しっぱなしで黄色く色褪せた洗濯物、キャバリアとウサギの置物は相変わらず互いにそっぽを向いていて、そうして明らかに人の住んでいない気配を讃えた一軒の家に『売家』のパネルが掛かっていた。二階建ての洋風建築の家。手入れの行き届いた小さな庭。煉瓦を使ってきちりと仕切られた花壇には、かつては色とりどりの花がそれでも柔らかに優しく咲いていたであろう名残を思わせる。この通りには似つかわしくない光景だ、と小夜子は思った。如何して最初に通った際に目に付かなかったのだろう。余りにもきちんとし過ぎていて、この裏ぶれた通りには余りにも異端だ。そうして旧山本家から左を見て、アレか、思った。十字路。十字路から続く仄昏き階段。アレに気が行ったのか。

 置いて行かれたのか、忘れられたのか、山本くんの乗っていた物であろう自転車が小さな前庭に横倒しになっている。小夜子は暫くその家の前で佇んだあと、一瞬下を向き、そのままぺこりと小さくお辞儀をして、振り返る事なく十字路へと歩を進めた。

 長い雨の季節も過ぎて、子供達に夏休みと云う宝物が降って来る直前の賑やかさも、ジージーと羽を振るわせ鳴く蝉の声も、一切の音を遮断するように音の絶えた十字路の先は少しく瑞々しさの枯れた苔が相も変わらず階段の一段一段に張り付いており、あの夜に過ぎた嵐以降、雨の降らぬこの天候に憂いているようにも見えた。小夜子はいつもの通り苔むしていない場所を選びながら聳える階段に足を置いた。


 対となった灯籠に迎えられる。苔も、樹々も。変わらずに。夏の日差しを背負っては、隙間隙間から降り注ぐ陽光を象った緑の宇宙を作り出している。何時ものように、灯篭の前で一旦お辞儀をする。教師せんせいに注意を受けてから、通おうにも通えない出来事がたくさん有って、随分と久しぶりな気がする小夜子の小さな宇宙と苔の庭は、変わらずに、尚瑞々しさを添えて佇んでいるように見えた。雨も降っていないのに、如何にもここは不思議な場所だ。

 お社の前で一旦止まる。

 通学鞄を置かせてくださいね、と心の中で呟いて、社に続く階段の二段目の脇辺りにそっと己の鞄を置いた小夜子は、胸の辺りを少しく探り、名札を付けっぱなしだったことを思い出した。包帯は取れたけれど未だ少しく痛む手で名札を取り、通学鞄の上にポンっと乗せる。そうして本来探していたはずの『ガァちゃんのバッジ』に手を遣った。大丈夫、大丈夫。小夜子は止め置いているティシャツをも巻き込みながらバッジをぎゅうと握り、社の左奥に在る、果敢なくも光の射す方向へと足を運んだ。


 翁の老木へと続く足が止まる。

 さほど近くもない距離から見ても、切り株は些か疲弊しているように見えた。何が違うのだろう。先だって見た時と変わらず、むしろ季節は進んであの場所には眩しいほどの陽光がその身を射しているであろうに。

 小夜子は若干訝しながらも老木の元へと歩を進めた。だって小夜子には、もう、怖いことも失うものも、何も無いのだから。

 苔達を踏みしだきながら、小夜子は一歩一歩、それでもやはり『ごめんね』と心の内で呟きながら歩を進める。どんな心持ちでもどんな命でも、奪って良いものなんて、無い。小夜子は己の内の未だ複雑に絡み合っている心境を跳ね除けるようにステップを続けた。なるたけ大幅で。苔類のダメージの無いように。それは老木に着いた際の己の心境への強がりとも云えた。先だっては気持ちよく思えた老木の切り株も、今となっては些かの気味悪さを持って瞳に映る。嫌なのだろうか。嫌なのだろうな。己の心の内も、ガァちゃんを失ってからはだいぶんに胡乱な小夜子は、己で己の心模様をまるで砂漠に咲く砂で出来た薔薇を探すように目を凝らして見つめなければならなかった。

 あの翁と会わなければならないのは如何にも気が重たい。でも。

 それでも約束は守らなければ。


 小夜子は切り株の、夏の光を過分に浴びた片隅に落ちている微かな翳りに身を寄せた。

 そして、やはり幾分かの緊張を孕みながら、それでも気丈に云い放った。


「老木の翁!約束を果たしに来たわ!」 小夜子が出せる限り精一杯の大声を上げたその言葉に、尚も樹々は黙り込んだままであった。いない?ここまで覚悟をして赴いたのに。小夜子は安堵と不安が入り混じった妙な心持ちで、もう一度翁に向けてより大声で来訪を告げた。


「やれやれ、小うるさい娘だの」


 気が付けば小夜子はまた暗闇の中に身を置いていた。

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