第35話 大鳥家の珍事
小夜子と啓輔は野次馬が去った後も互いに暫し放心していたけれど、別に互いに声を掛け合うべくもなく家路へとゆうるり歩き出した。ガァちゃんの
そこには鈍色に光るガァちゃんのバッジが、朝の薄い太陽の光りを跳ね返すようにきらりと輝いていた。
夢ではない、夢ではなかった。ああ、ガァちゃん。
邂逅の念に立ち止まり泣きそうになっている娘を気遣うこともなく、啓輔は「何だか今度は家の前が騒がしいぞ」と宣った。
それでも早足になるでもなく家の前に辿り着いた啓輔は、先ほどの野次馬たちが今度は我が家の前に集って興味深げにああでもないこうでもないと囃し立てる言葉と、家の前ではそうそうに見かけないパトカーへと目を向け若干たじろいだ。
野次馬はそんな啓輔と小夜子に少しく興味深げな視線を投げつけながら家へと向かう道を開けた。途端に「あなた!!」と云う、啓輔にとっては些か金属質に過ぎる妻の叫び声を久方ぶりに耳にした。悠介を抱き締めて泣きながら駆け寄る加代子を訝しく見遣りながら「何だ、この騒動は、何があった」と手短に聴いた。しかし加代子は泣きじゃくるばかりで全く話にならず、啓輔はそんな加代子を見限って、近くにいた制服警官の元へと歩を進めた。
小夜子は小夜子で戸惑っていた。
小夜子が起きた時には(母が何やら怒鳴ってはいたけれど)雨あがりの穏やかな朝だったのだ。それが今や庭やどうやら家の中にまで警察の、制服だったり私服だったりビニールみたいなものを被ったり履いたりしている大柄な大人が蔓延っているのだ。小夜子の静かな庭園に。有象無象が湧き出てしまった。
「お嬢ちゃん」
急に声が上から降って来て、小夜子はビクリと身構えた。
「ああ、ごめんね。びっくりしちゃったかな」
朝のまだ高くない光を帯びても尚、小夜子を見下げる顔は影となって見えなかったけれど、その口調から小夜子を怯えさせないように精一杯気を使ってくれるのが分かった。
その、ピシリとシワのないスーツを着た大柄な人は、小夜子に背を合わせてくれたのか、昨夜降ったであろう雨で濡れた庭に己の木ちりと整えられたスーツの膝が汚れるのも厭わずに、地面に片膝を付いて小夜子に目線を合わせニコリと白い歯を見せた。
よく陽に焼けた肌、笑うと無くなってしまう目尻と頑健な鼻梁、そこから続く厚い唇が何かしら人の良さを表している。
父とは全く真逆の人間だ、と小夜子は素直な感想を持った。そんな父は、制服から私服の警察に取って代わって話し込んでいたが、庭の小夜子の部屋の方角へと導かれて行ってしまった。「お嬢ちゃんはこの家の子かな?」
目の前の刑事は小夜子にそう訊いて来た。
小夜子は持ち前の人見知りも相俟ってコクリと首を頷かせた。
「そうかぁ、お名前はなんて云うのか教えてくれる?あ!因みに僕は
小夜子は未だ判じ得ないこの庭の騒動にドギマギしつつも少しの好奇心も勝って、「大鳥、小夜子、です」と答えた。
向坂と名乗る刑事は満面の笑みを湛えて「そうかあ、小夜子ちゃんかあ。素敵な名前だね」と答えた。小夜子の胸が少しく痛む。彼の人も『好い』と云ってくれた、私の名。
もう随分前の事のように思えるけれど、あれは昨夜の、たった数時間前の出来事なのだ。
少しく暗い表情を浮かべた小夜子を気遣うように「小夜子ちゃん、大丈夫かな?裸足だね。足の裏、痛くない?」と訊ねた。小夜子は足の裏の痛みも忘れていた自分に気付いた。「大丈夫…です。近所の…近所のお家が火事だって…あの、母から聴いて、慌てて出て来ちゃったから…」と詰まり詰まり答えた。「そうかぁ。火事だなんてびっくりしちゃうもんね」と向坂はニコニコしながら返した。そして少し思案したあと、「びっくりついでに悪いんだけれど…」と続けた。「中学生くらいの男の子、多分近所の子だと思うんだけれど、お友達で、いるかなぁ?」と宣った。途端に小夜子の脳裏にあの痘痕だらけのニヤけた顔が思い浮かんで、小夜子はまたしてもビクリと身体を震わせた。向坂はそんな小夜子の反応を見て一瞬糸のような目を鋭くさせたけれど、すぐにニコニコとした表情に戻り、「大丈夫?怖かったり嫌だったりしたら無理しないでね」と優しく声を掛けた。
小夜子は
向坂の瞳がまた一瞬鋭く光り、そして「小夜子ちゃん」と改めて名を呼んだ。
二階にある小夜子の部屋を望む前庭には、ブルーシートが野次馬の目線を区切るように張られていて、(ああ、ニュースでよく見る光景だ…)と小夜子を現実から解離させた。ブルーシートの前には父と、父と先ほどから話し込んでいた刑事が佇んでいる。父の横にいた刑事が慌てて向坂の元へと駆けて来て「おい!何のつもりだ!」と向坂に向けて半ば怒鳴るように宣った。「いや、この
そう云って一瞬躊躇したのち、その刑事は啓輔の方に視軸を向けた。
「お父さん…構いませんか」
啓輔はにべもなく「その娘なら大丈夫だろう、構いません、使ってやって下さい」と宣った。啓輔に向き直っていた刑事はやはり一瞬逡巡したのち、向坂に少しく情けない顔を向け、「じゃあ…」とブルーシートの中へと続く道へと小夜子たちを誘った。
ブルーシートの中は意外と広くって、そうして幾人かの人もいて、小夜子は少しびっくりした。そうしてその人たちが小夜子を怪訝そうな瞳で一斉に見ていること、その人たちの真ん中に白い布に覆われた、何とも珍妙な形の『モノ』が在ることに気が付いた。
向坂が優しく小夜子の肩に手を触れ「怖かったら見なくても良いからね。でも小夜子ちゃんに見てもらえたら僕たちはとても助かるんだ」と宣った。小夜子は向坂の真摯な眼差しを見て取って、コクリと頭を頷かせた。怖いことなんて、ない。びっくりすることはあっても、ガァちゃんを失ったこと以上に怖いことは。
小夜子は向坂に促されるままに白い布の元へと歩を進め、やはり小夜子の登場に若干躊躇した幕内の警察官に見守られながら、布上の物体の元へと行き着いた。
向坂が先に立ち、布の元へと膝を付く。ああ、そんなに膝を付いてしまったら、綺麗なスーツが更に汚れてしまう。何となく夢心地な小夜子はそんなことを考えながら、向坂の「小夜子ちゃん、いいかい?」と云う問いにコクリと
向坂の右手が布の先端に掛かる。
妙な形をした布は、
それでも向坂の手を掛けた辺りが人間の頭部だと布の沿う形が告げている。
向坂がその手を反らせゆっくりと布を捲る。
本当は一連の動作だろうに小夜子にはひどくスローモーションに感じる。
最初に見えたのは雨に打ち付けられても尚脂ぎった印象を与えさせる畝った黒髪、
しかしそこから続く頭と顔は大凡ヒトとしては有り得ない方向に捻じ曲げられて居り、
まるでそんなつもりはなかったとでも云っているように大きく見開かれた瞳、
「あ」の形に
その全てがそれだけで、小夜子の忌むべき『お兄ちゃん』だと告げていた。
向坂の目線が小夜子に問う。答えなければならない。何故お兄ちゃんがこんな所にこんな格好で倒れているのか小夜子には全く分からないけれど、小夜子は応えなければならない。
「私の…クラスメイトの山本くんの家の…お兄ちゃんです」
それからの小夜子の日々はまるで目まぐるしかった。
何故『お兄ちゃん』が小夜子の部屋下の庭で骸と化していたのか。
警察の捜査が進むに連れ、小夜子に対するストーカー行為や、その他女児への盗撮など余罪もわらわらと湧き出て、小夜子は警察官(主に向坂)とのやり取りにたっぷり二週間ほどは費やした。警察の見解に因ると、『お兄ちゃん』はどうやら昨晩の嵐とも云える豪雨と雷の轟きに紛れ、小夜子に夜這いを掛けたらしい。雨樋を伝い何とか二階に在る小夜子の小さなバルコニーに手を欠けた刹那、バルコニーにビキビキと亀裂が走り、その勢いで落下したとのことだった。死因は首の骨を捻れるようの折った故の即死。警察は建物自体が古い故、偶然の事故だと片付けたが(しかし住居不法侵入の罪はあるのだが)小夜子はあの夜にガァちゃんが小夜子のバルコニーに降り立った、あの影響だと確信していた。そうして、知らず知らずの行動で、ガァちゃんが小夜子を救ってくれていたと云うことも。
何となく事件も落ち着いて、だいぶんに憔悴し切った山本家両親からの謝罪があったりもして、その全てが片付く間も父は特に我関せずとしていたし、母に至っては小夜子を穢されたモノを見るような目で扱った。そうした両親の振る舞いに、もう一筋もの期待も寄せていなかった小夜子は、久しぶりに重たい足を引き摺って学校への道のりへと歩き出した。登校班には混じりたくないからわざと遅刻をした。そんな小夜子の口からはもう「行ってきます」の一言も出なかった。いつもだったらそれでも尚ウキウキと湧く心持ちも、ガァちゃんの石像が木っ端微塵に砕かれて、瞬く間に廃墟から燃えかすへと姿を変えてしまった洋館の前を通り過ぎる際にズキンと痛んで、小夜子をしばし放心とさせた。
山本くん。
半月ほど学校には通えずにいたし、山本家との話し合いにも終ぞ顔を出さなかった彼は、学校ではどんな顔をしているのだろう。むしろ通えているのであろうか。実の兄が児童を愛でるモノであったこと、何より小夜子にストーキング行為をし、尚且つ夜這いを掛けようとし、しかもその末誤って死んだこと。誰が噂したわけでもなく、それでも小さな町には興味を引き立てる大事件であったため、噂は瞬く間に広がった。 山本くん。クラスの人気者。その後どんな顔をして暮らしているのだろう。
小夜子が教室の扉を開けると賑わっていた教室が一斉にしんと静まり返った。 こうなることは織り込み済みだ。小夜子は敢えて気にしない素振りで自分の机へと向かった。山本くんが気に掛かる。しかし気に掛かるが故に目を向けられぬ。山本くんの取り巻きグループから何某かの攻撃を受けることも想定していた小夜子であったが、いじめっ子たちは小夜子にチラリと目を遣ったあと、小夜子などそこにいないかのように一人の男子を取り巻き始めた。山本くん…じゃあ、ない。「あの子誰?」たまたま隣の席にいた二、三人の男子の群れに問うと、小夜子に話しかけられたのが意外で有り大いにびっくりした体で「あ!、て、転校生だよ、…大鳥が休んでいる間に来たんだ」と
いない。
いつもだったら男子たちが集う山本くんの席には誰も居らず、その一角は妙に静まり返っていた。小夜子は山本くんも学校に来づらいのかな、確かに小学二年生とは云えことの重大さは分かっているだろうし、でも山本くんなら同情は受けても嘲笑は受けない筈だと小夜子は思い、また隣の男子の群れに「山本くんも休んでいるの?」と訊ねた。 男子の群れはその問いかけに何とも云えない表情を浮かべ、互いに互いを見遣ったあと、目だけで会話するように誰がその役目を仰せつかるのかを語り合い、そうして負けたのであろう、さっき小夜子の問いに答えてくれた男子が何とも重たそうに口を開いた。「…山ちゃんなら…引っ越したよ」 その答えに小夜子は「え!」と目を丸くした。
山本くんが引っ越した!?
小夜子はびっくりしたけれど、云われてみれば想定内の反応だと見て取れた。小さな町で起きた大きな事件。しかも口さがない人間に掛かれば嘲笑と陰口の的とも取れてしまう不謹慎さを帯びた事件。一家が地を離れるのも納得が行く。
むしろそれでも尚、この地に留まり尚且つ学校にまで通う己が異端なのではないであろうか。
山本くん…。『お兄ちゃん』のことは苦手だったけれど、未だ幼い頃、海岸で砂で出来た小さく果敢ない城を、それでも小さな手で懸命に協力して作ったあの時間は、小夜子にとっては特別だった。お兄ちゃんが『お兄ちゃん』になってしまってからは何となく避けてしまっていたけれど。きっと、あの底まで明るい太陽のような笑顔も笑い声も『お兄ちゃん』と云う、家族に取っては無理難題な存在を打ち消すための魔法だったに違いない。ああ、小夜子は何でもっと早く気付いてあげられなかったのだろう。気付いたとして被害者の小夜子に早々出来ることは無かったはずだが、それでも…。「大鳥も、さ」と、件の男子が小夜子の思考に縫って
小夜子は己が思っていた以上に『小夜子がいじめられていること』が周知されていることに気付かされ、顔をカッと赤らめた。恥ずかしい。恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。「山ちゃんも…だいぶ、気にしてたんだぜ…?」そんな言葉を右から左へと流しながら、己の顔の赤味を誤魔化すように「知っていたのに助けてくれなかったの…?」と、顔を素向けて答えの分かっている問いを敢えて問いただした。
件の男子とその群れは若干慌てふためいて、右往左往したのち、「で、でも、山ちゃんが大鳥のことを庇った時、その後もっと酷くなっただろ!?」と云い訳するように宣った。
小夜子は、ああ、あの時小夜子に対するいじめが始まった時分に「大鳥、大丈夫?」と声を掛けてくれたのは確かに山本くんであった。そして、その後いじめの度合いが若干過ぎ始めたことも。小夜子は己が賢しいことを充分に知っていて、そうして不躾にもクラスメイトたちを下に見ていたのだ。己を差し置いて他人を愚弄するなど何と情けないことか。
そう、自分が思っているよりもみんな(若しかしたら己よりも深く)互いを知っているものなのかも知れない。「メスゴリラはずるいんだよ、なんて云っていいか俺には分からないけど、とにかくずるいんだ」そう、悔しそうに云う男子に向けて、小夜子は「メスゴリラって…?」と訊ねた。「長嶋だよ、女子たちのボスの。俺たちの秘密のあだ名」そう云って唇に人差し指を当てる仕草をする彼の、その男子の台詞を聴いて、小夜子は思わずプッと吹き出してしまった。ガァちゃんを失ってから初めての笑いかも知れない。でも、何となく骨太で太ってはいないけれど逞しく、色黒でチカチカとした瞳は漫画で描かれるメスゴリラ、そのものだ。
小夜子は男子たちの陰ながらの声援を受けたような気がして、少しく溜飲を下げた。そして正々堂々と小夜子に声を掛けてくれた山本くんに改めて敬服する気持ちでいた。ごめんね、さよなら、ありがとう。でも。
『あなた達はあなた達のまま、そのままに生きて行けば良い』
そう思った小夜子は、つい先ほど机の横に引っ掛けた通学鞄を再び手に取り、横にいる男子の群れが呆気に取られるのも構わずにゆっくりと教室扉へと向かい、ガラリと戸を開け廊下へと出た。ちょうど前の扉から朝礼をするためにであろう、胡乱な顔をした担任教師が小夜子に向けて何かを宣っていたが、小夜子の耳には届かなかった。
廊下をずんずんと進む。途中、何度か見知らぬ教師に声を掛けられたり怒声を浴びせられたりしたが、小夜子は止まらない。もう、貴方たちに用は無い。
小夜子を、助けてくれなかった大人たち。
そして、小夜子を救うことの出来なかったクラスメイトたち。
仮令それが傲慢だと捉われようとも。
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