第18話 翁



 小夜子はポカンとしていた。

 つい今し方、ガァちゃんと話して(と、云うか奇行を見て)いたはずなのに、目の前からガァちゃんが消えてしまったのだ。座った姿はそのままに、しかし足元のセドナすらいない。辺り一面は夜の森のように昏く、己の手のひらさえ見えぬほどだ。完全に夜の中に取り残された。小夜子は狐につままれても分からぬほどの暗闇に身を潜めるのは初めてで大いに不安となったが、もしかしたら何処かにガァちゃんもいて自分を探してくれているかも知れないと思い「…ガァちゃん」とか細く名を呼びながら、取り敢えず四つん這いの格好になって辺りを探ってみることにした。手を着いた地面はじくじくと湿った水の感触を小夜子に与えた。何となく憶えのある触り心地に懐かしむ気持ちが湧いたけれど、今はそれどころじゃないと己を奮い立たせ、一声大きく「ガァちゃん!」と叫んだ。しかしまるで闇が声を吸い込んでしまうかのように小夜子の呼び声は響かず、小夜子は己が声を出せなくなってしまったのかと訝しむほどであった。


 声が届かないなら手で探るしかない。


 小夜子は右手をそっと前へ出し、地をならすように半円を描いた。途端にぼうっとたんぽぽ色の光の粒が地面から小夜子の手の軌道に沿って降って出て、小夜子の顔をほうっと照らした。光の粒は己が潜む地面にすら色を与え、小夜子は懐かしさの正体を見て取った。「ヒカリゴケ…」足先や着いた膝や指先に湿度を与えるそれは、あの廃神社に生えていた苔と同じ感触で、小夜子はいつの間にかあの場所に戻ってしまったのかと混乱したけれど、見上げてもそこに空はなく、目が痛くなるほどの闇がのし掛かって来るばかりで、小夜子は目を開けているのかいないのか分からなくなりそうになってしまい、苔の方に集中することと決めた。最初に森と感じたのは苔の緑の匂いが密だったからか、手探りで辺りを探っても樹木のようなものには触れることがなく、小夜子は四つん這いの格好をやめ、立って歩くことに決めた。裸足の足で歩くたびに苔は小夜子を歓迎するかのようにふわりふわりと胞子を舞い上がらせて、ガァちゃんもこの暗闇の中を歩いてくれていたら居場所が分かるのにな…と頭の中で独りごちた。一応何かにぶつからぬよう手は四方八方に広げながら、ゆっくりと歩を進めていると、遠くに白く霞んで滲む光が微かに目に映り、小夜子は暗闇の中まさに光を見出したような気分になって、その霞のような光の元へと歩を早めた。もしかしたら、あそこならガァちゃんがいるかも知れない。もしいなくとも、ガァちゃんが小夜子を見付けやすい場所には違いない!


 小夜子の早足が駆け足に代わり、その度に踏みしだかれる苔群の悲鳴が聴こえるほどになる頃、やっと辿り着いた霞の先にソレを見て、小夜子は愕然となった。「これって…あの廃神社の御神木だ…」

 小夜子がこっそりと忍び込んではよく寝転んでいたあの御神木のなれ果て。暗闇の中でぼうと光っているからか余計に大きく見えるその切り株は、あの廃神社にあった時と同じように、否、あの時よりも威厳を持って根を張っているように見えた。

 肌に触れる大気からビリリとした圧を感じる。妙な緊張感に支配された小夜子はごくりとつばきを飲み込んだ。なんか、こわい。金縛りにでも遭ってしまったかのように佇む小夜子は瞬きすら許されず、しかしそんな状況にも気付くことが出来ないくらい恐怖の虜となっていた。なんか違う、全然違う。見た目は一緒なのにあの廃神社に在った時とは怖さの格が違う。


「サヨ…」


 またもや耳元で恐ろしげな音に名を呼ばれた小夜子は「ひっ!」と声を上げた。「驚かせてしまったか」

 また違う方から聞き慣れぬ声がして、小夜子はギョッと声のする方へ顔を向けた。


 切り株の上に人が立っていた。


 その−−−ヒトと呼んでいいのか分からぬヒトは、一見好々爺然とした、つるりとした禿頭に白い顎髭を長く伸ばし、ボロボロの作務衣に素足と云う出立ちで、ニコニコしながら小夜子を見ていた。しかし、割と近くにいるはずなのに顔の印象はどうにもよく分からなくて、能面の翁が一番近いような気もした。「小夜子だな」 繁々と観察していたら当人から突然名を呼ばれびっくりした小夜子は、思わず大きな声で「はい!」と返事をした。気が付けば先ほどまでの妙な怖さは無くなっており、なんともまったりとした空間が広がっているように感じる。小夜子は恐れている自分をガァちゃんに見られなくて良かったと安堵しながら、目の前にいる老人への好奇心の虜となりつつあった。「あの、あなたは…?」小夜子はなるべく失礼に当たらぬようと考えあぐね、無難な問いに行き着いた。「ワシか。ワシはアレだ。この木に長々と棲みついているもの、とでも云うのかな」「棲みついている…?」「いや、この木そのものと云った方が分かりやすいかな」「それは…この木の霊みたいなもの、と云うことで良いですか…?」小夜子は神の依代ともなる御神木の霊となったらそれはもう神そのものではないか、と畏れ入った。「ハハハ、小さい身体に似つかわず中々に賢い娘だ、このモノたちが気に入るのも分かる」「このモノって…」


 と、小夜子が云いかけた途端、小夜子の周りにぼんやりと黄緑色に光る丸いモノが多数出現した。ホタルよりも淡い光を発するソレは、目が光に馴染んで来るに従い人型と見て取れて、異様に大きな頭にちんまりとした手足を付け、しかし目鼻のようなものは見当たらず、小夜子は昔父からお土産にもらった岐阜県名物の『さるぼぼ』のキーホルダーを何となく思い出していた。さるぼぼと違うのは、これらは服を着ていないことと、何となく身体を通して奥が透けて見えること。そしてどうやら異様なほどに小夜子を好いていそうなところ。 短い手足を使って不器用に小夜子へとにじり、登ろうとする姿が何ともいじらしく、小夜子はその場にぺたりと座った。途端にソレらは小夜子の膝や腿の上によじ登り、小さな声で「サヨ…、サヨ…」と呟くのであった。「この子たち…私のこと、知ってる…?」 座っては見たものの触れるとパッと光を放ち、小さな光の泡となって雲散霧消してしまう身体をどう扱って良いのか分からず途方に暮れてもいた小夜子は、半ば縋るような思いで老爺の方を向いた。「知っとるはずだ小夜子。あの地で何度も戯れたであろう。そいつらはあのコケの精霊みたいなもんだ。「触れて散ってもすぐに元に戻る。扱いに気を付ける必要もない」 


 にべもなくそう云われ、しかしだからと云って気を付けないことも出来ない小夜子は、出来るだけ触れることのないように注意しつつ、ヒカリゴケの精霊をまじまじと観察してみた。ヒカリゴケの精霊…不思議なことは何度もあったけれど、まさか精霊を目の前にするなんて思いもよらなかった。口がないのに言葉が聞こえるように感じるのは思念みたいなものが漏れ出ているせいであろうか。それにしても思考はまるでしていないように見えて、わらわらと小夜子の身体を這い回っては小夜子の名を呟く精霊は、ただ『好意』と云う欲のみで動いているように感じられた。小夜子は精霊と戯れる小夜子を見たらガァちゃんはやっぱり焼き餅を妬いてくれるのかしら、と思い、そこでハッとした。


「あの…!あの私、人と、と云うか人ではなくて、お、大きなモンスターと一緒にいたんですけど、ガァちゃんって云う名前の、

「彼は…彼はここにはいないのですか?突然消えてしまって」


 慌ててつんのめるように質問する小夜子を相変わらずよく分からない顔付きで見ていた老爺は、「ああアレか。アレはここには居らんよ」と当たり前のように云った。

 小夜子は慌てふためいて、「え?え?ど、どこに行ってしまったんですか?」と、ヒカリゴケたちが霧消することも厭わずに膝立ちとなって老爺に詰め寄った。


「分からんかな?」ニコニコとした顔付きに見える老爺は続けてこう云った。


「小夜子が隠されたのだよ」

「隠された…?私が…?」


 小夜子は呆然となって、老爺の言葉を鸚鵡返しすることしか出来なかった。


「いわゆる『神隠し』と云うやつだ、知っとるだろう」「そ、それは、し、知っていますけれど…」

 小夜子は何で私が隠されなければならないのか、と云う強い怒りに似た混乱を憶えたけれど、それと同時に怖気のようなものにも支配されてしまい怒りを口に出すのも憚られて、そうして、と云うことは私が突然ガァちゃんの前から消えてしまったこととなってしまったことに思い至り、ガァちゃんは今どれほど心配してくれていることだろうと悲しくなった。


「泣くのか、小夜子」


 老爺は特に巫山戯る口調でもなく、淡々と小夜子に訊いた。

 小夜子は先ほどまで可愛らしく思っていたヒカリゴケの精霊もが煩わしく感じられて、少し乱暴に立ち上がると「どうして、どうして私を隠したんです?」と強く尋ねた。ヒカリゴケたちはぽやぽやと崩れては現れ、小夜子の足の周りに集っては消えて行く。


「なぁに、特に意味はない。まあ此奴らが会いたがっていたのもあったが」「じゃ、じゃあもう目的は果たしましたよね?還してください!」


「ワシに命令するな」


 突然放たれた強い語気に辺りの空気が棘のように小夜子の全体を刺し、小夜子はヒュッと息を飲み込んだ。


 小夜子がそのまま動けずにいると、老爺は「この声が聞こえんか?」と問うて来た。

 途端に幾度か耳にしたあのおぞましい「サヨ…」と云う呼び声が耳元で響き、小夜子は再びヒュッと息を吸い込んだ。ソレはヒカリゴケたちの放つ呼び声とは似て非なるもので、やはり小夜子の背筋を充分に寒からしめた。


「これ…この声は、に、苦手です…」

 小夜子は震える首元で漸っと言の葉を紡ぎ出した。


「さぞ凶々しく己の耳元へと届くだろう、これが毒されたモノの声だ」

 老爺は相も変わらず読めない表情で、しかし飄々とした口振りでそう云った。


「あの…毒されたモノって…?」 小夜子は腕に鳥肌を立たせながら、尚も辺りを警戒することを止められず、ソワソワとした素振りで老爺に問うた。老爺は「ホホッ」と笑い声のようなものを発したあと「なんだ、その為に連れて来られたようなモンだろうに、いまだ何も知らんのか」と半ば呆れ口調で宣った。


「お主の連れ合いは余程のんびりしているのか、ことの次第をよく分かって居らんのか、もしくは伝えるのが怖いのか、どうだかは分からぬがいずれにせよ愚かだな」


「ガァちゃんは愚かなんかじゃないわ!」


 小夜子は先ほどの怖さも忘れて老爺に牙を剥いた。

 ガァちゃんの、あの優しくて聡明で勇敢なガァちゃんの悪口を云うだなんて木の精だろうと神様だろうと許せない!

 途端に足元に群がっていたヒカリゴケたちは方々へと散って弾け、辺りの空気がザワザワと波を立てた。小夜子自身も青い炎のような光を全身から滲ませ、髪はふわりと宙を舞い漂っている。「ホホ、怒髪天を突くとまでは行かないいが、あやかしに見染められることだけはあるな。善い気を持っている」


 小夜子は自分でもらしくないほどに憤っていた。 こんなに憤るのはいつぶりほどだろう。


 大事にしていたぬいぐるみを為す術なく捨てられた時?

 集めていたセミの抜け殻を「汚らしい」とゴミ箱にぶちまけられた時?

 大切に見守っていたドクダミの花を抜かれてしまった時?

 大好きだった塩化ビニルモノマー製の怪獣を弟に取られてしまった時?


 なんか違う。それらの時もそれぞれに憤ったけれど、小夜子は怒りよりも悲しみが勝ってしまう質の人間だ。だからそうきっとこの憤りは。


 小夜子が生を受けてから、初めてと云っても過言ではないほどに純粋な怒りであった。


 ふいに隅の方からバチバチっとした音が聞こえ、老爺は怒る小夜子をそのままにそちらへと顔を向けた。「やはり人間らしさ、感情に反応するか」そうボソリと呟いた老爺は小夜子へと向き直り未だ怒り冷めやらぬ小夜子に「さて小夜子」と声を掛けた。 


 初めての怒りの制御がどうにも上手くいかない上に、何だか身体から青い光までをも立ち上らせてしまっている小夜子は、フーフーと肩で息をしながら、何とか自分の心を冷静にしようと努め上げていた。老爺の放った言葉はとても許せたものではないけれど、今は冷静に話を聞いたほうが良いと判断したのだ。それはきっとガァちゃんが小夜子に望んでいる「救い」の一部の話に違いない。本当はガァちゃん本人からきちんと聞きたかったけれど、老爺の「伝えるのが怖い」の一言が妙に引っ掛かり、小夜子は不承不承に耳を傾けようと努力した。


「耳の奥まできちんと届くならそう無理はせんでもよい。じじいの話は長いと相場が決まって居るからな。それに怒りと云うものはそうそう長くは留まって居られんものだ。記憶に長く留まることはあれどな。そうして、思い出しては過去に怒る、人間とはまこと不憫な生き物なものだ。ホホ。さてさて何の話だったか。そうかアレらの話だったな。「アレらがこの地全体に蔓延り出してからどのくらい経ったかはワシもよく分からん。正直興味もないでな。侵略されて無くなるならばそれはそれで別段構いやせん。「そのくらい長い時間をここで過ごした、正直云えばもう飽いた」

 小夜子は老爺の云っている『アレら』の正体が分からず「アレらって何ですか?」と問うた。怒りはいつの間にか冷めて居り、身体から出る青い光も波のようにうねる髪の毛も何ごともなかったかのように元通りに戻っていた。


「ああ、アレか。アレは毒草だ。蔓のような出立ちで棘のついた、まあ茨かな。愚かなことに己の身までもを毒に染め苦しみながらこの地を戦略せしめんと行軍して居る。哀れなものだ」


「ソレが…この地の危機なのですか?」「まあ危機と取る輩は取るであろうよ。ワシは先ほども云ったようにどうでもいいのだが。ほれ、先ほどお主の怒りに反応した辺りも毒素に侵されたコケどもの末路だ。おどろおどろしい声で名を呼ばれたろう?まあもうお主の怒りに触れて焦げてしまっただろうがな、ホホ」老爺は相変わらずニコニコした体で楽しそうに語った。小夜子には今の一連の何が楽しいのかさっぱり分からず呆然としていた。

 ガァちゃんの大切なこの地に毒の茨が蔓延って、ガァちゃんたちの棲家を奪おうとしていると云うこと?確かに幾度となく「サヨ…」と呼んで来た毒に侵されたと云うコケたちの呟きは余りにも凶々しくて、そんな毒気に直に当てられてしまったらと思うと、とてもじゃないけれど小夜子は恐ろしくて生きた心地もしやしない。小夜子は妖怪もモンスターも幽霊もUMAも怪獣もちっとも怖くはなかったけれど、この毒気はどちらかと云うと「人の怖さ」に似ていて、小夜子には余程恐ろしかった。先ほどから名を呼ばれる度に頭の隅にチラついていた『お兄ちゃん』のあの視線。うつろなのにギラギラと輝く死にたての魚のようなあのまなこ。そう、どうしても受け付けられない『欲望』のようなものが潜んでいるように思えて、小夜子には気持ちが悪いほどだった。その『欲望』をこの毒気にも感じて、小夜子はぶるりと怖気立った。ガァちゃんが、望むこと。それは小夜子がアレらに立ち向かうことなのだ。小夜子はその考えに至りもう一度身体をぶるりと震わせて、そうして尚も小さく震えている自分に気付いた。


「アレらが怖いか」


 老爺の問いにすらビクッとした小夜子は、正直にコクリと首を項垂れるようにして下げた。ガァちゃんのためなら何でもすると誓ったはずなのにいざとなったらこの体たらく。小夜子は自分が情けなくて、消えられるものなら消えてしまいたいくらいだった。でもそれじゃあガァちゃんたちの地を取り戻せない。さっきの老爺の言葉が本当ならば、小夜子の力でないと、この毒気には立ち向かえない。私にはそんな力はないと云い切ってしまいたいけれど、その力があることは先ほど証明されてしまった。でも−−−「あの…焦げたって云うことはもう元には戻らないって云うことですよね?」「そうだな。お主が怒りに任せて殺したからな」

 小夜子はグッと唇を噛み、敢えて小夜子が考えぬよう避けた言葉を飄々と口にする老爺を恨んだ。そうしたくてそうしたんじゃない。それに小夜子を怒らせたのは老爺じゃないか。

 小夜子は恨み節の一つでも吐きたかったけれど、どうにも表情の読めない翁の面のような顔を見ることすら何だか凶々しく思えて来て、先ほど小夜子が焦がしてしまった辺りに顔を背けた。よく見えないけれど、確かに煙水晶の色をした煙が暗闇の中半透明な茶色の帯となってゆらゆらと揺れている。殺してしまった。小夜子が。

 小夜子は小さく「ごめんね」と呟いたあと、痛む胸に手を当てて、きゅううと切なく走る感情が過ぎ去るのを待った。こんな思いを何度もしなければならないのであろうか。何か他に方法はないものであろうか。毒素だけを抜くだとか−−−何か彼らを清浄きよらかに戻す方法が、何かないものであろうか。小夜子は老爺に訊くのも何だか癪だったけれど、こんな思いを何度もするくらいならと心を折って再び老爺に向き直り、「他に何か方法はないのでしょうか。焦がすよりも、こう、毒素だけを抜くような…」と問うた。「さあてな」


 老爺は実につまらなそうに返事をし、小夜子は予想はしていたけれどやはり随分とがっかりした。そんな小夜子の心情を知ってか知らずか老爺は、「しかし人の子の感情に反応することは分かっただろう。あとは色々とやってみれば良かろうよ、泣いたり笑ったり怒ったり…はしたか」と言葉を添えた。

 小夜子はなるほどと思ったけれど、重要なことも同時に思い出した。


「私、この地にいると涙が出ないんです」


「ホホッ」 老爺はさも愉快そうに笑い、「なるほど、なるほど」とひとり得心がいったように頷いた。小夜子は訳が分からないし、どうやらこの老爺とはとことん性格が合わないような気がして、小夜子には珍しくイライラとして来、つい声を荒らげがちに「何がなるほどなんです?」と訊いた。


「イラついている割に言葉遣いが丁寧なのは親の躾が良いからかの。しかしその親には疎んじられ、学校でも蔑ろにされて、やっと居場所が出来たと思ったら魂を抜かれた上に使い捨てられる運命か。おお不憫じゃ不憫じゃ」と、謳うように翁は紡ぐ。 紡がれた言葉に小夜子が呆然としていると、「今のお主は魂のない人形のようなものだ。感情はあるがな。いや、逆なのか、器のない魂なのかな。奴らはどうにもややこしくて叶わん」

「ガァちゃん…私が一緒に旅をしているモンスターは私を『妖怪になった』と云っていましたけれど…それに…、「それにガァちゃんは私を使い捨てるなんてことはしません」「しない、絶対に」

 小夜子は老爺を真っ直ぐ見て云い切った。


 老爺は「ホホッ」と笑ったあと「またもや逆鱗に触れたかな?」と茶化すように訊いて来たが、小夜子の中に怒りはなかった。小夜子は分かっていたからだ。ガァちゃんが小夜子をその様に扱うことは仮令天地が引っくり返り、空から山が生えて雷が地上から湧いて出ても絶対に起きやしないと云うことを。

「さぁてお主の相手もそろそろ飽いて来たようだの」


 小夜子はやっとガァちゃんの元に還してもらえると思うと安堵で胸がいっぱいになった。今頃必死に小夜子を探してくれていると思うとしきりに胸が痛む。ここに連れて来られてもう随分と経ったようだし、きっと途方に暮れているだろう。早く還りたい。一秒でも早く。


「さてさて、ではではどうするか。消してしまおか、殺してしまおか」


 またしても謳うように紡ぐ老爺の言葉に小夜子は耳を疑った。


「え、…なん、なんでですか…」


 どうしていきなりそんな方向に思考が傾くのだろう。最初からそのつもりで連れて来た?それとも小夜子が無礼な仕打ちを知らず知らずの内に働いてしまっていたのであろうか。折角ガァちゃんの地を救える手立てが朧げにも分かって来たのに、ここで消されてしまうなんて、そんなのって、ない。「なんでとな?特に意味はありゃせんよ。そうしようかなと思ったから言葉にしただけだ」「で、でも私がいないとあの毒素がこの地をも侵してしまうんでしょう?」「ホホッ、さっきも云ったろう。ワシはそんなことには興味がない。滅びるものは滅びればいい。それが定めだ」「ほ、滅びればいいと思っているんですか?」「別にそうも思っとらんよ。ただお主のことは思い付いただけだ」

 小夜子は戦慄した。山本くんの云っていた『善くない場所』の意味が分かった気がした。妖怪たちとは圧倒的に違う、この分かり合えなさ。このヒトは人の形を取っているだけで人ではない。人を、命を、道端の石ころほどにも思っていない。人どころかこの世の何もかもを何とも思っていないのだ。


 なんて悲しい存在だろう。

 小夜子が心の中でそう同情した時、老爺の雰囲気がざわりと変わった。


「同情だと?虫ケラにも及ばぬ小娘がワシに同情だと?小賢しい。良いだろう、還してやろう。お前の望む場所その時間ときに。そうして思い知るが良い、選ばれた人間だと驕っている己の浅はかさを。そうしてもがき苦しむが良い。恐怖に打ち勝てずおののく己を。身をよじらせて嘆くが良い。大切なものを失う真の喪失感を。その全て、全てを身を以て味わうが良い。得とな」


 その瞬間小夜子は淡い消し墨のような塵に包まれて、一瞬にして視界が消えた。  そうして元の、セドナの身体の上へ元居たままの形で座り込んでいた。

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