第17話 現在地
小夜子が己が手のひらを懐で合わせ祈るような形を取った時、ガーゴイルもまた祈るような心持ちでいた。もしこの地を再びあの頃のような、賑々しくも果敢ないモノたちの依り代として調えることが出来るのなら、かの星空に映る
などと、らしくもなく殊勝な心緒でいたガーゴイルであったが、幸も不幸もないのがこの地の居心地の良さであったことを思い返し、己が心内の変化に大いに戸惑うた。
あの時ドラゴンはなんと云った−−−?
ガーゴイルが未だ茨の蔦に絡まれ取られ、庭先のひとつの石像であった頃−−−それはつい先日の事のようでもあり、何十年、何百年も前の事のようにも思えるが−−−幼き小夜子の可愛らしい勘違いで己が目前に顕現されたドラゴンは、ガーゴイルの抱えた玉を見て、
−−−彼の地を
「ガァちゃん」
小夜子の呼び掛けに、続くドラゴンの言葉は掻き消され、ガーゴイルをひしゃげた緑の庭先から硬い石造りの堅牢な王国へと呼び戻した。「どうした、小夜子」 無垢なる祈りから醒めた小夜子をガーゴイルは目で追った。小夜子はガーゴイルより少しだけ前に出て、石と岩だらけの青味がかった灰色の地を懐かしむような視線で眺め回し「この地で…貴方は、そしてみんなはどう云う風に過ごしていたの?」と、 先ほどの設問に「みんな」を足して、小夜子は再度問いかけた。
俗に『妖怪』と耳にするとどのようなイメージが湧くものであろうか。
恐ろしい、
怖い、
不気味、
不可思議、
不安、
醜い、
不吉、
不幸、
穢らわしい、
疾病、
そして、死。
大凡の、世の中の有りとあらゆる不平や不幸を、そして時に死をも司るモノ、そんなイメージが大抵の人々の脳を過り、そうしてほんの少しの不安の翳りを残して去って行く。そんな人々の恐れや不安や苛立ちが、彼らの糧でもあったのだ。
そうしてそうやってここに在った彼らは−−−驚くほどに平和であった。
昼に潜むモノは太陽のない昼間に、闇を慕うモノは月のない暗がりに、水に棲まうモノは水辺に、森に巣食うモノは森林の木陰や木々の
例えば−−−
主に北欧はスコットランド地方に顕現されていたケルピー。
彼は馬のような外観を持ち、時にその半身を
故にこの地に湧くケルピーは雨の多いと云われるイギリス諸島の、些か鬱屈とした空を背景として、色濃い緑豊かな森の中にふっと湧いた透き通るような小さな湖にその身を遊ばせたり、時にふっと川岸や海辺に湧いたりとしながら、色が白黒と変わることすら厭わずに、ただ水辺にいることを楽しんでいた。
ガーゴイルはその馬のようなあやかしの名すら知らなかったけれど、それがなんとも奇妙な水棲の馬で、時に口の端に血糊のようなものを付けて還って来ることもあることから、人の子らにとって『善いあやかし』ではないなと云うことだけは窺い知ることが出来ていた。でもそれきり。いつだって彼らに対する各々の知識はその程度で、若しくは全く関心のないものの方が余程大半で、ガーゴイルは名も知らぬソレらがどう過ごしていたかを小夜子に伝えるのに大層な時間を掛けた。しかし小夜子はそれらの特徴や住処や居場所を教えただけでもソレらの名に合点がいったようで、ガーゴイルはまたしてもこの幼きものの知見の広さや聡さに恐れ入る心持ちであった。
「水に棲む妖怪ばかりなのね」
少し怪訝な面持ちを眉間に忍ばせた小夜子の一声に、ガーゴイルは声のする方向に顔を寄せた。不思議そうでいて不穏な声色を乗せたその声は、伏せがちでその表情は見えないけれどいつに増して暗く、いつもの小夜子と印象を隔てていた。
暗闇に紛れ込んだような小夜子は昏がりから滾るように「だって、貴方は空を得意とするモノじゃないの?」と続けた。「なのにどうして水に潜むモノばかりを見知っているの?」
小夜子はガーゴイルの話す妖怪の特徴が全て水棲のモノであること(そしてその中には小夜子の心のライバルでもある美しきセイレーンらしきモノもいたこと)を不思議に思い、それはもしかしたらガァちゃんが美しきセイレーンの元へ足繁く通っていたからなのではなどと邪な憶測をしては己にがっかりとしたり苛立ったりとし、設問の仕方が少しなおざりに、否、感情的になったことを悔いた。
恨み、辛み、僻み、妬み。ああ、己の中にも確りと息付いている。
小夜子はもう一度胸に手を当て深く深呼吸をして、己の中の邪さを吐き出そうとした。
実際に大気はないと云われても、その気になれば思い切り深呼吸を出来たような気もして、心が少しくすっきりとした。小夜子は長い栗色の髪の毛をサラリと宙に漂わせ、くるりとガーゴイルへと向き直り、「ガァちゃんは、どうやって過ごしていたの?」と三度問うた。
ガーゴイルは呆然自若とした。
小夜子から何度か向けられた設問にやっと向き合えたと思えば己の中は伽藍堂なのだ。この地でどうしていた…?オレは一体どうやってこの地で過ごしていた?どんなに頭の中を振り絞ってみてもまるで中身の空っぽな玩具の達磨のように記憶の器はポッカリとしていて、思い出せるのはやはり最後に女王が砕け散った場面とその前後くらいなのだ。羽が付いているからには飛んでいたのかと夢想してみるが憶えになく、地表を見下ろす景色すら持っていない。ここがどんな風だったかは昨日見たかの如く思い出せるのに、その景色の中に己の姿が見えぬのだ。まあ視線の中に己がいるのも可笑しな話ではあるが。だが、しかし。
「困ったな…小夜子」
「どうしたの?ガァちゃん」
立ち尽くした考える人の像みたいな体になっていたガーゴイルを心配気に見守っていた小夜子は、慌ててガーゴイルの前に駆け寄った。
ガーゴイルは己がこめかみの辺りを爪の先で突つきながら、
「オレのここにはこの地での暮らしの記憶が思っていた以上になさそうだ」と宣った。
ガーゴイルは近くの手頃な岩へと腰を掛け、少し項垂れた。
人々から忘れられ、己の記憶まで失ったのならいよいよ己はただの伽藍堂だ。木偶の坊と云っても良いほどだ。今となっては最前まで思い出していたこの地の景色もただの書割のようにも思えて、ガーゴイルは何が本当で何が嘘なのか分からなくなっていた。記憶と云うものは脆いもので、一つを疑いだすと二つ三つと次から次へ、ほろほろと崩れ行く。
「ガァちゃん…」
ガーゴイルの腿の辺りに手を添えて、心配気に顔を覗き込んでいた小夜子がそっと呟く。
「忘れちゃうって寂しいよね…」
ガーゴイルの膝に己の両手をそっと重ねて置き換えて、そこに頬を寄らせた小夜子は八歳とは思えない表情で言葉を紡ぐ。この娘は時に己を年齢不詳として化けさせる術でも持っているようだ。
「私もね…もっと小さい頃から度々記憶を無くしちゃうことがあるの。大抵はお父さんやお母さんが怒っていたり機嫌が悪かったりする時なんだけれど。心がね、そこではないどこかへ飛んで行ってしまうの。これは解離障害とか云う病気なんだって。 でも、私の場合は消えちゃうのは嫌な記憶だからそんな記憶は憶えていなくてもちいとも構いやしないのだけれど、ガァちゃんのここで過ごした記憶はきっと愉しくて、かけがえのないものだったのよね」
ガーゴイルは小夜子のハラハラと流れるように謳う声を聴きながらも、その眼差しの庇となる長い睫毛に見惚れていた。言葉を吐き出す度に同調するようにふるふると震える煌めきが眩しい。まるで星屑でも乗せているようだ。涙の出せぬこの土地で、小夜子は泣いているのであろうか。己のために。そしてきっと小夜子自身のために。ガーゴイルは無意識に小夜子の小さな頭に触れて、サラリとした髪に指を分け入れ頭の形を測るようにそうっと撫でた。撫でるたびに髪の毛はさらりはらりとガーゴイルの指から離れ、重力のない青い空間へと落ちて行く。
そんなガーゴイルの手の動きに小夜子は今にも泣きそうになった。
そうして涙の出ない土地で良かったと安堵した。きっと涙が出てしまうのならば、小夜子は赤児が如く大泣きしてしまったであろう。ずっと欲しかったものをガァちゃんはまたもや小夜子にくれたのだ。優しく頭を撫でられること。警戒心の強い犬以外で、この行為を嫌う生き物がいるであろうか。小夜子は『普通』では手に入らないものをたくさん持っていたけれど、一番欲しいものは『普通』に与えられるものだった。頭を撫でられること。日常のたわいのない会話。抱きしめてくれる腕。安心していられる場所。
小夜子はガァちゃんを慰めるつもりが自分が慰められてしまう展開になってしまったような気がして申し訳なく思い、尚も頭を撫で続けてくれるガァちゃんに目一杯の感謝の気持ちを捧げながら、「ガァちゃんが、この地で最後に覚えていることはなぁに?」と訊ねた。 ガーゴイルと小夜子は再びセドナの地へと戻っていた。ガーゴイルの(今となっては)不確かな記憶が確かならば、己が最後にいた辺りはここいらと云うことになる。
小夜子が云うには記憶を無くした際、その直前に取っていた行動を真似ると記憶が戻り易くなるらしい。「どこでそんなことを知った?」と問うたら「ブラック・ジャックが云っていたから間違いない」と云う言葉が返って来た。
彼女に云わせると、そのブラックなんたらは『世界一最高のお医者さん』らしい。だから間違いないんだ、とも。ガーゴイルは訳が分からなかったが、今となっては自分自身よりも余程一番信用に足るこの幼き者の云うことならば何でも聞こうと云う心持ちになっていた。道々憶えている限りのことを小夜子に話しながら、そうして二人、来た道は曖昧なれど何となく気の向くままに歩いていると、青灰色を帯びた薄暗がりの地面から、ぼうっと勿忘草色をした灯りがしみじみと湧いているのを見て取って、小夜子は「セドナが呼んでいるみたい」とぽそり呟いた。
「もう一度彼女に触れられるとは思わなかった…」
小夜子は『セドナであったモノ』を優しく撫ぜ、やはり少し切な気な表情を浮かべた。
「貴女がこんな風でなかったら、私たちお友達になれていたかも知れないのに」
小夜子の手の中できらきらと果敢無気に内側から明滅する水晶の粒群のようなソレは、一瞬ほうっとした光を発したように見えて、ガーゴイルと小夜子は互いの目を見合った。「…応えて、くれたのかな?」「どうだろうな。どちらにしろ気位の高いあやかしだったから、小夜子の提案も飲んではくれなさそうだ」と、ガーゴイルは揶揄うように云って小夜子の頬をぷうと膨らませた。
「それで!?」
膝を折った姿勢から急に立ち上がった小夜子は、それでも優し気に女王の欠片たちを元いた場所へとそっと払い落とし、片手を腰へ当てるポーズを自然と取りながらガーゴイルに向き直り云った。「ガァちゃんは何か思い出せたの?」
ガーゴイルはどうにも大人びて見せようとする小夜子のその振る舞いに出て来る笑いを堪えながら「やはり思い出せるのはこの前後くらいだな」と宣った。
実際先ほども今もここにいて思い出せるのはあの時の半身を魚に変えたモノとのやり取りくらいで、小夜子が何故かプリプリしながら名を教えてくれた、そのマーメイドと云う人魚に無理矢理泡玉を押し付けられた、その事柄の前に己が何をしていたかもあやふやであった。
少し考える素振りを見せていた小夜子は、周りをぐるり見渡した後「ここら辺りは海だったの?」と訊いた。
ガーゴイルは小夜子に倣うように周囲をぐるりと見渡し「そうだな、海…と云うか水のようなモノの広がる地ではあった」と答えた。
海と云えば波が泡立ち纏わりつく生命の痕跡と塩気を含んでいたような、しかし川と取れば淡い青臭さの残る静かな流れでもあったような、そこいら当たりもあやふやであった。それはこの地特有のものでもあったのかも知れないが。
「セドナ、サルード、ケルピー、ゼーオルム、サルガッソー、マーメイド、ニクス、タラスキュ、レビヤタン、オーガ、カボ・マンダラット−−−」
指折り数えながらブツブツと言の葉を発した小夜子は、「ガァちゃんが話してくれた妖怪の特徴を考えると…私のわかる範囲だけれど大抵は…と云うかほとんどがやはり水に棲むモノだわ」と云った。
ガーゴイルは小夜子の呟いた言葉の中に何となく懐かしい響きを感じたような気がしたが、それがどれに対してだかは分からなかった。
「それにしても今回は名を呼んでも出て来ないのね」
「みんな忘れ去られて玉に込められてしまったのかも知れん」
「でも『マーメイド』辺りは有名だから今の世界でも通じそうなのに」
「その『マーメイド』とやらは−−−」
と、ガーゴイルが言葉を発しかけた刹那、二人のすぐ足元からぶくぶくと大小の泡が立ち、やがてそれは青く小さな水溜まりのような大きさとなって、ボコボコとした泡群の隙間からニョッと先端が湾曲された棒のようなモノが二本覗いた。ガーゴイルがギョッとしながら見据えているとその水溜まりの小ささに少し苛立ったようにざぶんと飛沫を上げ顔を現したソレは、魚のような大きな頭部に、何ものでも飲み込んでしまいそうな大きな口を持ちその中に鋭い牙を生やして、目は穴を穿ったように黒々とし大凡感情の一つでも汲み上げられなさそうな、奇妙な出立ちをしたあやかしであった。最初に出て来た棒のようなモノはどうやらこのあやかしの角であるらしく、前方に向かって傘の柄のように何かに引っかかりでもするかの如く曲がっている。 「なんだ…このあやかしは…」その奇妙な見てくれにガーゴイルは言葉を失った。 一方、小夜子は両の拳を握り締め「水木しげる先生の
「小夜子、知っているのか、この−−−」
「不気味なって云うンならその口を閉じな」
まるで海の底から割れ出たようなブクブクと濁った声音にガーゴイルと小夜子はビクッと身構えた。
「そこの小娘だね、何のつもりかは分からないがわざとこの姿を想起しながら名を発したろう
「別に己の見てくれなんて何だって構いやしないンだがね、どうもこの見場だけは慣れないもんだよ」
と、ゴボゴボとした音を混じえ口端から泡を発しながらマーメイドは宣った。
「こんな口じゃあ喋るのも一苦労だ」
小夜子は水木しげる先生の描いたマーメイドがユニークで好きなこともあったけれど、それ以上にガーゴイルに美しい姿のマーメイドを見せたくなくて、より強く願って名を呼んだ自分の浅ましさを恥じた。小夜子は顔を耳まで赤くして俯き、小さく「ごめんなさい」と呟いた。
マーメイドは
ガーゴイルは何のことやらさっぱり分からずそのまま「何のことだ?」と問うた。
「アンタ…アンタもあの時とだいぶん見場が違うようだが、まぁあのドラゴンがそう云うンならそうなんだろうサ。それ、忘れ物のお届けだよぅ」云うなりマーメイドは口を顎が外れんばかりに開け、おゴボボボぉと声を上げながら尚も皮膚が裂けてしまうほどに大きく口を開けた。
小夜子は突然のマーメイドの奇行にこちらも口をあんぐりと開け放心するしかなかった。私、もしかしてとんでもないマーメイドを呼び出してしまったのかしら…。
ごボボオボボボと苦し気な声を発しながら
この玉、見覚えがある。
小夜子はセドナの上に吐き出された玉を相変わらず口を開けたまま放心して見ていた。
「ア、アンタは口開けてなくていいンだよ」と、ゲボゲボとえずきながら小夜子に放ったマーメイドは、「あン時アンタに託しただろう、何忘れてってんだい」とガーゴイルに向かって悪態を付いた。
ガーゴイルと小夜子は互いを見合い「あの時?」と同時に発した。
「あなたが…」
「貴様が…?」
「ちょっと待て。オレが玉を受け取った時とだいぶ姿が違うようだが…?」
混乱し己の額に手を当てたガーゴイルを見てマーメイドは呆れたように「だからさっき云ったろうサ。そこの嬢ちゃんの想像の賜物だよ」と宣った。「イヤ、なんか性格もだいぶ…」「それこそこっちの知ったこっちゃないね。それに見た目に関しちゃアンタだって相当なもんサね」と相も変わらずゴボゴボと口の端から泡を出しながら、面白くもなさそうに宣った。そして小夜子に向き直り、「そもそも嬢ちゃんが庶民的なマーメイドとして顕現させてくれりゃあこンな苦労もせずに済んだンだ。一般的なマーメイドにゃあ手があるからね」
小夜子はまた耳まで顔を赤くして再度「ごめんなさい」と謝った。確かに先ほどのえずきぶりはとてもとても苦しそうで、小夜子まで一緒にえずきそうになったほどだった。
「まあ、お役目も果たせたし、アタシも忙しい身だからここいら辺りで失礼するよ。ああアンタ、名は知らないけれど兎に角ソレはアンタに託したンだから、アンタもしっかりお役目を果たしておくれよぅ」
云うなりマーメイドは河童の時と同じように己を流動体として、サラサラと時の彼方に流れて消えた。
ガーゴイルと小夜子はマーメイドの残して行った玉を呆然と見下ろしていた。 それは確かに石像であった時分にガーゴイルが抱えていた玉で、しかし今は洗われたように艶々と、真珠色の滑らかな外殻を持った丸い蛇の卵のようであった。
小夜子はその場にしゃがみ込み、触ってみても良いかとガーゴイルに尋ねた。ガーゴイルは小夜子に穏やかな視線を送り、それを是と取った小夜子は玉に向き直ってマジマジと玉を見つめた。玉は傷一つない滑らかさとどこか赤児の肌を思わせるぷっくりとした愛らしさも備えられていた。セドナの滲ませるほの灯りに照らされて青光りする辺りなどは、いつか母に見せてもらったアコヤガイの銀色に輝く真珠のネックレスを思い出させ、小夜子を少し物悲しい気持ちにさせた。小夜子と母の間にも、かつてはそう云う時間はあったのだ。「これは小夜子が大人になったらあげる」と、その時いつにも増してご機嫌な母は、大ぶりのバロックタイプのシルバーパールが一粒付いたネックレスを摘んで小夜子の目の前に掲げ、約束してくれたものだった。小夜子はその真珠の雲のような魚のような不思議な形を大層好み、喜んだものだった。 母は憶えているだろうか、あの時の、母の宝箱を二人で内緒話でもするかのように覗きあった瞬間を。小夜子にとってはどんな宝物より美しく感じたひと時であったあの時間を。
小夜子は人差し指を恐る恐る前へ出し、一瞬躊躇したのち、玉の側面につうっと指を走らせた。それは不思議な感触だった。その玉には明らかに毛は生えていなかったけれど、小夜子はいつか中庭に遊びに来た野良の黒猫の、黒光りする前足を同じように指で撫でた際の感覚を思い出した。つるりとして、ふわりとして、なめらかで、愛おしい。 母がこだわって設えた、居間に掛けられたビロードのカーテンの重厚な手触りよりも余程に美しい黒猫のそれは小夜子をたちまち虜とし、何度も触れては、野良にしては人当たりの良い黒猫の、い草のように強い辛抱を切らして手に引っ掻き傷を付けられるに至ったほどだった。思い切って手のひら全体で玉を撫でてみる。やっぱり猫のそれみたい。世の中にこれほど手触りの良いものがあるだろうか、と小夜子はうっとりとしてしばらくその感触を楽しんでいた。
「サヨ…」
ざわりとした声が耳元で聞こえた気がして小夜子はまたビクッとし、身を竦ませた。「どうした?小夜子」
小夜子が玉と戯れる姿を微笑ましく見守っていたガーゴイルは、小夜子の突然の変異に身を強ばらせた。小夜子は自然と左手をガーゴイルの足に寄せてぶるりと身を震わせた。
ガーゴイルがその場に片足立ちでしゃがみ込み「大丈夫か?」と覗き込んだ小夜子の顔は先ほどまで嬉々としていたとは思えないほどに青白く、月明かりを浴びたビスクドールのように生気を失っており、ガーゴイルは小夜子の肩にそうっと手を置き先ほどよりもゆっくりと「大丈夫か?小夜子」と問うた。小夜子はしばらく放心したような素振りをしたあと、スミレの花のような色合いの唇を
「変な…何だか恐ろしいような、悲しいような…変な音に名前を呼ばれて…」
と、漸っと声を振り絞るように告げた。 ガーゴイルは首を捻りながら「オレには聴こえなかったが…」と困惑しつつ答えるのがやっとだった。それほどまでに小夜子は怯え震えていた。「小夜子も色々あって疲れているんだろう、少し休もうか」
ガーゴイルの提案に軽く首をこくりと下げた小夜子は、しかし辺りを気にしているようで一向に落ち着かず、ガーゴイルは、
「セドナの上にでも乗せてもらうといい、彼女の上ならきっと落ち着く」
と、小夜子の背中をそっとセドナの方へと押した。小夜子は押されるがままにセドナの上へとふわりへたり込み、そんな小夜子の小さな衝撃で水晶の灯りが明滅して、小夜子をほの青白く染め上げた。その色めきにしばし放心した小夜子は、「ガァちゃん、私、真珠みたい?」とガーゴイルに訊ねた。
真意の解らぬその問いかけに一瞬戸惑ったガーゴイルだったが「小夜子は真珠よりも綺麗だ」と思った通りの言葉を返した。
ガーゴイルの意外な返答に放心したままの視線を送っていた小夜子は、一気に顔を赤らめて、「そ、そう云えばこの玉はどうするの?」
と、己の問うた質問内容の恥ずかしさも相まって誤魔化すように宣った。小夜子は先ほどまでの身も凍るような恐ろしさや悲しさが吹き飛んでいることに気が付いた。
やっぱりガァちゃんってすごい。小夜子の守り神みたい。
そんな小夜子の想いを知ってか知らずか、しかし明らかな小夜子の顔色の変化に心の中で胸を撫で下ろしたガーゴイルは「さぁて、どうするかな」と茶化すように宣い「どうやらこいつは相当大切なモノのようだから、さっきのあやかしに倣うとするか」と云い終わるか終わらないかのうちにセドナの上から玉を指先でヒョイっと掴み、大口を開けてパクリごくりと飲み込んでしまった。小夜子は息つく暇もなく一連の動作を呆気に取られながら見たのち「え!ええー?」と驚いた。
ガーゴイルは「ここなら安全だ」と己のお腹辺りを見遣りながらポンポンと叩き、「片手が塞がるともしもの時に困るからな」
と、振り向いたがガーゴイルの視線の先に小夜子の姿はなく、小夜子の形に窪んだセドナの、セドナだったモノだけがガーゴイルを憐れむように悲しむように静かな明滅を繰り返していた。
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