第16話 小夜子八歳・梅雨時
小夜子がその神社を見つけたのは全くの偶然であった。
蒸し蒸しと湿気ばかりが募る空梅雨の、薄暗い雲の切間からほんの少しの抜けるような青がちらほらと映る午後。日曜日であったが特に予定もなく、家にいてもなんだか居心地は悪いし、開けた窓からほんのり通り行く風は室内の空気を澱ませるだけで一向にすっきりとはさせず、どうせ部屋でもやもやとしているだけならば外にでも行こう、と当てもなく家を出た。
小夜子は梅雨の季節も好きだったけれど、こうもすっきりはっきりとしないと湿度ばかりが気になって、じめじめとした大気が身体中に
小夜子は雨の日も晴れの日と同じくらい好いていたし、様々なもの達が雨粒に打たれ、その匂いを変化させる様子も好んでいた。中でも雨音の歌声を耳にするのは格別であった。屋根をトントンと鳴らす音、外壁にヒタヒタと打ち付ける音、庭のポリバケツをタンッタンッと小気味よく鳴らす音、シトシトとした擬音、ザアザアと云う擬態、気持ち良さげに謳う蛙の鳴き声、植物群の歓喜の雄叫び、紫陽花の葉から垂れる雫の一滴、ちょいと摘んで離せばのんのんと腕を這うカタツムリ達の足音−−−そう云ったものを小夜子に与えずただ湿度ばかりを上げて行く今年の梅雨に、小夜子は辟易とした気持ちでいた。
居間に置いてある共用パソコンで天気予報をチェックした小夜子は「降雨予報三十%」の文字を見て、傘をぶら下げるのを止めようか迷ったけれど、雨と傘の立てるセッションも大好きだったし、なんせ傘の模様が目玉の親父と云う大のお気に入りのものだったので、三十%の望みにかけて傘を手に取りぶらり出た。
Tシャツの上に長袖のシャツを羽織りデニム地の長ズボンと履き慣れたズックを履いて、髪の毛は丸めてお気に入りのキャップの中にしまうと云う出立の小夜子は、元の華奢さも相俟って男女の別を目立たなくさせた。これは彼女なりの自衛の手段でもあった。『お兄ちゃん』が現れてからは小夜子は殊更服装に気を使うようになっていた。とは云え人通りも多くなる日曜日の昼間に『お兄ちゃん』が出て来ることは経験上なかったのだけれど。それでも自衛は必要だと小夜子の野生的本能が告げていた。なので、傘は護身用とも云える武器でもあった。ああ、私も鬼太郎のように霊毛ちゃんちゃんこを持っていたら、あの『お兄ちゃん』の顔にぐるぐると巻き付けて前を見えなくさせてやるのに−−−などと子どもらしい妄想をぶらぶらとさせて、なるべく家からは離れないよう、でも何処か居心地の良い場所はないものかしらんなどと考えながら、小夜子は普段侵入ったことのない路地を曲がってみた。
うらぶれた−−−と云うのはこう云うところを云うのであろうか。
小夜子は一筋曲がっただけなのに、その景色の、色合いの、空気の、さめざめとした変わりようにドキリとさせられた。決して怖いとか恐ろしいとか云うのではなく、何となくいじらしいとでも云うのか。
右側の家のトタン屋根の赤黒い錆はところどころ腐食が進んでおり、庭先の土埃に塗れた植木鉢の累々は半分は枯れたように萎んでいて、今にも雨が降り出しやしないかと待ち侘びているように見えた。コンクリートブロック塀は目地も整っておらず、もし次に台風でも来たら崩れてしまうのではないかと他人の小夜子ですら案じてしまう頼りなさだ。
そんな風な、少しく古びた家が連なった通りを小夜子は音を立てないようにしずしずと歩き、横目で観察してはそのひとつひとつを愛おしく思った。色褪せた物干し竿、玄関先にポツネンと置かれた陶器製のキャバリア犬とドワーフうさぎは喧嘩でもしているかのようにお互いそっぽを向いている。用無しとなってしまったであろう横倒しの三輪車、庭先の方々から咲き出でているドクダミの美しさ、生垣に取って代わろうと猛々しいハルジオン、軒先の木造りの棚に無造作に置かれたサザエの貝殻の群れ、取り入れ忘れて久しげな洗濯物の黄ばみ、未だ木製の電柱は今にも傾かんと頼りなく、その軋みを早めるようにカラスが一羽、電線の上に立ち小夜子を見張るような目付きで佇んでいる。否、隅に置かれ網を無造作に掛けられた幾つかのゴミ袋を見遣っているのか。
と、そこまで見て視軸を前に向けると小ぶりな十字路が目前に在った。
十字路まで、まるで喰らいつくように真直し、右に曲がろうか、左へ向かおうかと左右に目を向けていた小夜子だが、目の前の真っ直ぐな道の奥に階段の高く聳えるのを目にし、すぐさま足先を前方へと向けた。ずんずんと足を地に打つ。好奇心に溢れた小夜子は先ほどまでの静けさを持った足取りは何処へやらと思わせるくらいに大胆だ。
階段を前にしてみると、思っていたよりも段数は少なく些か小夜子をがっかりとさせたけれど、見るからに古そうな石造りのそれはところどころに亀裂が侵入り、ともすれば角の辺りが欠けていたりもして、散り散りではあるけれど苔生したそれは人の往来のなさを物語っていた。階段の横を見ればそこは緑深い雑木林となって居り、樹々が階段に合わせ坂なりに生え、小夜子はうらびれた住宅街の中に突然現れたこの鎮守の森のような出立に少しく呆然となった。まるで十字路を渡ったら異世界に辿り着いてしまったように思えて、慌てて後ろを振り返るも元来た道は在ったままにうらぶれており、ひどく小夜子を安心させた。
右足を一段目に掛けてみる。ジリッとした石造りの感触。苔を踏むのは嫌だからなるべく避けて歩を進める。上には何があるのだろう。ドクリドクリと心臓が波打つ。この感覚が好きだ。未知なるものを前にした時の胸の高鳴り。一歩、また一歩と歩を進めるごとに上方の視界も開けて来て、しかし小夜子は勿体ぶって、わざと上を見ないように足先に視線を集中させた。苔を踏まないように。決して彼らを傷付けないように。
やっと最後の段を上り終えた小夜子はそうっと顔を−−−まるで誰かの機嫌でも伺うように−−−そうっと上げた。
まず目に付いたのは両脇から覆いかぶさるように生えた一面の緑。晴れの日にはきっと木漏れ日がキラキラと差し、新緑の中の宇宙を垣間見させてくれそうな葉っぱの大群。そこからグッと下がって小夜子のすぐ両脇に、階段と同じくして苔生した石造りの灯籠が二つ、対となるように左右に据え置かれている。そうして目の前にその赴きを朽ち果てることへと身を置いた木製の−−−これは、お堂?
些か小ぶりではあるが、神社仏閣の本堂らしきものがその地の中央に鎮座していた。
小夜子はごくりとつばきを飲み込んだ。
仄暗い。
本堂の辺りだけがどんよりとした空からの明かりをも受け付けず、ひっそりと闇に染まるように奥の暗がりへと馴染んでいる。鳥居も手水場も鐘楼もないそこは、小夜子には神社なのかお寺なのか区別がつかなかったけれど、間違いなく元はそれらだった処で、そのひっそりとした空気が妙に小夜子の肌に馴染んだ。
見渡せば敷地内の至る所に石が在り、まるで石と云う石は全て我らが覆ってやろうぞと云わんばかりに苔に侵されている。苔が湿気を好むからか、湿気が苔に受け入れられるからか、先ほどまで鬱陶しいと感じていた空梅雨の湿度も気にならなくなった小夜子は、キャップを外し一応ぺこりと頭を下げて、その地に足を踏み出した。
もうだいぶん人が通っていないであろうそこは、足を踏み入れる度にかさりぱきりと枯れた枝葉を踏みしだく音がして、小夜子をほんの少し心細げな気持ちにさせたけれど、鼻から思い切り吸い込んだ空気は湿気と緑の濃い匂いに塗れていて生き物の気配を其処此処へと感じさせた。小夜子は思い出したように傘の先端で地面を
緑深く、星空が如く散りばめられた葉の群れの切れ間にソレは在った。曇り空の白々とした明かりをまるでスポットライトのように円錐形に当てられ、白花色に輝くソレを小夜子は一瞬神々しく映える『おとろし』かと思ったけれど、おとろしがこんなに白いはずもなく、しかしそんな妖物がいても何ら不可思議はないくらいにその場所は澄み切っていた。小夜子が映画『ネバー・エンディング・ストーリー』を観ていたならば、きっとそれを丸まったファルコンだと思い込んだであろう。小夜子は目をこしこしと擦って、尚もよく観察しようと恐る恐る足を踏み出した。怖かったわけではない、なんとなく穢してはならない場所のような気がしたのだ。
この世には人の踏み入れてはならない領域があることを、小夜子は素肌で感じていた。
小夜子の歩いている辺りは昼尚昏く、踏み締めると柔らかい感触がズック越しからも感じられ、ふと目を足下に置くと小夜子の足元は枯枝から苔の絨毯へと取って代わっていた。心の中で小さく「ごめんね」と呟く。命を踏み
そんな小夜子の心持ちに応じたわけではないであろうが、ゆっくりと足を苔の上に置くたびにまるでヒカリゴケのように苔が微かな光をも反射し、小夜子の振動に合わせフワッと舞い上がるそれはいつかテレビで観た珊瑚の産卵をも思わせて(苔の森が生み出す海中の息吹)と云う不思議なフレーズを頭の中に浮かび上がらせた。 小夜子はもっと苔たちの海中舞踊を楽しみたかったけれど、ソレは苔自身を傷付ける行為となってしまうと思い立ち、その欲求をグッと堪えた。その代わり、殊更ゆっくりと大股に歩を進め、その度に立ち上がる森の息吹を楽しんだ。
そうしてその場所に近付くにつれ苔の光反射も終わりを告げて、小夜子の不思議な森の中の海中旅行は終わってしまったけれど、小夜子の瞳は目の前に佇む白花色をしたソレに心を奪われていた。目の前に鎮座するソレは妖物でも何でもなく、一本の大きな御神木であったろう木の切り株であった。小夜子は今までにこんなに大きな切り株を目にしたことがなかったので大層驚いた。なんせ直径が幼い小夜子を横にして二人分はありそうだ。
切られたのか。
何某かの理由でもって伐られたのであろうその切り口から地へと続く根に向けて、もうすっかり石のように硬く、そして白く様子を変えてしまっているソレは、時が経ち過ぎていっそ造りもののように小夜子には見えた。樹木の石化。そんなことがあるのだろうか。
あるとすればどれだけ長い年月をこの老木のなれ果ては過ごして来たのであろうか。己の腰辺りにまである切り株の横に佇み、そっとその表面に手を伸ばしてみる。石のようなざらりとした外観に沿うようにざらりとした感触を手のひらに与えて、しかしその感触は満更でもない心持ちを小夜子にもたらした。ヒヤリ、ざらり。もしも御神木であったのならば、腰を掛けたら不敬だろうか。それとも神様は、こんな幼な子の悪戯心など気にも止めずにいてくれるであろうか。もじもじがうずうずに変わって、それがわくわくに変わるころ、小夜子は切り株の上にズックを脱いだ小さな足を乗せ、横たわっていた。両の腕を真横に広げ足を投げ出し、まさに大の字の体になった小夜子は、頬を紅潮させ空を見上げていた。世の中のどれほどの子どもが木の切り株に寝そべることが出来るだろう。見上げた空はやはり少しく斜め上の辺りだけ枝葉の宇宙が切り取られていて、そこから丁度雲の切れ間と青空の隙間が見える。この切れ間から、晴れの日にはどれほどの日差しが降り注ぐのだろうか。そうして夜になったら幾許かの星が垣間見られるのであろうか。小夜子の家を澱ませていた隙間風もこの地では心地良い微風へと変わる。これだけ樹木が多いと鳥や虫の息づく声が聞こえても良さそうなものなのに、ただ風が葉をさする音だけがさらさらと耳に当たるのみで小夜子は少し首を傾げたけれど、これ以降この地は小夜子にとっての居心地の良い逃げ場所となった。
七月、未だ梅雨の明けぬ学校帰り、または休日のいとまを縫って、小夜子は廃神社に通うようになっていた。
本当は、あの学校帰りの洋館に入り浸りたい気持ちも多分にあったのだが、あそこはあくまでも他所の家の敷地内であるし、それほどに人通りが少なくとも住宅街故に余りにも人目に付きやすく、しかし自宅にも寄り付き難い気配を抱え、かと云って遊び友達もなく、むしろ最近はクラスメイトの大半に陰口を叩かれたりすれ違いざまに小声で罵られたりと精神的ダメージの蓄積している小夜子は、学校からの帰路、家の前を通らずにこの地へと(多少迂回することにはなるが)訪うことの出来る道筋を発見し、足繁くと云わないまでも足を運んでいた。そうして時に光放つ苔や老い朽ちた切り株に身を横たえ、茫然自若とすることを好んでいた。
寂しさに身を侵された時は冷たい苔の、じんわりと己の髪や衣服に染みる露の一雫すら暖かく思えたし、傷付き、虚しさを覚えた際は切り株の上で大となり、その身を空っぽの器へと変えた。そうして、切り株の上で横を向き、今ここにあの石像が並んで寝転んでいてくれたならばどんなに素敵だろうと想像しては悦となるその度に、己が周りを囲う昏がりがザワリとした波音を立てて迫って来るような気がして、小夜子はハッと身を起こし振り返るけれど、そこには只しとしとと瑞々しく水を含んだ苔が暗がりに落ち着いているだけで、小夜子を不思議な心持ちにさせた。
切り株や苔類はいつだって小夜子を歓迎するでもなく、だからと云って厭うわけでもなく淡々とそこにあるのみで、その佇まいがいっそう小夜子を住み良くさせた。 そう、あの日までは。
叩かれる悪口や陰口も十日ほども経つとレパートリーが少なくなって来るのか妙に雑となり、しかしその雑さが余計に小夜子の心を傷付けていた。小夜子は朝が来るのが何とも億劫で、しかし「学校に行きたくない」のその一言が誰にも伝えられず、行き帰りに一瞬目にするあの石像を心の糧として、その一瞬一瞬のために鉛のような足を引きずって、今日も玄関扉を力なく開けた。今にもつっかえそうな喉の奥からやっとこさっとこ捻り出した「行ってきます」と云う果敢ない声はリビングでテレビに釘付けとなっている弟の嬌声にかき消され、宙を漂い煙のようにふわりと消えた。当然返す言葉は降っては来なかった。「行ってらっしゃい」。
そのたった一言がクラスメイトにいじめられている小さな女の子の心を幾計りか救うことだろうか。
小夜子の住む辺りでは、防犯上登校時、近隣の子どもが班となって学校へ向かうこととなっていた。一応先頭と後尾に上級生と保護者が付くものの何となく背丈も揃わぬぞろりばらりとした集団は、外国の絵本の『はらぺこあおむし』を思わせて、最前までは小夜子を楽しくさせていたものだった。その代わり代償として、石像を帰り道ほどには目に出来なかったけれど、もしこの登校班がなかったら、小夜子はとっくに学校をスケープゴートしてしまっているところだったであろう。登校班には今年入学したての一年生が二人と、小夜子より一つ年上の三年生男子が二人、二つ上の四年生女子が一人、あとは五年生と六年生の女子が一人ずつ、そして小夜子と同じクラスの男子が一人いた。男子は名前を『山本くん』と云い、親切で優しく頭も良く、体育の授業もお手のもの、尚且つ顔立ちも可愛らしいまさに『スーパー小学生』なのでクラスの女子たちから大層人気があるようだった。「大鳥!おはよう!」 元気な声が伏せがちの頭の上に降って来て、小夜子は(ああ、山本くんは今日も元気だなあ)と云う平凡な感想しか抱けなかった。きっと山本くんはこれから先も一生いじめとは関係なく生きて行くんだろうな。などと羨む気持ちくらいしか持てなかった。
小夜子はぽつり「おはよう」と返し、とぼとぼと登校班の列に並んだ。さりげなく小夜子の横に並んだ山本くんは毎朝いつもそうするように今日の時間割に対する文句や、昨日あった教室での滑稽譚などを一通り喋り、−−−しかしいつもとは違った調子で間を取って、「大鳥さ、…なんかあったの?」と尋ねて来た。
山本くんの話に適当に相槌を打っていた小夜子は、山本くんの突然の質問に返す言葉を失い、しばし固まった。
あり過ぎる、何もかもがあり過ぎる。
陰口を発するクラスメイト、
悪口を伝うクラスメイト、
小夜子を見ない母、
小夜子を疎う父、
気味の悪い笑みを浮かべ迫り来る『お兄ちゃん』、
気付いてくれない先生、
気付いてくれない母、
気付こうともしない父、
ケラケラ笑っているだけの弟、
助けてくれない大人たち、
救ってくれない子どもたち、
小夜子を除け者にするすべての者たち、
そうして、−−−誰にも助けを求められない自分。
「止まらないで!歩いて!」
後尾を歩く上級生からのピシャリとした声にハッとした小夜子は少し頬を紅潮させ、「何もないよ、ありがとう」と、山本くんの顔を見ずに答えた。
もし話せたとしても、あなたみたいな人には分かるまい。そんな感情を添えて。 なんとなく気まずい雰囲気に包まれたまま学校まで辿り着いた山本くんと小夜子であったが、小夜子が下駄箱でズックから上履きに履き替えんとしたその時、靴箱のちょうど左側でとうに上履きへと履き替え終わっていた山本くんが小夜子に向かい再度話しかけて来た。「大鳥さ、…あの、近くの神社で遊んでない?」
小夜子はぎくりとした。
なんで山本くんが知っているんだろう。小夜子は小夜子だけの秘密を知られてしまいドギマギとしたし、そんな秘密を知りつつも、ついさっきまで訳知り顔で黙っていたのかと思うと山本くんの無礼さに少し腹を立てたりもした。「違ってたらごめん。で…でも、大鳥が神社の方に向かってくの、見たから…」
小夜子の雰囲気が変わったのを見て取ったのか少し慌てたような山本くんは弁解するように宣った。 小夜子は背負っているランドセルの紐をぎゅうと握り、絞り出すように「…後を付けたの?」と訊き、そうではありませんようにと祈った。ストーカーは『お兄ちゃん』だけでうんざり!
なので山本くんからの、「ち、違うよ!…近所なんだ、うち。あの神社の」「たまに窓から見えて、大鳥が歩いているところ…」と云う、か細い声を聞いて幾分か安堵した。
小夜子はほうと一息付くと山本くんに向き直り「たまにだけど、行ってる」と答えた。
山本くんは小夜子の気配が少し和らいだのを知ってか知らずか少し調子を取り戻して、「あそこは『善くない場所』って云われてるから、あんまり行かない方が良いよ」と云い、「人も少ないし危ないから」と続けた。
小夜子は山本くんの『善くない場所』の一言が気になって仔細を尋ねようとしたけれど、小夜子に忠告をして満足をしたのか、幾分か頬を赤らめた山本くんは「じゃあ!また教室で!」と爽やかな笑顔を残し、タタタと足音も軽く去ってしまった。 小夜子はクラスメイトに秘密を知られていたことや山本家が近かったことにすっかり動揺していたし、山本くんはその人気っぷりからかあまりにも能天気過ぎた。小夜子と山本くんの会話の隙間に潜んでいるものの、その翳りの、その姿に二人はとんと気付いていやしなかった。
小夜子が二年三組の教室の扉を開けると賑わっていた室内が一瞬シンとなった気がした。しかしそれもあっという間の出来事で、途端に一部の、否多数の女子たちがヒソヒソと小夜子に向けて何かを囁く声が散らばる。小夜子はそれらを気にしないよう、耳にしないよう心の目を瞑って、窓際の、自分の席までスタスタと歩いた。ランドセルを机の脇に下げて教科書を取り出す。その刹那、
その日は土曜日で、学校もお昼までで終わりとなるし、翌日は休みなのもあってクラスの大半は浮かれていた。四時間目は音楽の授業で移動教室となる為、小夜子は教科書を持ってひとり音楽教室までトボトボと歩いた。一人なのは慣れている。でも今の状況で独りでいるのはやはり辛いものがあった。小夜子たちの教室は古い校舎の二階で、音楽教室もその棟の三階にあったので大した移動距離ではないのだが、キャッキャうふふとわざと寄り添いあって小夜子の脇を嘲笑うように走り過ぎていくクラスメイトの、たったそれだけの行動で深く抉れる己の心の弱さに小夜子はうんざりとした。傷付いて見せたらより増長するのか、それとも溜飲が下がるのか、どちらが正解か分からない小夜子は、平然を装うことしか出来なかった。途端に耳元で「バーカ」と云う醜い囀りの音が聞こえ、そうしてまたキャッキャとした足音と言霊が廊下に反響しては音の楽しさへと向かう扉を小夜子の目の前でピシャリと閉めて、小夜子はげんなりとしながら閉まったばかりの音楽室への扉を開けた。黒板に白々と書かれた今日の練習曲は『手のひらを太陽に』で、何がみんなみんな生きているんだ友だちなんだ、と小夜子は胸の中で毒突き、真っ赤に流れる血潮なんていらないからあの石像と友だちになりたい、と強く願った。小夜子は口パクをして合唱に混ざらなかった。それが小夜子に出来る唯一の反抗であった。
練習の合間合間に一部の女子が小夜子を睨みつけ囁く声も、音楽室の中ではその防音壁に吸収されて、小夜子の耳までは届かなかった。
キンコンカンコンと音楽の授業が終わりを告げ、大半が『終わりの会』に向けて滑り出すように音楽室から姿を消し、小夜子もその波に飲まれるように教室を後にした。狭い廊下の隅にある音楽室から正反対にある階段まで歩を進める。今日は少しゆっくりあの石像を眺めよう、人に咎められたらお腹が痛くてうずくまっているとかなんとか云えばいい。
そう云えば山本くんの云っていた、元は神社だったと云うあの切り株の地の『善くない場所』とはどう云う意味なのだろう。本人に訊ける機会があるだろうか、とそんなこんなをつらつら考えているうちに、ふいに頭にビリリと走った痛みに思わず「痛い!」と声を
「男たらし!」
「なによ、ちょっとばかり可愛いからって!」
「アンタなんて大嫌い!」
「アンタなんて…アンタなんて、いなくなればいいのに!」
そう泣きながら叫んだ女ボスは仲間に慰められながら小夜子の横を、わざと小夜子にぶつかりながら通り過ぎて行った。小夜子はぶつかられるがままにふらりとよろめいて、しばし呆然としたけれど、そうしている内に周囲の視線が気になって、ぶつけられた辺りを手で払うような仕草をし、わざとなんでもない風を装った。小夜子は何が何だか分からなかったけれど、そんな蛮行に及んだ女ボスに憐れみすら感じて、そうしていなくなられるものならとっくにいなくなっている、と強く思った。山本くんの云う『善くない場所』が神隠しの場所でもあるならば、小夜子は喜び勇んで隠されるのに。 帰りの会では、いつも胡乱な顔をした担任教師から、さも皆に注意を促すように「あまり人気のないところには行かないように、特に寂れた神社やお寺には」と云うようなお話しがあって、小夜子はハッとして右横の廊下側に座る山本くんの顔を見た。山本くんも小夜子の視線の意味を感じ取ったのか「俺じゃないよ」と云う風に焦った様子で身振り手振りで伝えて来たので、小夜子は冤罪を詫び、そうしてクラスを慎重に見回すと、小夜子の斜め前に座る女ボスとその取り巻きが小夜子を睨み付け何かを囁いているので、小夜子はなんとなく合点がいった。朝の山本くんとの会話を女ボスの手の内の誰かに聞かれていたのだ。そうしてその話しをおもしろおかしく歪曲して伝えたのだろう。なんせ山本くんはクラスの女子たちのアイドルであったし、そして女ボスももちろんそのファンの一人であったのだろうから。大方小夜子と山本くんが二人、神社で遊んでいるとかそんなことを吹聴したのだろう。でなければ女ボスだってあそこまで怒ったりはしない。
恨み、辛み、妬み、僻み、嫉み。
ああ、なんて面倒臭いのだろう。
とにかくこれで確かなのは、小夜子にとっての安らぎの場がまたひとつ、消えてしまったと云うことだ。
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