第14話 大鳥啓輔



 バサリ、と云う音が小夜子の部屋から聞こえたような気がして、伏せていた面を上げた大鳥啓輔は、しかし娘の安否を確認するでもなく、そのまま目の前の窓硝子に映る自分の影をなんと無しに見据えた。暗闇を鏡にしても無精髭が目立つ。元来端正なはずのその顔面も、常日頃の不摂生や生活リズムの乱れもあり、随分と窶れ年齢よりもだいぶん年老いて映える。きちんとしていれば緩やかなカーブを見せる癖毛も、寝相の悪さを思わせるほどにくしゃくしゃとあちらこちらへその先端を歪ませて、長年愛用している草臥れた銀縁の丸眼鏡の奥に据えられた目は黒々とした隈に縁取られ、何とも生気のない澱みを宿している。確りと整えられた鼻筋、薄く引かれひび割れだらけの唇はへの字と曲げられ、本来なら安らぎとも取れそうなその日常への鬱屈が見て取れる。


 啓輔の専門は植物学の中でも植物病理学で、一応博士号なども取ってはいるが、生来の人見知りや口数の少なさ、表情の乏しさなどからなのか中々植物のようにひと処に根を張ることが叶わず、都内の某大学の客員教授などをして糊口を凌いでいる。妻からはいい加減世捨て人のような生き方は辞めて地に足を付けてと散々っぱらに云われるが、どうにも囚われるのがいけない。根を張り生きるモノを糧として生きているのに根無草のような生き方しか出来ぬのだ。

 本来ならば啓輔は、民俗学の在野のモノとして、あちらへふらりこちらへふらりと独歩しながら生きて行くはずだった。しかし何をどう間違えたのか−−−否、生家のものの反対が多分にあったのか、行き着いた果ては農学部の植物病理学で、気が付けば植物病原糸粘菌の感染器官形成やら病害抵抗性機構、病原性の分子学生物研究などを学んでいた。その際も「根無草気質が根を張るモノを」などと随分と周りの学徒に囃し立てられたものだったが、学んでみればそこそこに楽しく、時に野外などで植物を採取しに出るのも性に合い、偶然極まってか研究の成果も華々しく、奇しくも博士号を取るまでに至ってしまった。


 妻の加代子とは学外のサークル活動のようなもので出会った。啓輔は民俗学を学びたかったほどなので、当然が如く妖怪・化け物や柳田國男の遠野物語などを好み、日々摂取出来ないそれ等への枯渇感を埋めるが如く、数少ない知人から耳にした都内某所の某サークルの門を何日かは行きつ戻りつしながらもやっとの思いで叩いた。 これは人見知り−−−共あれば人嫌いとまで思われがちな啓輔にとって、清水の舞台から飛び降りるような心持ちであったし乗るか反るかの大博打を打つ思いでもあった。が、そんな心持ちで叩いてみた門は割とすんなり開かれて、その中身は濃密であり伽藍堂でもあり、纏まっているように見せかけては散らばっていて、元が胡乱な啓輔をなんとも居心地良くさせた。

 何より部員のそれぞれが己以上に変わり者だらけであったし、その妖物に対する知識の豊富さに圧倒させられる思いで、大学生活の大半は学外のサークル活動に捻出していたと云っても過言ではないほどであった。 一方加代子の方に至っては特にそう云ったあやかしモノが好きな訳でもなく、ただ友達の付き合いで一度暇潰しに部内に訪うた、云わば異端児であった。

 この異端児は謁見して直ぐに啓輔の美貌の虜と成ったけれど、啓輔は特に加代子を意識していた訳でもなく、むしろその端正な顔立ちに似合わず恋愛関連にはとんと疎かった故に異性を畏れ厭う気配があった。その整った顔立ちに厭いの影を滲ませた啓輔は自ずと知らず内に異性に関わらず同性をも惹きつける魅力を図らずも備え、しかし寄るモノ全てを拒絶するような視線に屈し倒れる者ばかりが啓輔の前に山と積まれ、そんな中最後まで諦めずに啓輔の懐中に忍び込もうと必死だったのが加代子なのであった。


 啓輔は啓輔で曽祖父が宮内庁の人間であったような出自であったから、ぼっちゃまぼっちゃまと上げ膳据え膳で育てられて来た『持つ者』側の人間で、それ故にのらりくらりぼんやりと、あっちへふらふらこっちへふらふらと生きて来た云わば世間知らずであり(それ故に民俗学の在野で生きて行こうなどと考えていたし、家のものは我が家系から斯様な者を!となったのであろう)、加代子は加代子で山口県は下関市の老舗呉服問屋のお嬢様の出であったから、こちらはこちらで蝶よ花よと育てられ、おっとりとした(そして幾分かにわがまなな)お嬢さんへと育って行った。そんな地方育ちのお嬢様が親の反対を押し切って都内の全寮制短期大学へと入学し、暇がてらに訪うた先で出会でくわしてしまったのが、当時大学三年生である啓輔なのであった。啓輔は東京都は中野区で生まれ育ち、己が見てくれにそんなに目を向けずとも何処かしら洗練された、しかしどうにも気怠げな雰囲気を纏っていたので、その眉目秀麗さも相まって加代子を一瞬で虜にさせた。加代子は啓輔にとっては目端の先にも掛からぬような存在ではあったけれど、加代子も加代子で引く手数多の美貌の持ち主であったし、己が若く美しく育ちも良い『持つ者』側であると自覚していたので、まさか箸にも棒にもかからないような扱いを受けるとは微塵とも思っておらず、その共すれば高慢とも取れる誇り高き鼻っ柱を思い切り殴られた思いで、己の想像以上に啓輔への執着心は高まるばかりであった。

 それはもはや恋愛ではなく意地であった。しかし加代子には己の想いが既に執心に取って変わられていることを気付けるほどの人生経験はなかったし、それは啓輔にしても当て嵌められることであった。ついに啓輔が己の魅力胆力に屈した日、加代子は喝采を上げる思いであった。あの大鳥啓輔を手中にしてやった!と世間に大声で宣言したい気持ちで一杯であった。

 そこには恋する者の喜びやためらい、切なげな吐息や恥じらいもなく、ただただ肉と肉、それのみで、加代子は勝利のきざはしの一等級を得た気持ちでいただけだし、啓輔は啓輔で面倒なことになったと云う諦念と後悔ばかりが胸中を締めていた。 そうして、恋人同士になったと声高に主張する加代子に流されるまま、その地位を築いた啓輔であったが、やはりその胸中には常に後悔の二文字が行きつ戻りつとし、啓輔を鬱屈とさせて行った。

 啓輔は己が結婚などと云う制度に到底向いている人間だとは一欠片も思っていなかったし、それだけは常々加代子に伝えていた。別段子ども好きな訳でもなく、むしろどちらかと云えば苦手な方で、ひと処に留まるのも性に合わないし、他人と居を構え共に暮らすなどとはもはや拷問に近いものがある、と。己が口で発しながら己に向かって最低だと苦笑しながらも、啓輔の中にある最大限の良心で以って、加代子が思わせぶりな態度を取る度に幾度となく伝えた。

 しかし、人は人生の一大事に置いて最も愚かな期待を抱いてしまうものである。加代子もまたその内の一人であった。『そうは云ってもいざ婚姻・懐妊となれば相手も変わってくれるはず』。

 やはり自分には結婚など向いていなかったのだ、と啓輔は己の窶れ疲れ果てた相貌を見て思った。結婚して変わる輩もいるであろうが、啓輔はどうしても変わることは出来なかった。妻とは云え他人と暮らすのはどうにも窮屈であったし、だからと云って妻を幼少期に育ててくれた乳母や家政婦と同等に扱えば波乱が起こる。子どもの扱いはやはりどうにも分からないので出来れば接したくないし、しかし身近にいると己の良いように動かない子どもに腹が立って仕様がない。要は大人に成り切れていないのだ。己が子どもだから子どもの仕草に腹も立つし、時に鬱陶しいとも−−−思ってしまう。

 我ながらに最低だ、と啓輔は思う。

 しかし啓輔には己の中にある−−−そもそも己の中に愛情があるのかも分からなかったけれど−−−娘や息子に対する思いを表現する術を持たなかった。

 小夜子のことは可愛いとは思う。我が子ながらにかなり聡い子でもあるし、妖怪や植物、昆虫や他の生き物を好くところなども多分に合っていると思う。たまに書架から本を持ち出されると−−−己の機嫌の良し悪しの範囲内ではあるけれど−−−イラっとするが、しかしそこも可愛さの内だと何とか己を誤魔化している。

 だが『お父さん』と呼ばわれると戸惑う。自分は『お父さん』として足り得るのかと惑い−−−そしてどう振る舞えば良いのか分からなくなる。結局威厳の有りそうな振る舞いをして逃れ、そのような仕草で回避する自分に己が父を重ね鬱屈となるのだ。人は育てたようにしか育たないと云うのであれば、己がまさにその見本足り得るのではないか。

 今の自分はまさに己が父そのものだ。


『お父さん』


 そんな小夜子の呼びかける声が聞こえたような気がして後ろを振り返った啓輔だったが、そこに小さな小夜子の影は見当たらず、少しがっかりしたような妙な気分になった。


 −−−そう云えば、あの洋館に這入ったと云っていたな。


 四年ほど前、啓輔が一家と共にこの地に越して来た理由はまさにあの洋館にあった。

 小夜子が手を傷付けたと云うくだんの茨、まさにその物に興味があったのだ。出来得るならば採取して大学に持ち行き調べたいほどであったが、空き家廃屋と云っても他所の誰かの持ち物である。これが門でも開いていようものならこっそりと(否、不法侵入には変わりはないのだが)持ち帰ってしまうのに、門が、仮令半分崩れたような門であろうとも門が閉まっていれば境界となる。線を引かれてしまったのなら、その境は安易に超えてはならぬのだ。

 なので啓輔は非常に億劫ではあったけれど、近隣の住民や不動産業者を当たり役所を当たりして、何とか持ち主探しを始めたのだったがこれがまた難儀であった。登記されている人数が半端ではなかったのだ。

 どうやらあの土地は古くから在るものらしく、持ち主が何度も変わったり、その際に再分配されたりなどして、そうしてその当時の当人は既に亡くなったりもしていて、門ひとつ開けるにも膨大な人数からの許可が必要となった。そうして四年以上経つ今も未だ登記された人数の半数にも辿り着けていない、とのことだった(役所の人間の怠慢がなければの話だが)。仲間内の話では妙な形に変化を遂げていると云うその植物の。原始病原体の類か宿主特異的毒素の変異なのか。調べたい。思い出すだに尻が浮きそうになる。気持ちが逸る。まるであの茨の毒気に当てられたような焦燥感。結局己も学者の端くれとしかままならぬ。

 そんなことをつらつらと考えて、大鳥啓輔は視軸を読みさしの本へと戻した。

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