第9話 四年前
その日小夜子は珍しく、父と新しい住処からすぐ傍にある海辺へと足を運んでいた。
引っ越したばかりの邸宅は、煤けた深い緑色をした三角屋根を頭上へと乗せ、三百坪ほどもある大きな庭の中央に畏まるように据え置かれて居り、その壁は、元は昨年父の所用ついでに旅をしたサイパンの地の海辺で拾った真っ白な珊瑚を思わせる色をしていたのだと、雨樋の極の辺りや風雨の当たらぬ土台と壁の隙間から発しており、しかし今やその面影もそうしたものの中にしか見て取れず、屋根と同じように煤けた乳白色を全面に際立たせていた。
その邸宅は元は何某と呼ばれる外国人の建築家が日本に来た折に住む仮住まいの宿として自らデザインし建てたもので、貸家ではあったけれど、小夜子はひと目でその邸宅の虜となった。もう何年も人が足を踏み入れていなかったであろう前庭には小さいながらも噴水が設えてあり、しかし裏庭を回れば痩せ枯れた農耕地と、戦前からあるようなもう既に使われなくなって久しい井戸なども封じられず留め置かれて居り、広い中庭には小さいながらも丘が据えてあって、小さな小夜子の胸をワクワクさせるには申し分のないものであった。庭には海辺の町らしく松の木が多かったけれど、イチジクやザクロと云った実の成る樹々やツツジの花、見渡す限りの芝生にはショウリョウバッタやカマキリ、ニホントカゲやカナヘビがわらわらと息付き、カナブンやコフキコガネは小夜子の一番の友達になってくれたし、門柱にアオダイショウが巻き付いては小夜子の胸をよりドキドキとさせた。
しかし腹に子を−−−小夜子の弟だか妹だかになる子どもを宿した母の身では、その時期の引っ越しなど余りにも無為無策無謀であり、自分の書斎を片付けることさえ儘ならぬ父と全く頼りにならぬ(むしろ足枷となるような)小夜子との三角関係で、朝起きてから夜寝るまでの間始終苛立っており、いると邪魔と云わんばかりに掃除機の柄で突っつかれ、ほうほうの体で逃げ込んだ父の書斎では、父が何某かの木の実とその実の付いている枝を指先で摘みくるくると回しながら途方に暮れているようであった。普段小夜子に大した気をかけぬ父も、母の不機嫌の的となっている小夜子を哀れに思ったのか、この惨事を引き起こしてしまったことへの謝罪か、それとも自らが逃げる口実であったのか、小夜子に「近所の浜辺へ行かないか」と珍しく声をかけたのであった。
台所でガチャガチャと盛大な音を立てさせながら、八つ当たりと云わんばかりに食器やらカトラリやらを片付けている母の背に一言二言言葉を投げ掛けた父は、小夜子に対してか己に対してかは分からないけれど、くるり振り返っては肩をすくめる仕草をし、小夜子をクスクスと笑わせるのであった。その雰囲気を悟ったのであろう母が台所の戸をバタン!と勢いよく閉めたのでびっくりした小夜子と父は今度は揃って肩をすくめる仕草をし、思わず互いにプッと吹き出した。父とのこんなやりとりは初めてで、浮足だった小夜子は早く父と二人で出掛けたくなり、父の袖の辺りを摘んで早く行こうと促した。すると父は捕まれた袖をついと振り払いさっきまで笑い合っていたのが嘘のような口ぶりで「行くぞ」と短く発し、ひとり玄関へと向かってしまった。
小夜子はそのまま手を取られると思っていたので拍子抜けをし、父の急な心の変化に動揺し、そして酷く落胆した。さっきまでのウキウキが重苦しげなドヨドヨとなって小夜子の足を重たくしたけれど、台所からはカップやお皿やスプーンたちの悲鳴が戸を隔てても尚聴こえて来るし、支度が遅くなっては置いて行きかねん父であったので、小夜子は鉛のようになってしまった足を引き摺ってポシェットを肩へと掛けズックを履き玄関を後にした。
父が海辺ではなく浜辺と云ったのは、ここいらの海の浜辺に咲く花や草の種類を確認するためで、父の後を離れぬよう半ば早足に歩いていた小夜子は、浜辺に着いた途端「遠くへ行くなよ」と捨て置かれしばし途方に暮れたけれど、しばらく海辺を行きつ戻りつし、それなりに宝物を拾い集め愛用のポシェットに詰め込んで行った。とは云ってもここいらの海はプラスチック片やペットボトルにその蓋、ビニル袋と言った人間産のゴミが多く、小夜子の求める宝物はなかなか出現してくれず小夜子は随分とがっかりしたし、海をよく見れば(これはここいらの海底が砂地だから波に巻き上げられた砂が海中に漂いそうなってしまうのだけれど)底が見えないほどに灰色に濁っていて、小夜子が少しく前に過ごしていた、もっと南の方の底の底まで見える透明な海とはまさに雲泥の差であり、またしても小夜子をがっかりとさせるのであった。 そうして海辺の探索にも飽いた小夜子は、父のいる辺りを確認し(父は朝顔のような形をした淡いピンク色の花の群生の、生えている砂地を何やら掘り返していた)ひとり砂浜に座って、父の部屋からせしめて来た大のお気に入りの本を、その若干大きめなポシェットから取り出した。小夜子は母の英才教育のおかげもあって三歳の頃からひらがなカタカナを熟知していたし、父の書架に鎮座している青年向けの漫画にも手を出していたから、意味の分からぬものの方が多かったけれど、それでも振り仮名さえ付いていれば大抵の本は読めた。
しかしこの本は出版社が子ども向けに出している入門百科シリーズで、活字よりも絵の方が多く、何より小夜子の胸をワクワクとさせる強者どもが勢揃いで、小夜子はもうそこに載せられている大体のモノは憶えてしまっていたけれど、それでも飽くことなくこの本の中を旅することが大好きであった。
その表紙には『小学館入門百科シリーズ★76 妖怪入門世界編』と記されており、小夜子はそう云えば海の妖怪が幾つか記載されていたことを思い出し、もう載っている順番をも憶えてしまっている
「セドナー!」
その刹那、海にはごうっと風が吹いて波が立ち泡となり、小夜子は本当に海の女王がその顔を海面から覗かせたのかと思った。吹き荒ぶ風と波音は小夜子の声を父までには届かせなかったけれど、別に父に気にかけて欲しくて発したわけではないし、大声を出したからかなんだか心持ちスッキリとした気分となった小夜子は、次から次へと大きな声で海に関係あるなしに、妖怪たちの名を呼んで行った。
ブイイ、ピクラス、ケースマンテル、ルーガー、ルサルカ、金翅鳥、ツァジグララル、ペータラ、レプレコーン、ケルピイ、エルフ、アトバラナ、シンナテテオ、フォービ、ウストック、ゴーレム、パック、チョンチョニー、樹霊、夜叉マラ、歯痛殿下、カルマ、ウイプリ、半魚人、ラクシャーサ、ピクシー、ベヘモト、カボ・マンダラット−−−
謳うように小夜子は名を呼び、その度に遠く見える沖は応えるように波を泡立たせ、その掛け合いのようなやり取りは小さな小夜子をより悦とさせ、小夜子の声を上擦らせた。
そうして己の識っている全ての妖怪の名を呼び果て、大いに満足をした小夜子はほうっと一息ため息を吐き、何気なく向けた視線のすぐ先に少しく照りの入った太めのコーデュロイのズボンを履いた二本の足が立っていることにびくりとし、その過分に見覚えのある姿の父がいつの間にやら小夜子の妖怪の謳を聴いていたことに恥ずかしいような苛立ちのようなものを感じた。父は別に何を云うでもなく、ただ小夜子の手にある本に目を遣り「また持ち出したのか」とひと言呟き、だからと云ってそれを咎めるでもなく「帰るぞ」とまた短い言葉で小夜子を促した。帰り際、ふと振り返って見た海は、先ほどまでのうねりが嘘のように静まり返っていた。
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