第8話 三年前
あの日あの時、ガーゴイルが呪いの込められた玉を半ば強引に受け取らされた瞬間に、いつものように名を呼ばれたのか、気が付けばガーゴイルは一軒の洋館の庭先の虜となっていた。何故ガーゴイルが玉を受け取る先として選ばれたのかも、この玉を守るべきなのか壊すべきなのかも聴かされず、人の世界で石像のままでいざるを得なくなったガーゴイルは、この世界では簡単に朽ちることも許されず、しかし他の地で名を呼ばわれても石像の身体はなぜかガーゴイルに行き先を与えさせずにいた。
玉を守るか破るか、それはある意味簡単な選択肢であった。
玉を守れば人の世からあやかしらは消え、彼の地でも其々が石礫へと姿を変える。 玉を破ればそこから数多の名前が彼の地へと降り注ぎ、石くれたちを元の姿へと蘇らせる。
どちらが良いのかガーゴイルには分からなかった。いくら蘇ろうとも、人の子らは
雨が降りしきっては風が吹き、嵐が過ぎては雪が舞い、花びらが散り葉が青々と茂る頃、それは密かにガーゴイルの身体を蝕み出した。世界中の憎しみをその棘の先に一身に集積させたように鋭く尖るそれは、ズルズルと地を這い、ぬらぬらとした緑をガーゴイルの煤けた乳色の肌へと尖らせた。それはもしかするとガーゴイルがこの庭先に身を置いてから既に芽吹き出していたのかも知れない。ガーゴイルを他の地へと赴かせないように。
茨の蔦はガーゴイルの石造りの身体へ棘をみしみしと這わせ刺さりながら締め上げては登り続け、しかし一方では未だ届かぬ玉を愛し子を守るかのように包み込もうと必死なようで、その思惑をガーゴイルへとはっきり見せつけた。玉を壊したくないのだ。彼の地を失くしてしまいたいのか、ただただあやかしたちの身が憎いのか、その思いは分かりはしなかったけれど、明確な己らに対する破滅破壊と云う意志は伺えた。このまま玉をその忌々しげな茨の棘で守りながらもガーゴイルを破壊したいのだ。
壊したいなら壊すがいい。
ガーゴイルは捨て鉢な気分でいた。空は朝から重たげな雲に覆われてどんよりと世界を灰色に染め、植物たちの光合成を求める苛立ちが庭中に溢れているようでその焦燥感にうんざりとしていたし、同じくして苛ついている茨の蔦どもの、八つ当たりのように我が身を軋めかせる力に抗う術もないし、己の抱える玉を破る力もない。後は野となれ山となれ、とらしくもない気分でもう幾度となく見飽いたガーゴイルの中の小さな世界を鈍い瞳で見据えた際に、門扉の外を歩く乳飲み子らしきものを胸に抱いた人間と、それに引かれる小さな子どもに目が行った。
手を引かれる幼な子はそのあどけなさを眉の辺りにひそませて、引く母であろうその人の手から抗うように立ち止まり、こちらを見つめる瞳にはその幼さに似つかわしくない爛々とした輝きを灯しており、しばし互いは見詰めあった。ように思えた。幼い瞳は尚もその光を強くし、ガーゴイルはその輝きに茨の群れが苛立っていることをも感じ取っていた。「行くわよ、サヨ」と云う声がして、小さな手を苛立たしげに強く引っ張られ、名残惜しげに立ち去るその幼な子が発したぽつりと云うひと言が、ガーゴイルの前に懐かしくも厳しい姿を発露させた。「バイバイ、ドラゴン」。そのひと言で空の王者がこの地に舞い降りたのだ。
「久方ぶりの邂逅であるな」
「まさか主と間違われ、顕現するとは思わなんだが」
と、宣うそのモノは、ばさりばさりと此処に有るもの全てを吹き飛ばし、塵芥へと化してしまいそうな、しかし白妙が如く繊細で大きな翼をはためかせ、陽の光を浴びずとも白銀に輝く鱗の一片一片までもを煌めかせながら、長い首をしなやかに弛ませる。翡翠石を思わせる色をした鋭い眼差しからは何故か慈愛の表情が見て取れて、その鋭い爪先の一本一本までもが何者をも傷つけぬ聖者のように見目好く安らかに映る。 オレの知る彼とはまた随分と違った姿で現れたものだ−−−とガーゴイルは彼を顕現させた幼き者の想像力に感服した。
「この度は些かに端整が過ぎるようではあるが」
と、己の全身を長い首を使い見遣ったドラゴンは暫し嘆息し、
「しかし、今この時この場に呼んで呉れた事には感謝せねばならぬな」
と、小夜子の歩み去った方向を見遣り宣った。
「あのモノは
「そうだとしたら、神も過酷な贈り物を施したものよ」
ガーゴイルはドラゴンの呟きにも耳を傾けず、らしくもなくその横顔に見蕩れ、しばし言の葉を発すると云う動作を忘れていたけれど、そんな事にはひとつまみの興味もなさげな『ドラゴン』と呼ばわれ顕れたモノの視線はいつの間にやらガーゴイルを縛る茨の蔦の上へと落ちており、「なるほどな」とひとり合点がいったように真珠色の長いまつ毛を震わせて呟き、またひとつ息を吐いた。
「ここが始まりなのかは解らぬが−−−」
「−−−どうやら鍵である事には間違いはなさそうだ」
と、含みを持たせながらガーゴイルには分かったような解らぬような言葉を吐き、しかし彼の口ぶりからは彼の地で何かまた別の災いが起きていることが垣間見え、ガーゴイルは「一体何が起きている」と短く問うた。
一体いつほどの事であっただろうか。『ソレ』が始まりの音をみしりと立てて告げたのは。
誰も気付かなかったのか、もしくはもう気付くモノなどとうにいなくなっていたのか、それすらも分からないほどにひっそりとソレらは彼の地に根付き始めていた。 最初は一片のか弱き種子、その一欠片であったのであろうソレは、肥沃な土地では爪弾きにされ、不毛な土地でもその争いに巻き込まれ犯されて、行き場を失ったのであろう。
弱きもの、環境に適さないもの、または侵略されしものたちは、いつの世だって流れ流された末に縮こまり、その存在をみるみる内に矮小化させ、やがて滅び行く。そこはそう云う星であったし、その星の地で一つの種族により自然と呼ばわれる場所の中で、少しくも健やかに生きて行くと云う事は、多かれ少なかれ他の犠牲を持ってしか有り得ないものであったから、ソレらもまたその他の弱きもの、挫けきものどもと同じように消え去る定めであったのだ。しかし時として生きとし生けるものの「生きたい、子孫を残したい」と云う儚くも強い欲求はその身に綻びをも覗かせる。そこに魔の物がつけ込んだ。のだ。きっと。多分。あるいは。もしかして。
そうと云うのも彼らあやかしどもはもうきっと何千年もの長い間こうして彼の地に在ったけれど、こんな事態は初めてであったのだ。その身を石くれと化させ朽ち果てる、朽ち果てては新しきモノが湧いて出る。あるいは一度朽ち果てたモノが時代を超えて蘇る、そう云ったことは少なからずあったし、そう云うモノだとして過ごして来たけれど、時代が進むに連れ石くれから石礫へと姿を変えて、二度と戻らぬものが増え、そうして石と岩とに大半を変えたその場所は、静謐さを称えたまま朽ちぬモノたちに居場所を少しく分けて、そうしたモノたちは己もいつか石に変わるのであろうと多分に恐れ慄きながらに過ごしていた。
その場所を。
その場所を少しずつ今度は土くれへと姿を変えさせながら茨の群れが進行し始めたのだ。
大いなる悪意を持って。
ガーゴイルは彼の地にいる際もまだその事に気付かずにいた。否、先ほども記したように誰をもが気付いていなかったのだ。ソレほど密やかに悪意は音を立てずその地に根を張り、その棘を地に這わせ続けていた。それは長い年月を費やす作業で有り根気のいるものであったけれど、未知のウイルスという魔に侵され今や恐ろしい茨へと進化を遂げた、その元は小さく脆くか弱き種子で在ったであろうモノは、水を得た
ガーゴイルは己がこのような身になってから幾月ほどの時が過ぎたかも知れぬし、元々彼の地に時の流れのようなモノはなかったとも思ったけれど、生命を持ったモノの力は時に時空をも曲げてしまうのか、あらゆる変化が起こっていると云う。奥へ行けば行くほどにその力は増しており、「まるでこの地のようになって来ている」とドラゴンは忌々しげに云った。そうしてそこは我らにとっては死をも意味するほどに居心地が悪い、とも。
そう、彼らは心象の権化のようなモノであったから、飲み食いもせずともいられたし、息をすることもなく、年を経ることもなく過ごしていられた。
そこには争いも憎しみも憂鬱も後悔も懺悔も何もなく、そしてため息を吐くことの無いように、大気もなかった。時の流れも枯れ行く花も、干からびる海も波打つ泡も、捻れた僻みも、澱んだ嫉みも、吹き荒ぶ風も揺れる穂もなく、それ故にただただ平穏であったのだ。その地が生命によって侵されている。ガーゴイルはなんとも口惜しい気分になった。その茨は寡聞にしても己を縛る茨と同じモノであったし、この今となっては忌々しいほどに憎らしい茨の蔦が彼の地までをも脅かしていると云うのだ。彼の地がいずれ滅びる定めにあるのならば、それならそうと滅び行くままにと思っていたガーゴイルではあったけれど、それはこのような悪意に脅かされ消え行くものではなかったはずだ。ただただ、静かに。その石くれを礫に変えても、海の女王の水晶の礫がやがて砂となったとしても、静かに在るべきものだったはずなのに。
「お主、その玉を誰から受け取った」
と、憤り悲嘆に暮れるガーゴイルを無視するようにドラゴンは問うた。
ガーゴイルは一瞬考え込むような間を作ったのち、「名など知らぬが水辺の生き物だ。あの時は半身が
「セドナ?」「判らぬか、確か彼の地では自らを『海の女王』と宣っていたはずだが」
そう、云っていた。海水が如く泡立つものからその巨大な顔だか身体だかを覗かせて、『私は海の女王であり、人の子らの祖先の霊でもあるのよ』と、誇らしげに宣っていた。 ガーゴイルはそれの何が誇らしいのか、ただ自分が何者であるかを知っていることそのものが誇らしいのか見当が付かなかったけれど、彼女が『誇り高い』ことだけはよく知っていた。そうか、『セドナ』と云う名であったか。ガーゴイルが彼の地から消え去る直前に砕け散った女王が、最期の最後まで必死に抗っていた姿を思い出し、ドラゴンの云った『セドナが造りしモノ』へと視軸を向けた。ガーゴイルと同じ乳色をした玉はガーゴイルの手の内に丸々とした幼な子の頬を思わせる丸みを持って鎮座しており、未だ玉へとは伸びぬ茨の蔦は己の成長の遅さに苛立っているかのようで、ガーゴイルはもしこの蔦がこの玉を奪おうとせんとしているのならば、このままこの玉を両の手に携えたまま空を飛び茨の蔦に「ざまあみろ」と云う視線を投げかけられたのにと己の不遇の身を恨みつつ、この玉を渡された際に半身を
「セドナが造りしこの泡玉には忘れられし全てのモノの名が込められています」
「どうか、これを安全なるところに」
彼女がそう云い終えた瞬間にセドナの身体は砕け散り、それを見終えるか見終えぬかも分からぬうちにガーゴイルはこちらの世界へと呼ばわれたのだ。否、呼ばわれたわけではなかったのか。あの時の情景を今となってはすっかり思い出したガーゴイルは、泡玉と呼ばれたそれがカッと光りその光がガーゴイルの身体を包み込んだことを、自分が消えると同時に目の前にいた美しい半身と醜い半身を持つモノもすうと消えたことを、その瞳には悲哀の色が濃く映っていたことを、そうして自分は庭先の石像の内に閉じ込められたことをはっきりと自覚した。そうか、これは誰かの意志であったのか。その意志が呪いなのか祝いなのか今となってはすっかり分からなくなってしまったけれど。その祝いだか呪いだかなんだか分からぬもので皆んな消えてしまったのか。あの場から。心地良いあの場所から。そうして何処ぞかに閉じ込められているのだろうか。己と同じように茨の蔦に身を侵されて。ああ、なんと嘆かわしいことであろう。
しかしなぜドラゴンはこうして顕現出来たのだろうか。ドラゴンと云う輩は余りにもその歴史存在が強大過ぎて、忘れられることも忘れさせることも、蔦で縛ることも棘で止め置くことも出来ぬからであろうか−−−
「そうではない」
と、また上方から声が降って来て、ガーゴイルはこいつはオレの心の声が聞こえるのかと嫌な気持ちになったけれど、それすらも、「嫌な気分にさせたなら申し訳ないが、今の主は思念のようなものだ。吾は思念を読めるから、今のお主の声は全てダダ漏れと云うわけだ」と、その身なりに似つかわしくなく茶化したような台詞を口に乗せ、流れるように言葉を続けた。
「名前を忘れられておらぬモノは
その言葉は大いにガーゴイルを困惑させた。 還る場所を失い、尚もこの世界に留まり続ける、それはそう云うことなのであろうか。 ではなぜ、ドラゴンは今も尚忌々しきモノどもが彼の地を進行し続けていると識っている?疑問だらけだ。
「吾も原理は分からぬ。だがそう云う風になってしまったとしか云いようがない」 と、一息に宣ったのち、「吾を顕現させたるモノが去ったのちもこうして主の前に留まり続ける、このことが既に事の変異を現して居るであろう」と宣った。
確かにそうだ。以前、彼の地が彼の地として機能していた際は斯様にして留まり続けることなどそうはなかった。余程のあやかしモノ好きが延々と己らのことを語るような場でもなければ大抵は一寸二寸の隙間程度の事であった。湧く際も消える際も己の意思なぞ問われもせず、呼ばわれればそこに湧き、用がなくなれば戻るだけ、それだけの存在であったはずなのに。「吾のようなモノは始終湧いているようなモノではあるからな」
そうであろうよ。と、ガーゴイルは心の中で答える。
ドラゴンと云えば今や、ゲームに漫画、ドラマに映画、小説、アニメ、諸々のグッズに入れ墨エトセトラと枚挙にいとまがない。今現在もこの星の数多の場所で湧き出でているに相違ない。と、そこまで考えて、ガーゴイルは己がこのような知識を何処で手に入れたのか知らんと妙な気分になった。この庭から逃れられぬ自分には、眼前に広がる今やその全てが忌々しく映る植物群しか見るモノはないはずなのに。
「それも変異のひとつなのであろうよ」
と、己の思念を汲み取ったドラゴンは宣う。ガーゴイルはそう云うモノなのかと何か釈然としない思いを抱えながらもその意見に同意せざるを得なかった。ドラゴンの方がよほど今の自分達の状況を理解しているのだから、そう云われてしまえばもうどうしようもない。例えば、知らず知らずの内に、ガーゴイルが道行く人々の思念を読み取れるようにでもなっていなければ。
「そう云うこともあるやも知れぬな」
と面白くもなげに呟いたドラゴンは、些か疲弊して来ているようにも見えた。タイムリミットのようなものでもあるのであろうか。それとも彼の地への茨の群れの進行が何某かの影響を我々に与えるのであろうか。
「どちらかと云えば後者であろうな」
もう会話にもならぬ禅問答を繰り広げているような心持ちになり、これならこれで楽で良いかと思い始めたガーゴイルは、敢えて口に出さず思ったことを思うがままに伝えることと決めた。どうせ思念は読まれてしまうのだから。ならばこのまま考え続ければいい。
きっと己の傍に、と云うかこの忌々しい茨の傍に顕現した影響も強いのだろう。 こうして
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