第7話 忘却の彼の地



 そこは名も無き世界であった。

 名も無き場所に名も無きモノが戯れる名も無きところ。


 それらはただ単にそこにいるだけで各々が満たされていたし、時に賑々しくもあれば静謐さで侵されることもあり、言の葉を紡いでいたかと思えばフッと消え、またフッと元いた場所へと還って来たり、ついといなくなったかと思えば多少姿形を変えてふらりと戻って来たりとする、忙しいと云えば忙しくもあり、いとまがあると云えばあるようなどうにも自由な場所でも在った。夜になると湧き出でるモノ、昼にしかいられないモノ、草木の中にしか身を置けぬモノ、水の中でしか息の出来ぬモノ、それぞれがそれぞれにそうした特徴を備えて居り、大抵は自分の居心地の良い場所を離れることはなかったけれど、それでも上手くやっていた。幸いであると云えば幸いで在った。己を「不幸だ!」などと嘆くモノがいなかっただけでもあったのだが、こうしたモノたちは基本陽気な気質を持ち合わせ、己に不遇など持ち合わせていないのだから、こうしていられるだけで幸いであったし、呼ばわれ此処から消える際もそれはそれで楽しくもあった。

 そう、魔の物、物の怪、あやかし、妖怪、化け物、怪物、モンスター、幽霊、エトセトラ−−−幾らでも総称を持つそれらは、人の住む世界で名を呼ばれたり、その脳内に思いえがかれるとふいと湧き出て、彼らの望む(否、大抵は望まれぬ事の方が多かったけれど)それなりの事をしでかしたりしでかした素振りをしたりして、用も無くなればこの世界に還って来る、そう云う存在であった。彼らは人の世で、モノによっては個で在りながらもたくさんの名を持っていたけれど、それ故にこの世界では名を持たぬモノとして生きていた。己がなんと呼ばわれているかなんてついぞ知らぬし、知らない方が気楽でもあり、互いに呼び合うこともないこの地では、名など無くて良いのだ。むしろ「名前」と云う概念を持たぬモノの方が多かったかも知れない。「自分がナニか」とすら考えぬモノの方が大半で、でもそれはそれで良かったのだ。静寂さとかしましさで培われた喧騒無きその場所は、人の世の求める『平穏』そのものでも在ったのかも知れない。


 いつ頃からだったであろうか。

 人々がそれらの名を口に出さなくなったのは。


 いとまが増えて、滅多に姿を消さなくなったモノは忘却と云う魔術に侵されて少しずつその姿を石くれへと変えていた。人に呼ばわれれば消えることが出来るのに、呼ばれなくなると塵芥が如く扱われる、それならばいっそ全ての世界からその存在を消してくれれば良いのに。しかしそれでもまだ石くれから元に戻るモノもいたのだ。人々の『思い出す』と云う行為や『思い出』と云う思念は石の塊を元の姿であったり多少見場が変わっていたりするモノへと置き換えたりして、この世界へと蘇らせた。だからと云って喜ぶモノもいなかったけれど。そう、何某かが石くれに変わり果てたとしても悲しむモノもいなかった。個々に対する興味がないのだ。此処はそう云う場所だった。それでもやはり、石くれへと変わり行く恐怖のようなものはその数が増えるにつけ、この場所にも増えて来た。恐怖と云う感情を、人に与えはするものの己で感じたことのない彼らは当惑するばかりであった。

 そうして忘却と云う魔法が過ぎて、為す術もなく彼らは次から次へとその姿を石へと変えて行った。


『忘れる』と云う呪いはなんと強固で赦し難く、しかし時として救いとなることなのであろうか。


 女王は海の女王としての尊厳を持って最後まで石くれになることに抗っていた。抗い、争い、抗い続けて、女王の強い思念と忘却の鋭い理念はぶつかり合い、己の身を粉々とした骸へと変えた。最後まで抗った彼女を称えるかのように、その残滓は水晶のようにきらきらと明滅し、その身を一面の湖のように横たえた。そうして今、彼女の一部はひとりの少女の手のひらの上で微かに震えている。否、小夜子が震えているのか。


 己の長いようで短い思念から小夜子の手へと視軸と思考を取り戻したガーゴイルは「小夜子、何を震える事がある」と問うた。この場所に寒さなぞあるはずもない。もう何も残されていないのだから。この美しい貴婦人の骸以外には。


 小夜子は小さく震える肩で「涙が出ないの」と呟いた。


 呟き上げられた彼女の顔は濃い悲嘆の色で染められていて、確かに今にも大きな涙の粒が落ちて来ても不思議ではない様相を示していたけれど、その大きく悲しみに暮れながらも愛くるしさの抜けぬ瞳からはたった一滴の涙も零れず、小夜子はその悲しみの逃げ場所を失い途方に暮れていた。

 小夜子は、「この水晶の一粒一粒に悲しみが宿っているようで、私、今、泣きたいくらいに悲しいの。でも涙が少しも出やしなくて」

 と、申し訳なさそうに眉を顰めた。


 ガーゴイルは小夜子の心の繊細さと敏感さに改めて慄き、己の手を貴婦人の骸の上へといざなった。ただの石粒。ザラザラとした砂の集合体。手のひらはガーゴイルにそう告げるだけで小夜子の何千分の一でもその悲しみを掬い取ってはくれなかった。聡い子だ。そう思う。その聡さ故にこれから受けるであろう悲哀や絶望の色を少しでも薄めたくて「ふむ。オレには何も感じやしないが。しかし小夜子が石くれと話せたなんて驚きだな!」と大仰に揶揄うように驚いてみせた。それがガーゴイルの優しい気遣いだととうに気付いている小夜子は「お話しなんて出来やしないわ!」とわざと怒ったフリをして、でもその小夜子を元気付ける優しい揶揄いにきちんと答えてあげたくて、揶揄い返す言葉を発した。


「ねえ、ガーゴイル。私はあなたとよくお話しをするから、あなたのあだ名を考えてみたの。こんなのは、どう?」


 意気消沈しているかのように見えた小夜子から思わぬ反撃を喰らったガーゴイルは、こんな風に呼ばわれているのかと他の誰かに知られたのなら小っ恥ずかしくて口から気炎ならぬ炎を吐けるやも知れぬなどと思い、しかしそんな誰かはいないのであったと我に返って、ガーゴイルと手(と云うか、ガーゴイルのそれは指であったけれど)を繋ぎ、そのあだ名とやらをやけに楽しそうに唇から紡ぎ出し続ける小夜子に恨むような視線を向けた。


「ガァちゃん♪」

「ガァちゃん♪」


 と、謳うように名を呼ぶ小夜子は、最初は自分でもこれはどうかと思ったけれど、付けたあだ名を口に出すに付け嬉しくなって、今やガーゴイルが…いやさガァちゃんが古い古い昔からの幼馴染のように思え、だから人と人とはあだ名を付け合うのかと合点が入った。 そう云えば小夜子も幼稚園に通っていた頃は周りの園児から「サヨちゃん」や「サーちゃん」などと呼ばれていたっけ。小学生に上がってからは、とんと呼ばれなくなってしまったけれど。

 そこで「小夜ちゃん」とイヤな声で名前を呼ばれたような気がして、小夜子はビクッと身体をすくませた。ああイヤだ、こんなところまで追って来なくても良いのに。 小夜子のビクリとした反応に釣られピクっと翼を震わせたガーゴイルは、小夜子が急に押し黙り周囲を伺うようにしたので、恨む気持ちも何処とやら「どうした小夜子」と己も横目で周囲を気遣いつつ問いかけた。何もいるわけがないのだけれど、仮令石くれであっても小夜子を脅かすものがあるのならば放っては置けない。顔を上げた小夜子の頬辺りは微かに青白く、瞳には怯えと戸惑いの色が混じっているように見えて、ガーゴイルは重ねるように「どうした?小夜子」と優しく問いかけ直した。


「…何か声のようなものが聞こえた気がして」


 そう云う小夜子の手はより一層強くガーゴイルの指を握り締め、ガーゴイルは己の鋭い爪が小夜子の柔らかな指先やその小さな手に巻かれた包帯を傷付け破りはしないかと細心の注意を払いつつ、「ここいら辺りに声を出せるようなモノはもういないはずだが」と小夜子を安心させるよう宣った。そう、この辺りもその先も、もう此処には何もいないのだから。ガーゴイルは思い出したかのように「そうだ、小夜子。良いものをやろう」と己の堅固な鱗を一枚、小夜子と繋ぐ方の手の前腕辺りから引き抜いた。ブチっと云うような音がして小夜子は随分とびっくりしたけれど、ガーゴイルがつまんだ鱗を指先でくるりと一回転させるように回しギュッと一握りしたのちに、小夜子に開いている方の手を出すよう宣い、それに素直に従った小夜子はガーゴイルに向けて手を広げ、ガーゴイルはそのモンシロチョウのような手のひらにそっと鱗をみ置いた。

 小夜子はガーゴイルの一連の動作を不思議そうな面持ちで(鱗を引き抜いた際は痛そうな顔をして)見ていたけれど、手のひらに置かれたものを見て更にびっくりした。そこに在ったのはガーゴイルの鱗と同じ鈍色をした、でも不思議な形に姿を変えたバッジで、その右側の中央には顔面の周囲をたくさんの花や葉などで囲まれた男とも女ともつかない顔をした人物が据え刻まれ、その左横には小夜子の目にしたことのない文字のようなもので何やら言葉のようなものが三行ほど刻まれている。

「これは…?」

 そのバッジに心を奪われ、ガーゴイルの魔法のような手捌きに放心した小夜子は漸っと言葉を紡いだ。


「小夜子にとってのお守りのようなものだ。身に付けておくと良い」


 小夜子は尚もバッジに目を置き、アルファベットとも似つかないその文字をガーゴイルに「読める?」と訊ねてみたが、「わからん」と云う無下な一言が返って来たのみで、製作者が分からないなら一生知りようもない!と小夜子の余りある好奇心は悲嘆に暮れたけれど、お礼の言葉がまだだと云うことにハッと気付き、慌てて「ありがとう!」とガーゴイルの顔をしっかりと見据え伝えた。ガーゴイルは照れたように小夜子を一瞥し「止め置く針で手を刺さぬようにな」と一言添えた。小夜子は俄然ウキウキとした手付きでバッジを左胸の辺りにしっかりと止め付け、ああ、この場所に鏡がないのが残念だ、と切なく思った。このバッジを身に付けた自分はきっと誰よりも勇ましく勇敢にその姿を鏡に映したに相違ないであろうに。


 そんな一方でガーゴイルは途方に暮れていた。この場所に小夜子を連れて来れば自然とそれらは始まると思ったのだ。しかし依然として状況は変わらず、ガーゴイルと小夜子を声を決して撥ね返すことのない薄暗がりの洞窟の、石くれだらけの奥へ奥へといざなうのであった。

 小夜子は小夜子で過ぎ行く石くれを省みてはガーゴイルに何か云いたげな視線を送るけれど、言葉は小夜子の綺麗に整えられた歯の裏側にしがみ付いて離れず、小夜子をやきもきとした気分にさせた。石くれたちはその大部分をほろほろと崩れさせていたり、すでに石礫となってしまったものが多かったけれど、中にはまだ多少形を保ったモノもいて、そして小夜子はそれらを見識っていたのだ。小夜子の知る形とは少しく違っていたりもしたけれど、それは確かに小夜子の識るソレらで、小夜子はその名を呼びたかったけれど、またガーゴイルの機嫌を損ねるようなことになるのは御免だし、それが救いの形にならなかったらと思うともどかしくも恐ろしくもあり、(どうしたらいいの?)とガーゴイルに視線を送ることしか出来なかった。

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