第6話 小夜子の宇宙



 小夜子はそらを舞っていた。

 像に脇から胸の辺りへと腕を這わされ抱きすくめられて、ばさりばさりと翼の脈動する振動に足をぶらぶらとさせながらバルコニーから羽ばたいた小夜子は空を飛ぶと云う子どもなら一度ならず二度までも夢にえがく空想の出来事を現実としても尚、その意識は像へと固く結ばれていた。なんて贅沢な小夜子だろう。己をそう叱咤して、こんな風に風を切って宇宙を舞うことはもうないかも知れないと意識を無理矢理飛ぶことに集中させて、遠く光る街々の灯りに目を凝らす。真夜中を過ぎた小夜子の海沿いの町はもうすでに暗く、ぽつねんと佇む街灯と時に民家の灯りがぽつりぽつりと明滅するくらいだったけれど、遠く人の入り乱れる街の辺りであろうそれはまだ眠らないぞと云わんばかりにきらりきらりと輝きを放って(さすが都会は違うなあ)などと呑気な感想を小夜子にいだかせるだけなのであった。人工的な灯りよりも星空が良い。イルミネーションよりも夜光虫の輝きを。そう思って上を向いた小夜子はばちりと像と目が合ってしまい、敢えて考えないようにしていたのに思い切り意識をしてしまう。ちがう、楽しむんだ。大好きな人に抱きすくめられていると云うことが、裸足で空を飛んでいると云うことよりもよほど重要且つ大事おおごとで、敢えてそこから意識を飛ばしていたと云うのにこの体たらく。逸る胸の鼓動は像の腕にもきっと伝わっていて、小夜子はやはり恥ずかしく、なんとかこの状況を打開できる何かはないかと模索した。


「ねえ!自己紹介がまだだわ!」


 ばさりばさりと翼の音が大きく響くので普段よりも気を張った声で小夜子は精一杯の話題を振り撒いた。名を知りたくもあったのだ。もう像ではないのだし、いつの時代だって『君の名は』とみんな問う。異性であろうと同性であろうと異類であろうと変わりなく。

しかし愛しい人はそんな小夜子を挫かせるように「名など無い」と云い放った。


 名前がない。

 名前がない!?

 そんなことってあるの!?


「だ、じゃ、どう」

「落ち着け」


 困惑し混乱する小夜子を諌めるかのように「あまり暴れると落ちるぞ、ここから落ちたら…ぺシャリ、だ」とピシャリとした声が上から降って来る。だって、そんな、名前がないなんて聞いたこともない!それでも確かにこの高さから落ちれば小夜子は姿形も木っ端微塵に砕けるほどにぺシャリなはずで、像がそうさせるはずはないと分かっていても、その気遣いを無碍にすることは出来ず、小夜子はきゅうとしおらしくなってゆっくりと言葉を紡いだ。「あのあと家に帰ってから、あなたのことを調べてみたの。持っている本や図鑑を総動員させて。でもあなたに似ている…その、気分を悪くしたら申し訳ないのだけれど…妖怪や怪物はちっとも見当たらなくて。「似たようなのはたくさんいたの、中国の羽民イユイミンやアルプス山中に現れると云うグレムリン、フランスのタラスキュにアルゼンチンの鳥人…でもどれもあなた本人ではなくて…。「一番近いのがヨーロッパの雨樋の守り主と言われるガーゴイルの石像だった…でもあれは人間によって創られたモノだし…」


「オレもこの世界では石像であったし、人間に造られたモノだったかも知れんぞ」「でも今現にこうやって生きて動いているじゃない!」

「生きている?このオレが?」


 半ば嘲笑うかのように発せられた像の言葉に呆気に取られ小夜子はひどく悲しくなった。生きていなければ今ここにいるあなたは何なのだろう、小夜子を強く優しく抱き寄せてくれている腕からは確かに脈の鼓動を感じると云うのに。たとえ切り開いた彼の皮膚の先に血肉の色が無かったとしても小夜子は同じ生き物として彼を想いたいし、たとえ石像のままでいたとしても愛しく思っていたい。小夜子はまた大粒の涙を零し、零しては雨樋を伝うように像の腕にそれは流れ、一筋二筋と流れを作った。


「ガーゴイル」


 急に言葉を振られ、もはや鼻水まで垂らした散々な有りようの小夜子は彼の腕を掴んでいた手を片方ほどき、ぐしぐしと乱暴に袖先で目鼻を拭いて、鼻の詰まった声で繰り返した。


「ガーゴイル?」

「ああ、ガーゴイル。今からオレは自分をそう名乗ることとした」

「それでいいの?」

「ああ、響きが気に入った」


 途端に小夜子の顔に花が咲いたように笑顔が散らばる。乱暴にこすったせいで赤くなってしまった目のきわや鼻の下を見て、ガーゴイルは身を切られるような思いに駆られる。泣かせたくないのにわざと泣かせた。この娘にはいついつだって笑っていて欲しいのに。どうしたら泣くのか試すように、否、試したのだ。己の地を救える唯一の希望。その喜怒哀楽を、実り豊かな大地の如く携えたこども。

 そこまでして守る程のものなのかと何度も考えた。このまま奴らの意のままにしてしまっても何ら差し支えのない冷たく澄んだ名も無き石くれの群れ。しかし小夜子が解いてしまったのだ。呪うべき封印を。その血を持って。

 手元を見ると小夜子は足をぶらぶらとさせながら「ガーゴイル、ガーゴイル」と謳うように己の新しい名を口ずさんでいる。少し、意地悪をしてみようか。そんな気分になってガーゴイルは小夜子に問うた。


「さあ、サヨコ。今度はお前が名乗る番だ」


 小夜子はプリプリとしていた。それはもちろん先ほどのガーゴイルのちょっとした意地悪のせいで、名前をいつ知られたのか、もしかして心の中を読めたりもするのかしらと恐ろしいことまで考えて、そうだとしたらそれを黙っているのも失礼な話だし、小夜子は実際子どもだけれど、子ども相手向きな揶揄いが小夜子とガーゴイルの差を明確に表しているようで悲しくもあった。でも悲しがるのも何だか悔しくて、小夜子は当然の権利として怒ることに決めたのだ。

 ガーゴイルはガーゴイルで困惑していた。まさかここまで怒るとは思っても見なかったのだ。どうやら人間の子どもの八歳と云う年齢は、なかなかもって難しいお年頃らしい。


「なあ、サヨコ。何をそんなに怒る必要がある」と問うてみる。


 返って来たのは小夜子の小さな足による大きなスイングで、ブランコを大きく漕ぐようなその思いもよらぬ攻撃にガーゴイルは少しだけ体勢を崩し、しかし大袈裟に「おおびっくりした」などと宣った。その馬鹿にしたような反応が余計に小夜子をカチンとさせ、小夜子は今度は本当に驚かしてやろうとガーゴイルの手から逃れるごとく大暴れを始めた。

 足をバタバタとさせ手を闇雲に振り回す。これではただの駄々を捏ねている子どもそのものだと思い、でも自分はまだ駄々を捏ねていい子どもなのだとも思い返して、小夜子はより一層暴れる勢いを増した。振り回された手や足がガーゴイルの体のあちこちにぶつかっては跳ね返り、今となってはもう小夜子が暴れているのか小夜子が触れては跳ね返るバネ人間にでもなってしまったのかと云う体たらくで、そのすらりと小さな手足を振り回せば振り回すほどにガーゴイルの堅牢な鱗に跳ね返されて、身体中のあちらこちらに大損害を喰らう小夜子なのであった。なんて硬い身体なの。これじゃあ明日は今日作った切り傷擦り傷に加えて打撲痕も追加されるに違いない!「よせ!本当に落ちるぞ、サヨコ!」とガーゴイルのかなり大慌てな声がして、小夜子はやっと満足をして漸うと駄々っ子を卒業した。どうだ、恐れ入ったか。


 冒険に出かける以外は普段は大人しめな小夜子が大暴れをしたものだから、息はゼエゼエはあはあとまるで五十メートル走にでも出場し終えた後のようで息を整えるのももどかしく、しかしガーゴイルは小夜子の息が平常に戻るまで、先ほどまでの小夜子の暴挙を諌めることもなく静かにそらを漂ってくれていた。ガーゴイルのその真冬の静けさのような優しさに、己の行動を省みた小夜子は漸うと整った息で「ごめんなさい」とこうべを垂らした。ガーゴイルはそれに答えずぎゅうと小夜子を抱え直すと、ばさりと翼を震わせて「まったくいちいち驚かせる娘だ」と呆れたように微笑んだ(ように見えた。小夜子には)。実際ガーゴイルは呆れ微笑む気持ちでいたし、しかしそれとて初めての感情であることに彼はもうイヤになるくらい気付かされていた。目まぐるしくくるくると回る小夜子の心の動きやその表情の、もうすっかり虜となってしまっている己の変化に。


「ガーゴイルはなぜ私の名前を知っているの?」 小夜子は小夜子が疑問を呈するに資格のある質問を、恐る恐るガーゴイルに訊ねた。ガーゴイルはしばし考えるような素振りを見せたあと「黄色い帽子を被っていたことがあったろう」と答えた。黄色い帽子?ああ、小学一年生は登下校時に必ず身に付けなければならないあの帽子。通学帽。ポリエステル製ですぐに色褪せ汗染みにも敏感なあの不恰好な帽子。二年生になってからは自然と同窓生も同級生もみんな被らなくなって、小夜子ももちろんそれに倣った。そうして少し、みんな大人になったような心持ちとなるのだ。よちよちひよこからの脱却。それは時に大いなる波乱も含んでいることもあるけれど。しかしあの帽子がどうしたと云うのであろうか。


「帽子に書いてあったのだ『オオトリサヨコ』と」


 なるほどと小夜子は合点がいって、そしてそんな小さな頃から小夜子は見られていたのかと恥ずかしくなり、でもガーゴイルを立ち止まって見つめていたのは小夜子も同じことなので、感情の行き場をなくして「おばあちゃんみたいな名前でしょう」と心にもないことを云った。直ぐに「そんなことはない」と云う鋭い声が落ちて来て、小夜子はびくりと身を揺らしたけれど、そんな小夜子を和らげるように「漢字はどう書く」と優しく問われ「小さな夜の子どもと書くわ」と素直に答えた。


「小さな夜の子どもか!それは好い!」


 と、ガーゴイルは急に嬉しそうに声を上げ、一気に空の真上を目指し始めた。余りにも疾く駆けるので目をしょぼつかせるしかない小夜子は、それでもガーゴイルが自分の名前を気に入ってくれたことがとても嬉しく、小夜子は小夜子と云う名前が大好きになった。


 酸素が薄い。

 まるで食道や肺が小夜子に息をさせぬよう萎んでしまったかのように、口からも鼻からも酸素が入って来ない。高い山の上では酸素が薄くなると何かの本で読んだ小夜子は、いま自分が相当な高さを飛んでいることを自覚してガーゴイルの腕から身を乗り出すように地上を見下ろした。

 小さな口がひゅっとした声を上げ僅かばかりの酸素を取り込む。地上の光はすっかりと遠いものへと光度を下げて、それは都会に僅かに散らばる星のようでまるで天と地がひっくり返ってしまったような感覚を小夜子に授けた。途端に、この高度には季節も天候も時刻もその何もかもが関係がないのだぞ、と云うような白々しい寒さを知覚して、小夜子はぶるりと身を震わせた。カチカチと歯が自然と鳴って、小夜子はこのままここで凍ってしまうのかも知れないけれど、凍って死んでしまったならば、凍った小夜子をかき氷にでもして食べてねと云うべきだったと後悔し、でも彼の人の故郷を救う前に死んではならぬと己を叱咤して、ぶるぶると震える腕にぎゅうと力を込めた。

 そんな小夜子を気遣ってか、「すまない、随分と冷えるだろう」と声が落ちて来て「もうすぐあそこに入る、そうすれば幾分かは楽になるさ」と鼻先で先を示し、小夜子を労るよう勇気づけるようにより一層ぎゅうと小夜子を抱く力に柔らかな深みを込めた。

 小夜子は未だ震えていたけれど、その優しさを湛えた腕へ「ありがとう」と返すよう握り返して、冷たく顔をぴしゃぴしゃと舐めてくる風に逆らうように上を向き、ひらいた瞼を険しくさせて、その端から流れる涙も厭わずにガーゴイルの云う「あそこ」に向けて目を凝らす。十四番目の月はだいぶんその大きさを際立たせ、小夜子はこんなに大きく力強い光を照らし出そうモノが自分の暮らす地の星よりも余程小さいなんてと信じられない気持ちになった。小夜子は浅い息を精一杯溜めて「月に向かうの?」とガーゴイルに問うた。ガーゴイルはハハハと一息笑い「ちがう、その手前だ。黒いモノが見えるだろう?」と逆に小夜子に問いかけ返した。黒いモノ。月の光があまりに濃くて、そちらにばかり目を奪われていた小夜子はその黒いモノにやっと意識が向いた。最初の感想はいかにも小夜子らしく「バックベアードみたい」で、西洋妖怪のボスなどと云われアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』にも登場するバックベアードは、真っ黒な丸い身体に枝のような触覚のようなものを生やし、その中央に「目が合うと最悪死んでしまう」と云われる大きく禍々しい瞳を据えて、鬼太郎たちを幾度となくピンチへと向かわせる。そんなバックベアードが後ろを向いたらこんな感じなのだろうなと思わせる黒々とした「あそこ」に小夜子たちは入ると云うのだ。小夜子は俄然ワクワクとして、そこはどんな場所なのか、入ると一体どうなってしまうのかと矢継ぎ早に質問を返したかったけれど、今や浅く呼吸をするのも精一杯で、小さな小夜子の好奇心の芽を酸素はいとも容易くんでしまうのであった。


「今だ!入るぞ!」


 と、一声掛けて、ガーゴイルはやにわにその羽ばたきを強めた。宇宙がグンと間近に迫って、その衝撃で後頭部をガーゴイルのお腹の辺りにコツンとぶつけた小夜子だけれど、一瞬何とかひらけた小夜子の瞳と目が合うように、大きく見開かれたソレの大きな瞳に吸い込まれて、世界は一瞬で真っ暗になった。


 いま、のは、本物の、バックベアードだった…しかも小夜子はその西洋妖怪の瞳の中に這入ってしまったのだ!こんなこと、鬼太郎だってしてやしない!


 バックベアードの中は確かに寒くなかった。と云うか、小夜子に気温と云うものを感じさせず、しかし肌に触れる圧力はマシュマロのようにふにゃふにゃと小夜子の身体にまつわりついて、小夜子を妙な気分にさせるのであった。小夜子の家には『水木しげるのおもしろ妖怪大図解』と云う本があって水木先生の手によって随分と細かく妖怪たちの中身が描かれていたけれど、バックベアードには内臓みたいな器官はないのかしら。そう考えて「ねえ、ガーゴイル…」と言葉を紡ごうとした先に「おい!悪戯が過ぎるぞ!」と云うガーゴイルの怒気の大きく膨らんだ声が乗って、小夜子は開いた口もそのままに呆気に取られてしまった。


 ハハハハハ。


 とこもったような笑い声が四方八方に谺する。


「なあに、『救う者』の形がちょいと知りたかっただけだ」とこもった声は続けてそう云って、尚も息を荒くするガーゴイルを宥めるかのように「邪魔者はここで消えよう、繋ぎも取れたはずだしな」と小夜子にはよく意味の分からない言葉を発し、そしてその瞬間にマシュマロのような纏い付きも姿を消した。ふっとした感覚があり、辺りは尚も暗かったし外気も感じさせなかったけれど、ガーゴイルの表情は未定められるほどには視界が開けた。


「すまない、不快な思いをさせた」とガーゴイルは前を見据えたままそう謝って、小夜子の方に本当にすまなそうに視軸を向けた。そんな表情は初めてで、確かに小夜子はちょっとイヤな気持ちになったけれど、ガーゴイルの細やかな気遣いとこのような表情を見られたことがこれまた嬉しく、「大丈夫だよ」とガーゴイルの目を見つめて微笑んだ。「ここは一体どう云う場所なの?」

 訳も分からぬまま(まさかの)バックベアードの体内に吸い込まれ、吸い込まれたと思ったらまたどうやらちがう空間へと置き去りにされ、小さな小夜子の頭の中は疑問符でいっぱいになったけれど、あまりに質問攻めにするのもどうかと思い、ひとつひとつ丁寧に言の葉を放とうと「さっきまではバックベアードの体内にいたはずなのに」と続けた。


「バックベアード?」


 ガーゴイルが訝しげに訊き返す。「そう、あの、さっきまでいた黒くて大きな丸いモノはバックベアードと云う名前でしょう?」

 ガーゴイルはしばし考えるような素振りをしたあと、「知らんな、なんせオレたちに名前はないからな。だが小夜子がそう云うのならば、奴は『バックベアード』なんだろうさ」とさも面白くもなさそうに呟いた。ガーゴイルが急に不機嫌になったので小夜子はこれまたびっくりとして、すわ、自分が何か失礼なことを口走ってしまったであろうかと考えたけれど、どうにもその気配が見当たらなくて、不安そうに静々とガーゴイルを見上げた。

 ガーゴイルはガーゴイルで戸惑っていた。己の胸の内に湧くこの感情の正体が掴めずにいたからだ。小夜子が奴を「バックベアード」などと忌々しく呼んだ際に沸いたこの胸の内の熱を持たぬ熱は、ガーゴイルの身体を中心から焼いてピリピリとした心持ちにさせた。怒り?オレは怒っているのだろうか。怒っていると云うのなら何に怒るか考えて、世界中のあらゆるモノに怒っているような気分になったガーゴイルは、滅多に揺らす事のない、鱗にまみれ銀色の立髪を添えたその尻尾をぐわんと大きくたゆませた。

 音のない世界に音のない沈黙が訪れて、小夜子は大いに不安となった。ガーゴイルの尻尾の動きは明らかに怒気を含んでいたし、そしてそれは小夜子にも小夜子を取り巻くその全てにも向けらているようで、小さな小夜子の償いでは落とし切れぬ染みをガーゴイルに与えてしまったらしく、でもその正体が分からなくて、分かりもしていないのに謝罪の言葉を唱えるのは甚だ失礼なような気もし、小夜子の小さな口を糸で縫い合わせたかのようにぎゅっとつぐませるのであった。


「すまない」


 と、天から救いの言葉が降って来て、やおら小夜子は振り返り、空を見上げた。ガーゴイルの視軸は真っ直ぐに前を向いていたけれど、言葉は間違いなく小夜子に向けられていて、小夜子はほうと一息吐いた。ガーゴイルの中で始まりガーゴイルの中で決着が付いたのであろうソレはどうやら小夜子を赦し、尚も謝罪までしてくれるモノへと変化を遂げたらしい。きっと無知なる小夜子のうっかりで怒らせてしまったであろう彼の人の、心の広さに小夜子は敬服する心持ちでいっぱいであった。これがウルトラマンであったなら、小夜子なんて三分も持たずにデュワッとやられていたに違いないのだから。


 そんなこんなで時が満たされている間にもガーゴイルの翼は粛々と躍動を続けており、小夜子を微かな暗闇から仄かな暗がりへといざなうのであった。

 少しずつ物の形が視えて来る。

 どうやらこの辺りはゴツゴツとした岩場のようで、かそけき蛍のような灯りが時折明滅しては小夜子に視界を開かせるけれど、それらの力はあまりにも弱々しく、小夜子を少しく果敢ない気持ちにさせるのであった。ああ、もし小夜子に夜空を駆けるフクロウのような鋭い眼光があったのならそこに彼を見出だしたであろう。もう残り少ない力をなんとか振り絞り、我が身ここにありと存在を謳う『セント・エルモの火』が。


 「岩が多いのね」


 なんだかなんでだかなんとなく居心地の悪いような雰囲気に包まれたまま、小夜子とガーゴイルは飛び続けていた。紡ぐ言葉もなんとなく短くなる。気恥ずかしさが口をもごもごとさせなんとも気まずい気分とさせる。依然、前方を見据えた彼の人は一度は小夜子を敬服する気持ちにさせたけれど、そのあとすぐに「小夜子が奴に名前を与えたのが癪に触った」と宣ったのだ。小夜子はびっくりとして己の耳を疑った。驚いてもう一度問い返したほどだ。なんせ小夜子はその心の具合を知っている、何度もあの茨の蔦に感じた、あの感覚。


 それは『嫉妬』と云う感情で、きっとこの世で一番厄介な代物であった。


 ガーゴイルが小夜子に嫉妬の感情を抱いている。それは−−–小夜子の勘違いでなければガーゴイルが多少なりとも小夜子に好意を抱いていると思わざるを得ないもので、小夜子を大いに動揺させた。その揺れる心の動きに合わせるように脈動が惜しみなくどくどくと小夜子の身体を震わせて、そのどくどくとした胸の高鳴りは小夜子のまだ幼く薄い胴の辺りからガーゴイルの堅固な腕へと伝わり、やがて互いが互いの脈動を追いかけ追い越すかのように重なり、それは互いの胸の内に全くもって同じ旋律を譜面に書き記した、小さな恋のメロディを奏でさせている。それでも尚、互いが互いに「恋」をしていることに気付いていない小夜子とガーゴイルは、妙な気まずさを纏った気配に混乱しながら短く言葉を交わし合うことに必死なのであった。


「ここいら辺りは全て岩さ」


 ガーゴイルはそう呟いてばさりと翼を震わせた。そう、全てが岩だ、岩と石。この世界にあるものはみんなそうなってしまった。ここいら辺りなんてのは嘘っぱちでこれから先もずっとずっと小夜子をげんなりとさせるくらいに岩と石くれだらけだけれど、その幼さを備えた可愛らしいであろう妄想を蹴散らしたくないガーゴイルは、敢えて「ここいら辺り」と嘘を吐いた。否、嘘ではない。真実でもある。岩でも石くれでもないモノたちが、蔓延り奪い消し去らんとする場所が。小夜子の救うべき場所が。そこに辿り着いた時、小夜子は救ってくれるだろうか。そうして己も救えるだろうか。自分の本来の居場所を。見失っている互いと互いを救うことが出来るであろうか。


 いきなり視界がパッと開けて、小夜子の暗闇に慣れ親しんだ目に鋭い痛みをほとばしらせた。それはまだまだ暗がりと呼んでいいモノだったけれど、小夜子の瞳を眩ませるには充分過ぎるモノであった。小夜子はしばし目をしばたかせて、ようやっとその薄暗がりに目が慣れた頃、そこは見たことのある景色を彷彿とさせる静けさに包まれていた。恐山、賽の河原と云われるそこは確か『日本の幽霊現象怪奇現象百選』とかなんとか名付けられた文庫本の恐怖シリーズモノの一冊に、冒頭のカラー写真に選ばれた場所のひとつで、小夜子はもちろん訪れたことはなかったけれど、イタコと呼ばれる死者と生者を繋ぐ人々が生者の気持ちを慮ってかもしくは本当にその身体に求めるモノを降ろすのか(小夜子は降ろしていて欲しいと切に願っていたけれど)幾ばくかの金銭を持って生者の思いを助ける場所で、小夜子にはなぜそのような場所が『恐山』などと恐ろしげな名で呼ばわれているのか分からなかった。 小夜子の辿り着いたそこは洞窟の中にふいと現れた湖の湖畔のようで(事実小夜子の住む世界の恐山にも宇曽利山湖と云う湖がある)小夜子はガーゴイルに下に降りて歩いてみたいとお願いをしてみた。実際小夜子のこの地に対する好奇心は溢れ出んばかりだったし、それにあまりに長いことこうして後ろから抱えられていると小夜子の内から溢れ出ん熱で身体中が汗みずくとなり、小夜子は本当に干上がってしまうかも知れなかったし、そんな汗だらけの自分をガーゴイルに見せるのも恥ずかしかったのだ。しかし実際には、小夜子は汗の一雫すらかいてはいなかったのだが。

 ガーゴイルは一瞬戸惑ったような表情を見せたのち、小夜子のお願いを快く受け入れてくれた。「足元には充分に気を付けろよ」と優しげな一言すら添えて。事実小夜子は裸足であったし、下着にリネン製の上下のパジャマ姿のみと云う無防備な出立ちであったから、その防御力を数値で例えれば100を上限として3程度であったし、それはガーゴイルの堅牢な鱗一枚にだって叶いやしないものであった。 ガーゴイルはしなやかに翼を羽ばたかせ、触れればほろほろと崩れ落ちてしまう宝石のように、そうっと小夜子の小さな足を彼の地へといざなった。もちろん、小夜子の頼りなげな足元を傷付けぬよう、石くれの一つすらもその指に触れぬよう細心の注意を払って。 そうして小夜子はその足の裏を久方ぶりに地面と名の付くものへとゆっくりと着陸させたけれど、宙を舞っていた時間が小夜子から地上に立つと云う当たり前の動作を奪ってしまったが如くふらりと傾き、慌てて差し出されたガーゴイルの腕にしかとしがみ付いた。足裏の感覚がない。まるで足のない幽霊にでもなってしまったようだ。 今の小夜子が柳の下から「恨めしやあ」と姿を表したなら、いじめっ子の一人や二人撃退出来るかしら。そんなことを考えてくすりと笑い、しばらくガーゴイルの堅固な腕に身を預けていた。


「足の裏の感覚がないわ」「もうしばらくこうしていればじきに戻るさ」


 ガーゴイルがそう答えてくれたので、小夜子は大義名分を得た気分となって、甘えるようにその身をますますガーゴイルへと傾けた。この鉛のような硬さが好きだ。ゴツゴツとし小夜子を馴染ませることはないけれど、熱を帯びれば小夜子の身体に沿ってくれそうな鱗片。決して小夜子を跳ね除けることなどしないと云う確かなる安堵の感触。小夜子の欲しかったもの。小夜子の全てを受け入れてくれるモノ。 そうしてる内に望んでもいないのに足の裏の感覚は小夜子とガーゴイルの隙間に入り込み、小夜子を至極残念な気持ちにさせた。なんだったらこのまま周りの石たちと同じように、二人して石となってしまっても良かったのに。それは、小夜子の「ずっと一緒にいられたならば」と云う願いと相反するように、心の奥底で眠らせ気付かないようにしている「ずっと一緒にいられるわけがない」と云う確かなる現実の発露でもあった。小夜子はその発露の予感をはっきりと感じて頭を思い切りブンブンと振り、「もう、大丈夫」とガーゴイルへと告げた。小夜子の消し去りたい小さな予感が本当だとするならば、より一層立ち止まっていてはいけない。私は彼を、彼の地を救うと約束したのだから。その先にどんな未来が待ち受けていようとも小夜子は抗うことなく受け入れてみせる。ガーゴイルが小夜子にそうしてくれたように。小夜子も全身で受け止めてみせる。


 地面はまるで磨き上げた黒曜石のようにつるつるとして、しかし小夜子の辿々しい歩きぶりを嘲笑うでもなく受け止め、小夜子の足の裏を随分とご機嫌にさせた。こんなに裸足の足を気持ちよく思うことなどそうはない。小夜子は俄然強気になって、跳んだり跳ねたりと踊るようにその感触を楽しみだした。先ほどまでの辿々しさが嘘のように歌い踊る小夜子は、ヒラヒラとパジャマの裾をはためかせ、指の先をツンと羽を思わせる形に変化させ、艶々とした髪の毛一本一本までにサラリとした躍動を与えて、ガーゴイルをなんとも云えない気持ちにさせるのであった。これが世に云う妖精と云うモノなのか。ガーゴイルの見知っている妖精(のようなモノ)は随分と醜い容貌をしていたが、もし小夜子が本物の妖精ならば、妖精学者もうっとりとその頬を緩ませるに違いない。


 小夜子が足の裏の喜びに悦となり、思うがままに躍動を続けているうちに、随分と時は流れて(実際はものの数分であったろうけれど)小夜子は湖のような場所の岸辺近くに辿り着いていた。通って来た道を振り返ると、小夜子のいる場所より幾分かの暗がりにガーゴイルはその羽を休め佇んでいて、小夜子をちょっとだけ不安にさせた。着いて来てくれているものだとばかり思っていたのだ。ガーゴイルが傍にいない寂しさよりガーゴイルを置いて来てしまった悲しみの方が強くて、泣き虫な小夜子はまた泣いてしまうかと思ったけれど、なぜか涙は出なかった。

 どうしたものかと途方に暮れた小夜子は何となく彼の人に向け胸元で小さく手を振ってみた。それを見たガーゴイルが嬉しそうに羽を震わせたので、小夜子は途端に元気になって、今度は両手を頭上に掲げ、大きく手を振り返した。ついでにぴょんぴょんと跳ねても見せたので、跳ねた足がちょうど小夜子の後ろにあった岸辺のゆったりとした砂つぶのような流れに突っ込み、足を釣られてしまった小夜子は大きく尻もちをぴしゃりと云う音と共について、小夜子の動作に微笑んでいたガーゴイルを随分と慌てさせたのであった。

 まさに光のような速さでばさりと飛んで来たガーゴイルは「大丈夫か?小夜子!」と狼狽した体でつんのめるかのように小夜子の面前で止まり、その勢いはまるで小夜子の髪の毛をぶわんと後ろへとたなびかルカの如くであった。そんな風に慌てるガーゴイルを眼前にするのは初めてで、小夜子は嬉しいやら楽しいやら申し訳ないやらと気持ちの整理に忙しく、でも自然とその顔には笑みが浮かぶのであった。「ごめんなさい、ちょっと調子に乗っちゃった。でも大丈夫だよ」 そうガーゴイルを安心させるように言葉を紡ぎ、「ならば良かった」と安堵するガーゴイルを見て自らも安心し、先ほどから指先に感じるサラサラとした感触に意識が向いた。

 小夜子は自分が湖の岸辺近くに立っていると思っていたものだから、転んだ拍子に水に浸かってしまったと感じていたけれど、指に触れるそれは砂を思わせる質感で、尻もちをついたお尻の辺りも濡れた感覚はなく、どうにも不思議に思えて突いている手元に目をやった。小夜子はこの広い洞窟のような場所で湖の辺りだけ仄かに光を帯びているものだから、ここいらにだけ光が差し込んでいるのかと想像していたのだけれど、そうではなかった。手元の砂をひと掬い掴んで目の前に引き寄せる。小さな手のひらに置かれた無数のそれはキラキラと明滅し、先ほど目にしたヒカリゴケのようなものの明滅を思い出させたが、いま目の前にあるそれは小夜子の手のひらに巻かれた真っ白な包帯の上に乗せられて尚青白い光を放ち、小夜子の瞳を爛々と輝かせた。


「これ…この粒、粒のひとつひとつが水晶だわ!」


 そう、湖の水だと思っていたものは自ずから僅かばかりの光を発露させる小さな水晶の大群で、小夜子はその小さな手のひらに乗った儚げな砂つぶを繁々と見つめた。どんなに美しかろう鉱石も、光を浴び、その内で光を乱反射させなければその美しさの真価は問われない。でもこの水晶のような礫のひとつひとつは己の内側からその存在を心細げに訴えるかのようで、小夜子はその訴えに耳を傾けたけれど、どうしても聴き取ることが出来ず、申し訳ないような悲しいような気分になった。さらさら。さらさら。下に置けば手のひらで幾らでも掬えるそれを優しく撫ぜながら「この砂は誰かで在ったものなのね」とぽつりと呟いた。

 青白い光の中で、白い肌を尚青白く染めながら砂と戯れている小夜子をただただ見つめていたガーゴイルは、小夜子から目を背けぬまま「ああ」と短く答えた。小夜子だったらきっと名を識っているであろうそれは、ここでは海の主だと自らを宣っていた。海の主らしく大きな身体を海の中からいでたように彼の地の水(らしきもの)から浮き出た彼女は「私は海の女王なの」といつも誇らしげであった。そう、あの日、あの時までは。

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