第5話 小さな夜の子ども



 いつものベッドの変わらぬ感触の中で、小夜子は寝付けずにいた。

 茨に触れた手のひらが嫌にじくじくと傷んでいたし、憧れの洋館に這入り石像に触れたことへの興奮や、父の冷たく厳しく放った言葉の意味やらがぐるぐると小さな頭の中を出たり這入ったり浮かんでは消えたり耳元で囁くように鼓膜を揺らしてみてはかしましく、本来だったら歓喜に満ちて震えているであろう胸の内をもやもやと濃い霧の中ように小夜子を思考の中の迷子へと導くので、まんじりとベッドに横たわり天井を見上げていた。きちんと敷かれた清潔なシーツ、陽を浴びてふかふかの掛け布団と枕、カバーからはシャボンの甘い匂いがぷうんとして、小夜子は身体を返し枕に顔を埋めて思い切り甘い匂いを吸い込んだ。


 最初は「コンッ」と云う音がしたと思う。


 窓ガラスに石をぶつけるような音。

 いつもと違う異質な夜の出来事に、小夜子は枕に埋めた顔を少し横にずらして身構えた。右の目だけで窓の方角を伺う。なんだろう、夜更かしなカラスかリスのいたずらだろうか。この家に越して四年ほど経つけれどこんなことは初めてで、一瞬小夜子をいじめる女子たちの顔が浮かんだけれど、こんな夜更けに家を出られるわけがないし、小学校二年生の腕力で小夜子の部屋の窓に投げられた石が、小さなバルコニーを越え小夜子の元に届くとも思えない。木の枝か何かが風に揺られて当たっているのだろうか。いつもならとっくに夢の中の時刻であるから、今まで気付いていなかっただけなのかも…とそこまで考えていたその時にまたひとつ、


「コ、コンッ」


 と云う音がして、小夜子は傷めた手のひらの痛みも忘れガバッと両手で上体を起こした。恐ろしさよりも好奇心、いつでも不思議な出来事や興味深さは小夜子から恐れ慄くと云う感情を吹き散らばしてくれる。もし相手が妖怪や幽霊や怪物だったとしても、小夜子は絶対に友達になってみせる!

 パサリと上掛けを除けて左の足からそっと床に足を下ろす。裸の足がカーテンの隙間から射す僅かばかりの月の明かりに照らされて、落ちてくる明かりがくるぶしの辺りやそこから続く足の甲を滑らかな石のように青白く映えさせる。さらりと落ちる栗色の髪を両手で払い、足裏に触れる木の床の冷たさを愛おしく思いながら、興味と好奇心で頬を桃色に染め、逸る気持ちを抑えるように一息付いて、そうっと忍び足で窓の近くまで歩を進める。忍んでいるのに歩くたびに「キュッ、キュッ」と鳴ってしまう床板を今度は少し恨めしく思い、怖いわけではない、と強く思う。小夜子は待ち遠しいのだ。そこに確かに何かが潜んでいる気配を小夜子はすでに感じている。何がいようと恐れはしない、恐れぬ小夜子を見て欲しい。小夜子は認めて欲しいのだ。恐れぬ小夜子を誰かにしっかりと目にして欲しい。

 シンプルな木綿色の薄手のカーテンに手を添える。布地の向こうに影が見える。満月も近いのに月の光が僅かばかりだったのは、この大きなモノのさえぎりであったのか。カーテンを通してはそのモノの姿形ははっきりとは見えず、小夜子の胸をよりワクワクとさせる。

 敢えてカーテンを開けず、その隙間から窓についた真鍮製のネジ式の鍵をくるくると回して外し、カーテンを開けると共に一気に窓の両扉を外に開いた。 バサリ、と云う音がした。

 続いて小夜子の長い髪を後ろに流すように、まだ梅雨の名残を添えた瑞々しい風が窓枠の形に沿ってびゅうっと吹き入り、冷えた流れが小夜子の火照った頬を白く染めた。思わず目を瞑る。向夏の夜風が目に沁みて小夜子の視界を滲ませる。深い緑の匂いが夜露に濡れて色を濃くしてなだれ込み、身体にまつわりつくようで小夜子は軽く頭を振った。


「タイミングが悪かったな」


 頭の上からいきなり太い声が降って来て、小夜子はびっくりして頭を上げた。

 十四番目の月の光を背負ったその身体は夜空のそれよりもずっと暗く、その面差しは見えないけれど輪郭に確かな陰影を与えている。コウモリのような翼。馬のような耳の間には立髪のような毛が風にそよぎ宙にゆらゆらと揺れていて、月の光に染められて少し透けては水銀のようにキラキラと明滅しくらくらと眩しく映る。小夜子の小さなバルコニーの枠を止まり木のようにして支える両の足は滑らかさを持った無骨な形の鋭い爪と、そこから続く爬虫類の鱗のようにギザギザとした足指とでみしりと音を立てるかのように石造りの塀をと掴み、小夜子を見下すように膝立ちをして止まっている。私はこの形を知っている。つい先だって飽いるほどに網膜に刻み、細胞のひと摘みまで逃さんとした愛しい形。石のそれとは質感が異なって見えるけれど間違いなくそれはあの石像で、小夜子の大きく見開かれた目を縁取るように緻密に生えそろった睫毛から、滲んだ視界を取り戻すかのように涙の雫がぽろりぽろりとこぼれ落ちた。


「ちょうど翼を整えたところであった」


 像は続けてそう云って、少し照れ臭そうに左耳の辺りを指先で掻いてから、


「助けて欲しいと云ったろう?」


 と、少しく小夜子の方に身体を傾げて宣った。

 小夜子は普段はサクラの花のような色合いの唇をケイトウの花の如く紅く染め、ひらいた口から何か言葉を発しようとしたけれど、喉の奥は石が詰まったように引きつられているし、火照った頬は触れた髪をも焦がす勢いで、心臓の音ばかりが身体の中から陣太鼓のようにどこどこと鳴り響き、こんなにも鳴り続けたら像に聞こえてしまうのではなかろうかと恥ずかしく、いっそ鼓動が止まってくれたら良いのにと強く願った。 


 一見上の空に見える小夜子に対し(実際上の空に近い状態ではあったのだけれど)業を煮やしたその生き物は、小夜子の綺麗に揃えられた前髪を掻き分け、額を爪先で軽くつんと小突き「耳に血は通っているのか?」と訊いて来た。途端に小夜子の身体に昼間と同じくしてビビビっと電気が走り、小夜子はまたもや「ひゃっ!」と叫んで飛び上がった。幸にして今度はお漏らしをしなかったけれど、みっともない所を見せてしまったのと「なんだ?」と不思議そうな体でいる像を見て、これは自分の身体のみに起きている生理現象なのだと合点がいった。どう云う仕組みか分からないけれど、小夜子はどうやら彼に触れたり触れられたりすると稀に電気が走る体質らしい。なんてけったいで面倒な体質なのだろう。でもその電気のおかげとも云うべきかびっくりして緊張し固まっていた身体の力が少し緩んで、小夜子は「ふああ」と変なため息を一息吐いてから、続けるように「た、助けて欲しい、と、云いました」と辿々しく答えた。

 目の前の像の濃い影にもだいぶん目が慣れて来て、この辺りが腕、あそこに光るのが左眼、ここが口でその上に鼻…と少しずつその陰影の別も付いて来て、小夜子は少し楽しくなり自然と笑みをその愛くるしい顔立ちの上に転がした。 像はそんな小夜子に少し見惚れたような素振りをしたあと、呆気に取られたような呆れたような様相で「オレが怖くないのか」と不思議な生き物を見る目付きで小夜子に問うた。 怖くない、怖くなんてあるものか。どれだけ欲したか分からぬ姿形が生身を持って目の前にいる。小夜子は自然と両の手を突き出して彼の左腕辺りにそっと触れた。 カナヘビのようなざらりとした感触。つうと指を滑らすとそれが小さな鱗の一片一片だと解る。続けて小さな手のひらでは掴みきれぬ前腕辺りに手を滑らせて肉の感触を探る。随分と硬い。こんな腕で叩かれたら小夜子なんて弾け飛んでしまいそうだ。そんなことはないであろうけれど。でも、きっと。

 少し下って、この辺りが手首。身体の先に向かうに連れ鱗の形も小さくなる。手首と手のひらの境目に行きついて小夜子は臆さずに彼の人の手の辺りを両手で持った。手のひらの内側は少しツルツルとしていてその滑らかさがとても心地良い。皮膚の温度は冷たく、外気温とさして変わらぬ気がした。包帯を巻かれた手では指先にしか感覚が伝わらなく、もどかしさを覚えた小夜子は像の手のひらを両手で包み、持ち上げるようにして己の頬にそっと添えた。なんて冷たくて気持ちの良い肉体だろう。小夜子の火照って熱を帯びた身体は喜んでその冷ややかさを出迎えた。つるりぬるりと頬を擦り付ける。そうして最初からそうするのが当たり前であったかのように小夜子は像の手のひらに口付けた。小さな小夜子の初めての口付けは、のちに魔物と呼ばわれるソレの手のひらの上にあった。

 はっと無意識の行動から目を覚ました小夜子は己の行動の大胆さと無神経さと恥ずかしさでまさに顔から火も出ん勢いで、とてもじゃないけれど像の顔など見られずに「ごめんなさい」と小さく呟きながらおずおずと像の手を元あった場所へと戻した。小夜子にされるがままにして動かず声も発しない彼の人の心境が気になって、それでもやはり上を向けぬ小夜子はへどもどしながらもう一度小さく「ごめんなさい」と呟いた。


 像は像で困惑をしていた。

 こんなことは初めてであったのだ。


 像はもう人間この世界の時間で云えば何百年と過ごして来たけれど、恐ろしい醜い穢らわしいなどと厭われこそすれ好意を向けられることなぞ一度たりとてなかったのだ。身体に唾を吐きかけられても、口を付けられるのは初めてのことで(これが世に云う口付けと云うものか)と妙に他人事にように感じていた。しかし小夜子に口付けられた部分は柔らかなくすぐりを持って、像に他人事ぶることを許さなかった。そう、像は照れていたのだ。それは小夜子を目にしたその時から像の中に初めて生まれた感情で、彼本人ですら未だ気付けずにいる厄介な代物であった。 彼は彼の中にあるこの厄介さを振り切るように、


「救うから救って、と、そう云う約束であったな」


 と威厳を保つかのよう、やや強めに問うた。


 そう、確かにそう云った、あの時、小夜子は。

 恥ずかしくて上げられなかった顔を少し上に傾けて、上目遣いで像の様子を伺う。影は未だ暗さを持って微動だにせず佇んでいて、まるで何もなかったかのようにその姿勢を保っている。何も気にしていないみたい。小夜子の無意識な好意の現れは像に何をも感じさせなかったようで、小夜子は丸切り無視をされたような気分になって随分と気落ちをしたけれど、一方的な好意の押し付けは良くないと付き纏われ学んでいたので、傷付けた手のひらよりも随分と痛む胸の内が小夜子の小さな胸を破って溢れて流れ出ない内にと慌ててコクリと首を振り、像の瞳の辺りをしっかりと見据えて「約束を、しました。救うから救って、と」と、漸うに言葉を返した。


「さて、どうしたものかな」


 像は顎の辺りに手を添えて、考えるような素振りをした。実際考えてはいたのだろうけれど、仕草の一つ一つが人間と変わらないのでそれがなんだか嬉しくて、小夜子の胸の傷を少しくうずめた。そう、こうやって言の葉を交わしていることがもうすでに奇跡みたいなものなのだから、それより多くを望むなんてあまりにも傲慢が過ぎる。傷付くよりも楽しもう、今のこの瞬間を。と、小夜子は思い、「私は何を救ったらいいの?」と像に問うた。敬語も敢えてやめてみた。あの像がこうして動けるようになったこと、それ自体が「小夜子の救い」であったのなら話は悲しいほどに早いのだけれど、像の醸し出す雰囲気からはそれ以上のものが感じられ、小夜子に何かが救えるのか、像の役に立てるのだろうかと、ワクワクとドキドキが合わさって上気する肩の辺りをそっと押さえた。その仕草を鋭く突くかのように「寒いのか」と像が問う。寒くはない、熱いくらいだ。でもその労いのひとつひとつがとても嬉しい。小夜子は小さく首を横に振って「寒くない」と短く答えた。小夜子に救える何かを知りたい。だってあなたがこうしてここにいるだけで、私はもう充分に救われているのだから。


「ここから少し上に行ったところにオレの故郷があるのだが」


 像はそう云って指の視軸を宇宙そらへと向ける。その視軸を追うように小夜子も窓から乗り出して視線を真っ直ぐ宙へと乗せる。その格好はまるで像に身を寄せるようで像の内心を大いに取り乱させたけれど、楽しもうと決めた小夜子はもう気にしてはいられなかった。


「見えないよ?」「ああ、まだここからではな」


 乗り出す小夜子が落ちぬよう、自然と支えられた二の腕の辺りが熱を帯びて、小夜子はこのまま彼に触れたり触れられたりしていたら熱を発し過ぎて己が干上がってしまうかも知れないとも思ったけれど、もしも干上がってしまったらお酒のおつまみにでもして貰えばいいと思い付き「ねえねえ、もしも私が干上がってしまったのなら、あなたが私を食べてしまってね」と口に出した。像は些かギョッとして小夜子の真意を計りかねたけれど、幼い瞳はただただ無垢な色味を湛えているばかりで、像は「ああ、もし干上がったのならそうしようか」とはにかんで答えた。像は気付いていなかったけれど、はにかむ表情を浮かべると云う行為もまた、像にとっては初めての出来事であった。 像はングっと咳払いのような音を発してから、


「如何やら、その故郷に危機が訪れているらしくてな」


 と、深刻な色を浮かべた瞳を小夜子に向けた。


 月の光を受けた彼の左半身はもうすっかりとその姿形を小夜子へと見せびらかしていて、やはり爬虫類を思わせる彼の瞳はクロスグリ色の角膜を中心として青みがかった翠から浅葱色へとグラデーションをえがくように美しい色味を放っている。ああ、小夜子はなんてうっかりしていたのだろう。彼に似ている空想上の生き物がいたではないか。唯一無二の空の王者とも云われる西洋の怪物、ドラゴンが。美しくたなびく銀色の立髪も鈍色に光る鱗の一枚一枚までもがそう見えて、しかし大きさが丸切り違うことや耳から生える飾り毛、本物のドラゴン(とは云ったって小夜子だって本物のドラゴンを目にしたことなどなかったけれど)より短めの口吻がやはりドラゴンではないと告げており、小夜子は首を捻りながらもその横顔の美しさの虜となっていた。そんな風に見惚れていると、その視線をくすぐったく感じたのか、像は小夜子に後ろを向いて腕を上げるように指示をした。 

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