第4話 大鳥家
いつもより帰るのが遅くなったからか、帰宅する小夜子を待ちくたびれたのであろう近所のお兄ちゃんはもう小夜子の家付近には見当たらなかった。あの後小夜子はしばらく泣いていたけれど、小夜子に対するいじめや付き纏いや小夜子の日々の動揺や悲嘆に無関心な両親に対しての理不尽さを考えるにつけ憤りが増して、石像をぐるりと取り巻く茨の群れに無謀にも挑みかかったのであった。蔦をかき分け掴みかかり引き千切らんとしたけれど、小夜子よりも年月を長く越したであろうそれはあまりにも強靭で、結果はもちろんの大敗。腕や足のあちらこちらに傷を作って、手のひらなんぞは半ば血まみれで、我に返った小夜子はあまりの痛みに少々悶絶をしたけれど、最後にもう一度石像の頬辺りに両の手を添えて、しばらく見詰め合ったのち一言二言呟いてから名残惜しげにでも決して振り返らぬように屋敷の庭を後にした。振り返ってしまったら、きっともう戻れなくなる。
「ねえ、愛しい人。私があなたを救ったら、あなたも私を救ってくれる?」
小夜子がそう呟いたその時に、小夜子の手からつうと一筋流れた赤い血が一滴の雫となって石像の抱える玉に落ちた。小夜子はそれを気付かなかったけれど、彼らにとっては救いの一粒の雫となった。そう、もう何年も何十年も待ち侘びた。生命という名の救いの赤い
家に帰るとほうほうの体の小夜子を見てびっくりした母は、夕飯の準備をする手を止めて、怒り叱りながら容赦も無く消毒液を小夜子の身体にバシャバシャとぶちまける勢いで、しかししっかりと手当てをしてくれた。小夜子が小さな冒険をして生傷をこしらえて帰って来るのは半ば日常茶飯事であったけれどここまで血まみれなのは初めてで「一体何をしたらこんなことになるのかしら、暴れん坊のおチビさん」と母は呆れながらに小夜子の手にくるくると多少手際悪くも包帯を巻いていった。確かに家の明るい蛍光灯の下で改めて見ると小夜子は散々な有り様であった。洋服から出ている素肌部分は擦り傷と切り傷にまみれていて、着ていたTシャツもところどころ穴が開いたり破けたりとしていた。キュロットにも擦ったように血が付いている。 着替えるよう母に促され、時折ピリッと走る痛みを堪えながら部屋着に着替えると「これはもう着られないわね」と母は何も臆することなく小夜子のTシャツをゴミ箱の中へがさりと落としてしまった。そう云うところ。そう云うところが小夜子の小さな胸を押しつぶすのだ。汚して傷つけて破ってしまったのは無謀な小夜子の無謀な行いの所為だったけれど、小夜子はそのTシャツが大好きだった。薄卵色の地に派手ではない水色の、少しかしいだ文字で「iChao !」とプリントされたTシャツは、家ですれ違った際に珍しく父が「スペイン語だ」と話しかけて来たもので、スペイン語で別れ際の挨拶に気軽に使う言葉だと教えてくれたものであった。「捨ててもいい?」の一言くらいあっても良いではないか。それでも小夜子は「うん」としか返せないけれど、勝手に廃棄されるよりはずっと良い。チャオ。さよなら。ごめんねあなたを助けることが出来なかった。
夕ご飯が仕上がるまで少し部屋で大人しくしていなさいと云われ、項垂れた小夜子はリビングの横の廊下を通りかけ、賑々しく映る居間の中の光に気がついた。小夜子より四つか五つほど歳の離れた弟はテレビの前に陣取ってピンク色や水色に染められた、何だか正体の分からない動物の着ぐるみたちがあっちへわちゃわちゃこっちへわちゃわちゃとする番組を放心するかのように見つめており、何かに夢中になっていると害のない生き物だななどと酷い感想を頭に浮かべて、それなら自分は何かに夢中になると害のある生き物となるのかなと包帯をぐるぐる巻かれた両手に視線を落とした。母には転んで空き家の生垣に突っ込んだと説明をした。あながち嘘でもないし、あの洋館に侵入したなどと馬鹿正直に話したら、雷が石をも砕く勢いで落ちて来るのは想像に難くなかった。母は異様に世間体を気にする
小夜子が幼い頃から家族でよく通ったレストランは大手のチェーン店のひとつで、一匹の鳥が悲しげに寂しげに空を飛ぶロゴマークが特徴のなんてことのない洋風レストランだったけれど、その鳥のロゴを見るたびにいつも小夜子は悲しくなって、涙がポロポロと流れてしまうのであった。どうしてあんなに悲しそうな顔をして飛んでいるのだろう。仲間とはぐれてしまったのだろうか。もっと仲間をたくさん描いてあげれば良いのに。それともああやって空を飛んでいれば、いつか仲間の元にたどり着ける日が来るのだろうか。
小夜子は変わった娘ではあったけれど、それと同じくして変わった繊細さと優しさを持った娘でもあった。そんな娘が孤独を愛するならば『向かうところ敵有り』なのは必然で、でも幼い彼女にはまだ分からなかった。恨み辛み妬み僻み嫉み。群れを離れた子羊は狼に襲われるのではなく離れた群れに厭われるのだ。弱いから群れるのにその弱さから逸脱する強さ。その強さへの嫉妬と羨望。ああ、なんて面倒臭いのだろう。 トストスと爪先だけを使い忍び足で階段を上る。特に意味はないのだけれどこうすることが好きなのだ。大きくぐるりと回る階段を登った先は部屋が四つに分かれており、正面奥に父の書斎、手前左が夫婦の寝室でその向かい側のふた部屋が小夜子と弟に割り振られていた。
階段の手すりに触れる。重厚な木の感触。小夜子はこの古く趣のある、和洋折衷の様相を呈した邸宅が好きだった。蝶番の軋む音。子供には少し重たく感じる扉の頼りがいのある厚み。細かな草花の彫刻の施された鈍色をしたドアノブを傷む手のひらで握りかちゃりと回しグッと力を入れて自室の扉を開ける。古い匂いと新しい匂いと少し甘ったるい匂いと渋い匂いが小夜子を待ち侘びていたようにむわっとした空気に乗せられ混ぜられて鼻腔に押し寄せる。おかえり、ただいま。会いたかったよ。
母に何度「片付けなさい!」と叱られても一向に片付かない小夜子の部屋は、瓶や小瓶に分けられた種や実、木箱に雑多に振り分けられた虫たちの崩れかけた屍と抜け殻、父に旅行土産でもらったどこかの国の部族のお面やおもちゃの刀、サソリの標本にクリスマスプレゼントにもらったお気に入りのE.T.のぬいぐるみとさまざまな子供向けの図鑑。
古本市で買ってもらうため巻数が揃わず歯抜けだらけで揃っていない少年漫画や少女漫画、お気に入りのキャラのプリントされた浮き輪はタツノコプロのアニメキャラで塩化ビニルモノマー製の玩具はいつも如何しても正義の味方にやられてしまう怪獣のソレだ。
積まれるように積まれた本、そこにあるべくそこにある玩具。白雪姫の七人の小人は一人だけ小夜子の部屋に取り残されて、それでも笑顔を絶やさずに飾り棚にちょこんと座っている。小夜子はディズニーアニメに大した興味はなかったけれど、七人の小人の中でもこの一人だけ丸きり髪も髭もない、ちょっとおっちょこちょいで陽気なキャラクターが妙にお気に入りだった。
ベッドの上に洗い立ての小夜子の服がきちんと畳まれて積まれている。しまうのは自分でやりなさいと云うことなのだろう。甘い匂いを放っていた正体はこれか、洗濯物の匂い。シャボンの匂いは爽やかだとみんな云うけれど、小夜子には少しく甘ったるく感じられた。爽やかと云うのはそう、もうちょっと冷たさを持った、元日の朝の空気のようなしんとした透明感のある…と、そこまで考えて何処かから呼ぶ声で目が覚めた。また現実から逃避をしていた。それはただの思考であったけれど、小夜子は時に自分が現実から離れているように感じられることがあった。そう云う時、世界は光に包まれてぼんやりと形を歪ませ小夜子の視界を無きものとする。もう一度、今度はより強く呼ぶ声がして、小夜子はやっとそれが夕餉を告げる母の声だと気付いた。 夕食は『急遽カレーに変更』らしく、階段をトストスと上って来た時と同じくして忍び足で下るにつけ強く香り始めるスパイスの匂いが、小夜子のお腹からキュルルルと云う音を鳴らし、それは南国に暮らす鳥の鳴き声のようにも聴こえ、小夜子は己の胃の腑の中に南国の景色が広がっている様を想像して胃の辺りを少しくすぐったく感じた。あの鳥はなんて云ったかな、嘴の妙に大きい、つぶらな目をした、鴉のように美しい黒地の羽に色鮮やかな嘴と羽を生やした−–−あ、オオハシだ!あんな大きな嘴を持つ鳥が胃の中にいたなら動くたびに嘴が胃壁に当たって随分と痛むだろうな、でもそれはそれで楽しそう。オオハシはカレーを好んで食べるかしら…などと考えていると小夜子を見下ろし立ちはだかる大きな影に気が付いた。しまった、またぼうっとしてしまった。母は片方の手を腰に当てる少しく不機嫌な時のポーズで小夜子に云った。「考え事なら夕飯を食べ終わってからにしてくれるかしら?先生」。
夕飯が弟の好物であるハンバーグからひき肉の多めなカレーへと変化したのは小夜子のぐるぐる巻きの包帯に包まれた手に対する一種の配慮のようで、確かにこの手ではお箸を上手く扱うことは出来ないし、母が弟よりも小夜子に気を配ってくれたのが嬉しく、いつもは食の細い小夜子も珍しくお代わりまでしてしまった。
小夜子を囲む食卓はいつも静寂だ。
元々父が寡黙であるし、夕餉の席でテレビを点けるのも嫌っており(と云うかテレビ番組自体が嫌いだったのかも知れない)母はまだ口に運ぶその指先もおぼつかない弟に付きっきりであるし、そんな二人が会話を交わすこともなく、たまに母が弟に躾けるように話しかけるくらいで、あとは食器群がかちゃかちゃと音を立てる不揃いな音符がダイニングに響くだけであった。 なので今日の夕食も小夜子と母の「お父さんは?」「まだ良いって」と云う会話と弟のハンバーグに対する執着くらいでまこと静かなものであった。父がいると何となく緊張してしまう小夜子であるから、今日は余計に食が進んでしまったのかも知れない。食べ過ぎたのかケフッとゲップを出してしまい、慌てて母の方を見るけれど、こちらはなかなかスプーンの進まない弟と格闘しており小夜子ここにあらずと云った心境なようで、小夜子はぽつり「ごちそうさま」と呟いて食器を下げてシンクに置き、両の手に巻かれた包帯が濡れないように細心の注意を払って食器群を水に浸し、自室へと戻った。母は小夜子がお代わりをしたことに気付いてくれたであろうか。実は余り得意としていない母の手作りカレーをいつもよりたくさん食べたことに。
階段を上りかけるとちょうど入れ違いに父が降りて来るところであった。 父はすれ違いざまに小夜子を軽く一瞥し「その手はどうした?」と短く訊いて来た。父は学者であるからか小夜子の見てくれの些細な変化にも聡い。その聡さが善きにつけ悪しきにつけ、気にかけてもらえるのは小夜子を少しく嬉しくさせた。「ちょっと、あの、生垣に突っ込んで」そう辿々しく答えると、父はスンと少し笑ったような振りをして「随分と乱暴な生垣だな」と宣った。いつもより少し砕けた口調の父が嬉しくて、小夜子はつい調子に乗ってしまい、実はあの洋館に這入ったこと、茨の鎖と格闘したことを半ば興奮し時にどもりながら早口で父に伝えてしまった。話し終えてから(しまった!)と思ったが口から出た言葉は消せないし、いつも割と小夜子の小さな冒険を好ましい目で見てくれているような父なので、きっと今日も大丈夫だろうと祈るような思いで恐る恐る父の顔色を伺うと、父はいつになく厳しい顔付きで小夜子の頭の上あたりを睨んでおり「あの洋館に這入ったのか?」と重ねて訊ねて来た。そのピリッとした冷たい声音に小さく怯えた小夜子が小さい声で「うん」と肯定すると、しばらくの沈黙のあとに「いいか、小夜子。二度とあの場所に這入ってはいけない。あそこは善くない場所だ」と鋭く云った。小夜子は父の静かな迫力に圧倒されまたもや小さく「はい」と答えるしかなかった。「あと、その茨の傷はしばらく傷む。心しておくことだ」と背中で云い、考え込むような素振りで降りて来た階段をまた上って行ってしまった。小夜子は階段の途中、手すりに寄り掛かり凍りついたように動けぬまま父の書斎の扉が静かな音を立てて閉まるのをそのままの姿勢で聴いていた。
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