第3話 小夜子の転機



 「転機が訪れる」と云うのは良くない意味でもあるらしい。

 ある日小夜子に転機が訪れた。いやさ、もしかすると小夜子の知らぬまに水面下では竹の根がずりずりとその根を地中の中で横へ横へと這わせ行くように広がっていたのかも知れないが。それは小夜子にとっては青天の霹靂であり瓢箪から駒であり足元から煙が立つような出来事であった。

 築何年か定かではない古ぼけたコンクリート製の第三校舎は通路の窓や大きく開かれた昇降口のガラス扉を以ってしても尚薄暗く、小夜子はこの建物の冷たい質感を嫌いではなかった。むしろ新校舎のバタークリームのような色をした外壁や白々とした廊下やピカピカとした教室の清潔感より余程好みであった。 その、第三校舎の下駄箱で、下校時刻、小夜子はいつものように独り上履きから上靴へと履き替えんとしていた。神聖な時を得てくれるそれは小夜子にとってはまさになくてはならない相棒の様な、でも見た目はどこにでもあるカンバス地の、灰色に白の縁取りと同じく白い紐の付いたスニーカーで、紐を解かなくてもずりずりと足をたわませれば履けるような代物だが、小夜子は敢えて紐を解き、年齢にしてはまだ少しく幼めな足をするりと忍ばせ、踵まで綺麗に設たのちしっかりと靴紐をリボンのなりとする、小夜子にとっては下校時の一種の儀式のようなものであった。

 その日も小夜子は儀式に則り小夜子より少しく高い位置にある下駄箱の『大鳥小夜子』と自身の名前がテプラで打ち込まれ貼られた、しかし既に煤けたように見えるシールをそっと右手の人差し指でなぞり、両靴の内側をそのまま右の手で摘んで、今にもささくれの立ちそうな足元のすのこの外へそっと置いた。ゴム製の靴裏がコンクリートの床にことりと立てるその音が耳に心地良い。

 最初に目についたのは『色』であった。違和感のある色。いつもはそこにいない色。

 ドキリとする。それと同時に心臓が一気に波打ちだってドッドッドッドと小夜子の身体中に血を送り出す。小夜子の神聖さを犯すかのように見慣れないモノが靴の中敷きの上にちょこんと置かれている。ぎょっとした瞳を今度はぎゅっとこらえて、小夜子は少しく震える手でそっと胸元あたりに手を置きふうと一息吐く。うん、大丈夫。

 すのこの上にゆっくりとしゃがみ込み中敷きに置かれたソレをまじまじと目にする。初めて見る虫を観察するようなじりじりとした高揚感はそこにはなく、むしろそこにヒヤリとした感情を覚えるのはソレが放つ悪意的なものを感じるからだろうか。ソレは妙に黄緑色をした直径二センチほどの丸い物体だった。見た目は少し艶としており弾力のありそうな質感をしている。おもちゃのスライムを丸めたものか、それとも安物の風船ガムの類であろうか。どちらにしても好意を以って置かれたモノではないと幼い本能が告げている。

 自分の神聖さの一部を穢されたようで悲しくなり、小夜子はソレを人差し指と親指でそっとつまんで下駄箱の前に投げつけた。小さな手で摘まれたわりに飛んだソレは傘立ての群れの中にコロコロと転がりやがて見えなくなった。見えなくなっても小夜子はしばらく傘立ての隙間の闇を凝視していた。悪意。これは悪意だ。誰とは知れぬ、でも小夜子を小夜子と識っている、臆病者が明確に現した悪意。これなら靴いっぱいに泥でも詰められた方がまだマシだ、と小夜子は思う。だってその方が目一杯怒ることが出来る。

 この悪意には怯えも含まれているように感じて、小夜子は少し憐れんだ。臆病者の悪意には憐れみが一番似合う気がした。


 そして小夜子の世界は一転した。


 『いじめを受けている』と云うことはどうにもこうにも肉親には云いにくいものである。

 云いにくいどころか知られるのが恐ろしいくらいだ。恐ろしく、そしてとても恥ずかしい。出来ることなら知られたくはない。自分の娘がいじめられているだなんて。


 小夜子に対するクラスメイトからの『いじめ』が始まってから十日ほど経っていた。

 最初はすれ違いざまに「おばあちゃん」などと云われた気がする。くすくすと云う笑い声。と共に、小鳥たちはその嘴から毒性を強めながら次々と泥のような言葉を放つ。「ババくさい名前」「何あの恰好」「ダサいよね」「男の子みたい」。ひっそりとした罵声は主に一部の女子からで、男子からは聞こえない。むしろ男子には知られたくない体で、よくあるターゲットに対する机への落書きや靴を隠されたりといった『行動』は最初の『スライム事件』(と、小夜子は勝手に呼ばわっていた)以降は起こされずにいた。最初は務めて気にせずにいようと強がっていた小夜子だったが「独りが好きなこと」と強さは違う。独りでいても寂しくはないけれど、尖った言の葉には心が抉られる。自ずから独りになることと強制的な孤独は違う。一部の男子がいつもと違った独りの小夜子を見て声を掛けて来たことが一度だけあったけれど、いじめっ子たちの耳元で囁く罵声がより酷いものとなっただけだった。


 恨み、辛み、妬み、僻み、嫉み。 

 恨み、辛み、妬み、僻み、嫉み。


 小学二年生たちにはまだその感情の姿形ははっきりとは分からなかったけれど、それはきっとそう云う感情の発露であったのであろう。小夜子の興味のないクラスのアイドル男子が、あの『スライム事件』の前の日、小夜子のことを好きだと公言していたのだから。


 今日は珍しく移動教室での帰り道、廊下でのすれ違いざまに後ろから「この男たらし!」などと大声で罵られ髪を引っ張られた。廊下の狭い通路の空間にざわりとした波が立つ。生徒たちの目が若干(否、かなりの)好奇を持って小夜子たちに一斉に集まる。嫌だな、目立つのは大嫌い。『男たらし』の意味は知っているけれど、とても小学生が小学生に使うような言葉じゃないと思い、小夜子は周囲の視線を気にしつつも呆気に取られてしまった。あと引っ張られた髪が痛かった。その女児は小夜子をいじめるグループの女ボスだったけれど、少し涙ぐんでいるようにも見えた。小夜子は小夜子をいじめている女の子が泣いていたとして同情するような出来た人間では無いけれど、小夜子の知らないところで何かが起きて小夜子は怒られ罵られているのであって、それははた迷惑な話だし、そんな迷惑な本当だか嘘だか分からない話で泣いて罵る女ボスには憐れみを感じた。ちょっとだけ。ちょっとだけだけれど。ね。

 そんなこんなで今日はやたらと難癖をつけられたりわざとぶつかられたり担任教師からの残酷な注意があったりとして、小夜子はもう疲れ切ってしまった。女ボスはどうやらもう他人の目も厭わなくなって来たようだ。このままではいじめが増長するばかりなのではなかろうか。巣の中で、居場所をなくしてしまったツバメの子のように小夜子は孤独であった。いっそ巣から落ちた仔ツバメにでもなれたらいいのに。

 そんなことを考えて、心虚ろにとぼとぼと地面ばかりを見て歩を進めていると、見慣れた路地のきわに辿り着いた。もうこんなところまで。いつもは襟を正すくらいの気持ちを以って佇む路地に、小夜子はただぽつねんと立っていた。そんな自分がとてつもなく悔しかった。心って、もろい。

 いつものルーチンが忌々しいくらいの無鉄砲さとむやみやたらな無神経さで崩れてしまい、小夜子はかなり投げやりな気分になった。こうなったらもう、全て破ってしまおうか。


 平素だったら息を整えて少しずつゆっくりと歩くはずの通りをずんずんと歩く。 実際に他所よそから見れば普通に歩いている小学生児童なのだがそれは小夜子にとってはかなり型破りな行動で、いつものルーチンをいつものようにこなせなかったことへの憤りが小夜子をより大胆とさせていた。

 神聖な領域が急に目の前に現れて、小夜子は思わずたじろいだ。

 アスファルトの上に惜しげもなく並んだ有象無象の砂利たちが小夜子の小さな足が感じた戸惑いを受けザリっとした音を立てる。行き過ぎるつもりなんて到底なかったけれど、時間と距離と感覚がチグハグなのだ。汗水一つ垂らしていないのに身体の内側だけが妙に熱い。 興奮しているからか木々はいつもよりいっそうその深みを讃えて見え、小夜子は少しくくらりとする。濃い緑の匂いが鼻腔から入り脳みそをぐるりと回って両肺と胃の腑を満杯に満たすような感覚。己の息は浅いのに空間の密度が濃いのだ。これで深呼吸でもしたら爪の先や肩や膝、髪の一本一本まで蔦となって葉っぱ人間になってしまうのではなかろうか。などと子どもらしい妄想にしずとひたり少しクスっと笑って、小夜子は目を瞑りえいやっと云う心持ちで深呼吸をして緑をたくさん肺に詰め込みながら、一応葉っぱ人間にはなっていないなと確かめるべく指先に目を落とし、もう一呼吸して洋館の門の前に立ちはだかった。


 こんなにはっきり正々堂々とこの場所を前にするのは初めてかも知れない。


 小夜子は敢えて庭内部の右側に視軸を向けぬよう目の前の門扉に集中した。

 左右対称に対となり、上下に渡る黒い横棒に細めの縦棒と飾りのような湾曲を描いた鉄の棒がくっ付いたそれは、赤黒い錆に所々侵食され崩れ落ち、時折斜めにひしゃげていたり折れていたりとする鉄製で、元は塗装でもしてあったのかそれすらも分からないほどに黒と赤錆に覆われて、しかし瀟洒であったであろう洋館を、それでも尚いまだ守ろうとしているのか、毅然と屹立している。

 小夜子はそっと右手を前に出す。少しく震えるそれはひらひらとして真っ白な蝶を思わせる。ゆらゆらと揺れる蝶はその触覚でつうと門扉の細い枝に触れてみる。鉄の質感。

 ざらざらとした時間ときの流れの集合体。触れる感覚にちょっと力を込めて見る。堅さと、重さと。自然と蝶は翅をすぼめ、まるで最初からそうするのが当たり前だったかのように鉄の棒をぎゅうと握り、くっと前に押し出した。

 大人にとってはただの錆くれた鉄柱も幼な子から見れば堅牢な鉄の塊だ。そこに時の重みが加われえば尚のこと。しかし小夜子の思惑を無視するかのように鉄の扉はギギギと云う音を立ててその甲冑をいとも容易く解いてしまった。小夜子は拍子抜けをした。開くはずがないと幼心にずっと思っていたモノだったのだから。


 鉄の棒を握る手はとうに蝶からその姿を芋虫へと退化させ、門扉の錆びた鉄と手の内側から発する汗でトロトロとしたよどみを作っている。普段の小夜子なら芋虫を潰してしまったかのようなその感触に悲しみを覚えるけれど、今はただただ「雪見だいふくみたい」と耳元で囁かれたその頬を、その女子に云わせたばかるならば「いちご大福」のように上気させ、扉を開くことに集中していた。


 ついと押す。

 ギイと鳴る。

 ついと押す。

 ギイと鳴る。


 余りに力を込めて一気に開くのもなんだか勿体無いような、じりじりとした高揚感に浸されて、小夜子は漸っと自分が何とか通れるくらいまで門と門の隙間を開けた。

 力を込めていないとは思っていたもののやはり握る力は強かったようで、自分の手を鉄棒から引き剥がすのに若干苦労した。右の手のひらを開いてみると、ほんの少しの赤錆が申し訳程度に付いているだけで、自分が想像していたほどに悲惨な状況にはなって居らずこれまた拍子抜けをした。でも鉄錆の匂いは鼻を近付けると咽せるほどで、嗅いだことをちょっとだけ後悔した。

 開いた門の隙間から中へとゆっくり視軸を向ける。

 家主が贅を尽くしていたころは美しく整えられていたであろうその庭も、今は全く面影もなく、取り残された樹木や住処を見つけた雑草群が群雄割拠を繰り広げている。


 小夜子の父は寡黙な植物学者で、いつも書架のみっしりと詰まった書斎に詰めているか、たまに大きな荷物を持ってふらりと出掛けては何日かしてまたふらりと戻って来るような変わり者で、小夜子の年頃の父親としては少しく年齢に嵩があるように思えた。 父の書斎には植物の他にも小夜子の小さな世界では見たことのないような不思議な形の貝殻やら何某かの頭骨やら変わった形の実のようなものや古いガラス瓶の列、ちょっと間の抜けた顔をした木彫りの魚や様々な生き物の図鑑たちが所狭しと並んで居り、小夜子は父の書斎に入り浸るのが好きであった。小夜子の家は海沿いの町にあったから、時折海岸に訪れては色々な形の貝殻やらイカのふねやらカニのハサミやらを拾っては帰るけれど、父の書斎にあるそれらは小夜子のコレクションでは到底追い付けないような代物ばかりで、時に小夜子を恍惚とさせるのであった。

 父も小夜子が書斎に入ることに対して特に何も云わなかった。小夜子に対して大した興味がなかっただけかも知れないけれど。

 故に小夜子も自然と植物には詳しくなり、父には程遠いけれどそこいらに生えている草花には多少の知見があった。あれはツユクサ、ハゼランにムラサキカタバミ、ヤブジラミがふわりと吹いた風に揺れる姿が美しい。大勢のヘクソカズラ、肩身の狭そうなオオブタクサ、少し奥にムラサキツメクサの畑がちらりちらりと目に映る。小夜子はあらゆる生き物を愛する娘であったから、世に『雑草』と呼ばわれ邪魔者扱いされるそれらも、同じく『園芸植物』と呼ばわれる植物群と変わらずに好きだった。むしろ、当時どんなにか美しく気高い庭園だったかは知らないけれど、今の方がずっと好い。

 小夜子はいつか寡黙な父がふいにぽつりとこぼした「雑草は決して強くはない、弱いから、肥沃な土地から爪弾きにされ生きられないものほど飛ばされ飛ばされ風に流されて、より育ちにくい土地に行き着くのだよ。強いからそこにいるんじゃない、弱いからそこで生きて行くしかないんだ」と云う言葉を思い出したが(少なくともここにいる植物たちは弱くても幸せものだ)と思った。たとえ時期ときが来て諍いがまた起こっても、花開けたモノたちは幸せな生を遂げられる、きっとここはそう云う場所に違いないのだから。

 そうしてそうやって小夜子はあらゆる植物たちを好んでいたけれど、彼らのことを考えるふりをしつつももはや心はここにあらずであった。意識をしないようにしても、どうしても意識をしてしまう。身体の右側が火照って熱い。平素は下から見上げる顔も、今きっと右側を向いてしまえば視軸がつうと合ってしまう。そのくらいの位置にいる。この門をくぐれば触れられるほどに。近い。


 真夏に差し掛からんとしている風は、時折ひゅるりと小夜子を揶揄うように、時にくすぐるように小夜子の栗色の髪を絡めてすくって元いた場所にサラリと戻す。陽の翳った場所では未だ少しく肌寒いそれも、今の小夜子には心地良い。愛しい人が、そこにいる。

 小夜子は目を閉じふっと一息吐いてランドセルを半ば乱暴に背負い降ろした。門の端にそっと置く。お尻の部分が汚れちゃうけれどしょうがない。小学生の持ち物は、汚れるためにあるのだ。「ちょっと待っててね」とランドセルの蓋あたりをぽんぽんと叩いてスクっと立ち上がる。母親が「割り箸みたいね」と時に揶揄う白くて細い足。スカートは苦手だからキュロットか長ズボンしか履かない。今日はキュロットだから、この庭に一足踏み入れたら鋭い草の鎌で足を切ってしまうかも知れない。でも子供の冒険に怪我はつきもので、そしてそれは時に勲章でもあるのだ。行き過ぎれば罰則でもあるのだけれど。

 まずは頭を入れてみる。頭が通れば全身も通れる生き物は猫だったかな、などと思いながら、まだまだ薄い体を横にしてカニ歩きの体で横這いに歩く。一歩踏み出し、また一歩。 何となく目を瞑りながらゆっくり歩を進め、五歩目を数え終えたところで足元にピリッとした感触がさくりと走って小夜子は思わず「ひゃっ」と小さく叫んだ。植物群の使者のお出迎えだ。どうせならもっと優しく出迎えてほしい。タンポポの綿毛がやわりと触れたなら、これまたびっくりして声を上げてしまいそうだけれど。


 –––ああ、これは踏みしめて行かないとどうしようもないな。


 草花を踏むのはどうにも抵抗がある。そこいらの公園に生えている芝生だって踏みしめるのが申し訳なくて、乱暴者が蹴って穴を開けたのであろう芝生の抜けた泥の部分をぴょんぴょん跳ねて通る小夜子だ。今まさに生きづかんとするものを踏むのは抵抗がある。

 でも。「ごめんね」とぽつり一声かけて、小夜子は植物の海に歩を分ける。 敢えて下は見ないように、でも視軸をどこに合わせたら良いのか分からなくて小さな小夜子は頭を振った。途端にくらりと目眩がして世界がホワンと歪んで見えて、慌ててすぐ横にある門扉の鉄を掴み、自然と目を向けたまさに目の前に、それはいた。


 長い鼻面、

 大きくあざ笑うように開いた口吻、

 端から覗く牙は片方だけぽきりと折れていて。

 べろりとした長い舌と、

 鋭いひとみは爬虫類のソレのよう。

 今は見える馬のような耳は対となり、

 額には毛のようなものが一房掛かっている。


 小夜子はあまりの出来事にドキドキとすることも忘れ、ただひたすらにその像を眺めていた。細部まで漏れのないように。細胞のひとつひとつまでを識っていたい。 それは無意識な行動だったように思う。

 小夜子は細長い腕をゆっくりと像に向けて差し出した。無意識の中の意識。恋する者が持つ当然の衝動。『触れてみたい』。

 震える指が折れた牙の残った部分を労るようにそっとつまむ。途端にビビビっと衝撃が身体中を駆け巡り、股間の辺りでヒュッと止まって小夜子は少しだけ漏らしてしまった。石から電気が流れるだなんて学校でも習ってやしない!

 それはもちろん石像からではなく小夜子の脳がもたらした『恋する者の通過儀礼』と云うちょっとした悪戯だったけれど、幼い小夜子はそんなことは知らないし、お漏らしだって何年も前に卒業したので久しぶりで、何も愛しい人の目の前でこんな目に遭わせなくても…と少し恨みがましく思えたけれど、このままこの指を離してしまったらまた触れる際に電流が走るかも知れないし、何より指先に触れるがさりとした石の質感が肌に心地良くて、そのままそっと肌身離さず牙から口の端に指を沿わせ頬の辺りをゆっくりと手のひらでまあるく撫ぜた。ドキドキは既にドクドクとなって、小夜子の身体中の血液を沸騰させそうだ。舌先の血管まで膨張しているように感じて小夜子は溜まったつばきをごくりと飲み下した。

 左手で触れたらまたあのような電流が走るのかしら。

 もう一度あのビビビっを浴びたら完全に漏らしてしまうかも知れない。それでも幼い心に芽生えた衝動はあまりにも情熱が過ぎて、小夜子は震える左手を恐る恐る石像の左頬に近付けた。さっきは気にもしなかったけれど、静電気が走る様子はないみたい。そもそも石は電気に弱いんじゃなかったっけ?雷が石に当たって亀裂を施したような話を何かの本で読んだ気がするのだけれど。

 小夜子は少しく逡巡したあと、左手の人差し指でチョンと像の左頬を突いてみる。ピリッとした刺激が走るかと思ったけれどそんなことはまるでなく、石像は右手と同じくざらりとした感触を左指の先にも与え、小夜子はまた拍子抜けをした。大丈夫みたい。一回きりだったのかな?それにしても一体全体どう云う仕組みなのだろう。 もう一、二回指先でチョンチョンと突いたあと、未だ震える左手を右手と同じように像の右頬に添える。捕まえた。これでもう私のものだ。今、この瞬間だけは。小夜子はより一層喜悦にまみれ、像に顔を近付けようと小ぶりな足をきゅうと伸ばして爪先立ちとなり、鼻と鼻がくっ付くくらいの勢いで前に乗り出した。


 目と目が合う。ような気がする。急に頬がかあっと熱くなり恥ずかしくなって、慌てて像の額へと目を逸らす。一房の前髪だと思っていたものは近くで目にすると馬の立髪のようで、頭の後ろの方まで続いているようだ。耳や立髪を見ると馬のようだけれど顔立ちは爬虫類のそれで、小夜子はこんな生き物を見たことがなかった。もちろん水木しげるの妖怪図鑑にも載ってはいないし…あ、でも背中に翼が見える!鳥よりもコウモリに近いような羽の先に爪のついた大きめの翼。下の方まで見たいけれど惜しいかな、茂りに茂った植物群がその視線を阻んでいる。「前足はどうなっているのかな…」照れる気持ちを隠すかのようにわざと思いを口に出し、爪先だった足を下ろして像の前足の辺りを繁々と見てみる。 像にしつこく絡みついた蔦は(しかもその蔦の意地悪なことと云ったら!)ぐるりぐるりと石像を縛り付けるように巻き付きしかも鋭い棘を持っていて、小夜子の柔らかな頬やきらりと大きく見開かれた目の端を、いとも容易く引き裂いてしまうぞと嘲笑っているかのように見える。 それでも何とか意地悪な棘の目をくぐり、頭をあっちへ傾げたりこっちへ傾げたりとしながら石像の前足の先へと視線を届けることが出来た。尖っている。随分と鋭い、でもこの棘のようには意地悪さを感じさせない爪はグッと力を込めて何か丸いものを抱えている。爪に続く指はやはり爬虫類のソレに似ていて、小夜子は恐竜か何かなのかなとも思ったけれど、小夜子の持つ子供向けの恐竜図鑑には載っていない容姿であるし、小夜子の知らない恐竜なのかも知れないとも思ったけれどそれもまた違う気がした。石像が大事そうに抱える丸いものは丸さだけしか伝わらない、もしくは丸くないのかも知れない程に蔦に覆われていて、小夜子は像が蔦からその丸いものを守っているようにも見えて、蔦に抗う術を持たない自分の非力さにガッカリとした。助けられたら良いのにな。そして私も助けて欲しい。

 そう、小夜子は助けて欲しかった。陰口を叩くクラスメイトの女子たちから、小夜子に興味を持たない父から、弟にばかり視軸を向ける母から、「遊んであげる」と云いながら小夜子を嫌な目で見、近寄って来る(昔は兄のように慕っていた)近所の中学生から。


 そう。いつからだったろう、ソレが始まったのは。


 下校帰り、いつもの帰り道。小夜子の白い足がヒュルリと伸びて、そうして小夜子はスカートを履けなくなった。


 元から特に俗に云う「女の子らしい格好」が好きだったわけではないから、洋服を買いに店へと赴いた際に男の子向けの服を選ぶ小夜子を母は別に咎めなかったし、むしろ弟へのお下がりとなるので喜んでいるようにも見えた。ただ半ズボンにはかなりの抵抗があったのでキュロットや長ズボンを選ぶようにしてはいた。あいつのあの目。小夜子の足を好奇を持って見るあの目。昔はあんな風じゃなかったのに。何が彼を変えたのだろうか。小学生までは普通だった気がする。当時は園児だった小夜子を「小夜ちゃん、小夜ちゃん」とよく構ってくれた。そうして小夜子が小学校に上って、お兄ちゃんも、たまに近所の中学校の学生服を着た後ろ姿を見るくらいになりしばらく姿が見えなくなって、そうして久しぶりに見たお兄ちゃんはだいぶん姿形が変わっていた。最初は誰だか分からなかった。学校帰り、玄関の外扉を開けようとすると後ろから「小夜ちゃん」と聞き慣れない掠れたような声に名を呼ばれ、小夜子は一瞬びくりとしたのちそうっと後ろを振り向いた。 脂っこく少し癖のついた黒い髪。頬にはニキビやその痕がパッと散ったように咲いていて、少し肥満気味な肉体と合間って歪んだ食生活が伺える。誰だろう、こんな人近所にいたっけ。なんか、こわい。小夜子は野生動物的な危機管理能力を以って身構えた。そんな小夜子を見て彼はくへへと笑い、


「なんだよ、忘れちゃったの?冷たいなあ小夜ちゃんは」「昔はあんなに遊んであげたのに」


 と云うその一言で、小夜子はやっと相手があの幼馴染のお兄ちゃんだと気付いたのであった。小夜子の驚きを他所よそに「ちょっと肥ったからかなあ」などと古ぼけたトレーナーの上からお腹を撫でくりまわし、宣っている。ちょっとどころではない。だいぶだ。 お兄ちゃんは昔は「すわ、神童か」と近所の大人から噂されるくらいに出来た少年だった。勉強もスポーツも常に一番だし、優しくてすらっとしていて女の子にも随分とモテていたように思う。小夜子も幼心に少し憧れていたし、そんなお兄ちゃんに「小夜ちゃん」と可愛がられることはちょっとした自慢でもあった。そう、そんな、素敵なお兄ちゃん、だった、のに。

 人を見かけで判断してはいけないと小さな小夜子だって幼心に解ってはいるつもりだ。でもお兄ちゃんの小夜子に向ける視線の中には何か嫌な気持ちにさせる色があって、ソレが小夜子のスカートからスラリと伸びる腿と膝の間だったり白いブラウスの胸あたりだったりに落ちるのがどうにも気持ちが悪くって、小夜子は、「ねえ、小夜ちゃん。昔みたいに遊ぼうよ。二人でさ」と近付き伸びて来る手腕から逃れ、「ごめんなさい、今日は用事が」とか何とかモゴモゴと呟いて素早く開きかけた門の内側に逃げ込んだのであった。早足で玄関まで去る際に「チッ」と舌打ちが聞こえたような気がする。舌打ちなどしなかった。私の知るお兄ちゃんは。そうして小夜子の日々の憂鬱がまたひとつ増えたのであった。


 「助けて欲しい」


 一度口から出すと、もうそれは止まらなくなった。

 愛しい人の両頬の辺りに手を添えて、小夜子は大きく見開かれた瞳から大粒の涙をポロポロと零れ落ちさせながら、石像に対して祈るように助けてと唱えた。

 助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて欲しい。小夜子がその茨の鎖を解いたなら、そのコウモリの羽のような両翼で小夜子を遠く知らないどこかへと運んでくれはしないだろうか。

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