第2話 大鳥小夜子・八歳



 小夜子は小夜子と云う名前が嫌いじゃなかった。

 小学校の同窓生などは今時の「ひな」やら「さゆみ」やらと云ったような可愛らしい名前に溢れ返っているし「小夜子なんておばさんみたい」と云うあからさまな中傷や嘲笑を受けたりもするけれど、人と変わっていると云うことは小夜子にとってスタンダードであり一種のアイデンティティでもあった。だからと云って変わっていることをひけらかさないだけの分別もこの年齢にしては持っていた。人と違うと云うことは良きにつけ悪しきにつけ溝を生むし、揶揄いの的にもなるし、度を越せば敵も作る。だから小夜子は名前以上に目立たぬよう、名前のように地味な体をして教室の片隅でひっそりと息をしている。

 そう、小夜子は近年一般的に知られるようになった『ギフテッド神からの贈り物』であった。

 ギフテッドとは−−−同い年の子どもより、多分に能力の秀でた子どもを指す言葉で、その能力を神から贈られたとする『ギフト』を語源とし、一つの能力、またはあらゆる能力にと秀でた者に与えられる称号のようなもの−−−であった。小夜子は特に小学校で習う『国語』や『道徳』に長けていて、理系の父からは「なんだ、文系か。つまらん」などと云う暴言も受けていた。確かに学校の授業は同じことの繰り返しで退屈で、だからと云って手を抜けば母に罵られ、その通りに解けばクラスメイトに疎んじられると云う、厄介な性質たちであった。


 水風船が弾けるような声を立ててはしゃぐ教室の真ん中は、黄色いひよこのような新入生がランドセルにのしかかられて、朝露の道々のあちらこちらにヨチヨチと目につくようになってから急に生まれでた、小学校もとうに二年目であり自分たちはもう立派な先輩なんである、もういっぱしの小学生なんである、と云う小学校二年生独特の大人ぶった感性で今日も一通りかしましく、髪を美しく結い上げその上に華やかなリボンを添えてもらっていたり、寝起きのままのボサボサ頭に安っぽいプラスチック製のカチューシャを施しただけだったりする彼女らは、昨日も今日も明日もきっと同じ話しかしていないように思える。いや、きっと同じ話なのだろう。主役の名前が変わるだけだ。まあ彼女たちの話しているそれはその通り日曜日の朝に見たテレビアニメの魔法少女の顛末だったり、好きなアイドルの噂話だったりする訳だけれど、そう云った嬌声や叫声は水風船が割れたように音を立て飛沫を上げて、ほつれたスカートの布地やら美しく結い上げられた髪の毛やらきちんとアイロンがけをされたハンカチーフやら洗い忘れた給食袋なんかに吸収されて、乾いて宙に舞ってほんの少し中身を変えてまたこの教室に降り注いで来る。なんてことない日常の、日々の、飛沫あわ。 


 小夜子は別にそれらを厭いやしないし、そんな風に華やかに眩しくあっけらかんと日々を過ごしている彼女らをむしろ羨ましく思う(もちろん彼女らにだって人並みに、またそれ以上に日々悩み事はあるだろう事は分かっているのだけれど。小学校二年生と云う年齢はそれはそれでそれなりに多感な年頃なのだ)。だからと云って己の趣味嗜好を曲げてまで彼女たちの輪に入りたいとは思わなかった。

 小夜子はどうしたって魔法少女にも男性アイドルたちにも興味が持てないのだ。  キラキラもひらひらも綺麗だし可愛いとは思うけれど、わたしにはちょっと違う。

 わたしには、もっと、こう。どろどろと。した。


 小夜子は物心のついた頃から、世間一般的に見て主に「気味が悪い」と思われてしまう類の物事を好む傾向にあった。

 小夜子の記憶にある限り、彼女が一番最初に好んだモノは元は父の所有物であった「水木しげるの妖怪入門世界編」だったように思う。奥付に「初版昭和五十三年」と明記されているので父が二、三歳の折に購入して貰ったものであろう。並みいる世界のモノノケたちを後ろに中国の妖物である女夜叉がドドンと表紙を飾っている逸品で、水木しげるのえがく各国の魔物たちはどれもユーモラスさと恐ろしさ、凛々しさに溢れており、中でもニューカレドニア島の妖怪『カボ・マンダラット』やユーゴスラビアの『フォービ』、メキシコ妖怪の代表格である『ヨナルテパズトーリ』などの見てくれが好みで、当に字も読めた小夜子はその特性や造形をこよなく愛し、よく眺めていたように憶えている。

 

 小夜子の祖父は終戦の翌年の生まれ、どうにも道楽の過ぎた収集家で、書闍しょとと云わないまでも読書家であり、その年代の男性にしては漫画本の好きな質で当時の人気作をそれなりに揃えていた。主に青年向け成年向けの内容が多かったそれらはやがて父へと引き継がれ、のちに幼児の小夜子でも手の届く範囲に鎮座まし、見慣れた絵本ののっぺりとした平面世界から、小夜子をより輪郭の伴った二次元空間の中の三次元世界へと旅立たせた。

 他にも、ヘビやカエル、トカゲにコガネムシ、イシガメやカマキリにタガメなど、凡その女児が好まぬような生き物を好んで愛で、近在の同じ年頃の子どもたちと遊ぶよりもそれらと(一方的な戯れではあったのだけれど)過ごす方がずっとずっと好きだった。


 「小夜子ちゃんは変わっているわね」


 そんな風に、所謂ゲテモノたちを選んで好み一人楽しげに遊ぶ幼い小夜子を目にしては、時に面白がるように時に少し気の毒がるような素振りで親戚のおばさんやら近所の大人たちは声を揃え、その台詞を発するのであった。それは小夜子のまだまだ幼くきちりと確率の出来ていない自我の芽に、元日の朝にいただいたアルコールの飛ばし切れていないお屠蘇のようにじんわりと熱を持って身体に沁み、小夜子を少しだけ得意気な心持ちにさせるのであった。


 小夜子の通う小学校の道沿いには近所でも有名な古い洋館があった。 元は瀟洒で美しかったであろう庭は雑草にまみれ鬱蒼と茂り、建物の外観により一層不気味な蔭を落とすのであった。それ故に子どもたちからは「化物屋敷」と恐れられ、前を通る際に目を瞑ったり、走り抜けたりする生徒も多かった。もちろん、小夜子を除いては。 小夜子はその家の前を通ることを強く好んだ。立ち止まって繁々と中を覗き込みたい欲求をなんとか押さえながら出来るだけ怪しまれないようにゆっくりと前を歩く。そして必ず一定の位置で靴紐を結び直す振りをする。愛しい人が、そこにいる。


 わらわらと息付く植物群の隙間から、少しく覗くモノがいる。


 鼻面は長く、大きく開いた口の端から出ずる牙は片方だけぽきりと折れている。

 べろりとした長い舌、小夜子を捕食する獲物と定めるかのように見つめる目は、長い風雪にも負けずその力を失っていない。

 (食べてくれたらな)と思う。食べてくれたら良いのに。その大きな口でパクリと頭から小夜子を飲み込んで欲しい。小夜子はそれを知らないけれど、小夜子のそれは恋であった。 


 そう、小夜子ははるか昔に、古ぼけた庭にしつらえられたであろう一体の石像に恋をしていた。


 一体の異形なるモノの石像に。 

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