黄昏どきのスーべニール

椛木まほ

第1話 プロローグ



 あの夜は夢だったのだろうか。


 愛し子の柔く少しく汗に塗れた髪の束を指ですくって彼女は部屋の内側の夜に目を向ける。申し訳程度に開いた子供部屋のドアから射し込む廊下そとの明かりが部屋に少うしだけ陰影をつける。上から二段目の取っ手の引き具合に多少のがた付きの見える子供向けの衣裳箪笥、その横にポンと無造作な風体で置かれている、近所の量販店で購入したような渋い辛子色のカラーボックスケースの中には、歪な、この齢の子供が親しむには少しだけ歪な形をした塩化ビニルモノマー製の怪獣や、作り手に嫌気がさしてしまったのか、少し、と云うかかなり目の付け所を損なってしまった出来損ないのパンダ(愛し子は数あるまともなぬいぐるみたちの中から敢えてこれを選んだ)や、幼児が持つには些かリアリティに重きを起きすぎている四十センチほどのビニル製のワニ、フランケンシュタインの手を模したマジックハンドは関節に砂つぶが挟まって、とうにマジックハンドの体はなさず、海を知らない異国人が耳にした特徴だけで想像し、繕い綿を詰め作製したようなタコのぬいぐるみはそれでも何とかタコの体は成している。


 凡そ「普通の」「あどけない」「こども」が収集しないような宝物で詰まっているその箱は。


 なんてことのないように見える石(きっと彼女にはなんてことのない石の照り返しすらも光り輝いて見えるのだろう。若しくは光を受け形取られた影の部分が闇のように暗く蠢き、そしてそれはまるで深淵を覗き込むような)、かつて彼女が近在の海辺で拾った犬の下顎骨は愛し子の一番のお気に入り。いつでもどこでも愛用のポシェットに潜めて出かけ行く。いつだったか「ウルトラマンが現れたらこれでやっつけるんだ」と真剣な眼差しで少し顔を上気させ、尚得意げに骨を掲げて宣言した際は笑いを噛み殺すのに必死だった。 幼児にいとも容易く犬の骨で撃退される正義の味方を想像してしまったのだ。馬の骨だったらまだどこのモノとも分からない者になどと云った云い訳も出来たろうに。あれはウルトラマン何だったかな、失念してしまったけれど、何ともかわいそうなM78星雲からの使者。たった三分間だけの偽善者。わかるよ、倒したいよね。


 ボックスの中には他にも、蛇の抜け殻に蝉の抜け殻、住人のいなくなった蜂の巣、カマキリの鎌部分だけ、対を無くしたたくさんの烏貝はクロスグリの色を放ち、よく違いの判らない枝々とアベマキの帽子。形状記憶合金で出来た小さなゴルフクラブのマドラー、二度と明滅することのない豆電球、美しく紅葉を遂げた枯葉、ただ枯れただけのように見える紅葉、甲虫たちの亡骸、鴉の羽、鳩の産毛、蟹のハサミ−−−。

 あげつらえばキリがないほどに細々とした果敢無いモノものを乱雑に仕舞った、誰かしらからのイギリス土産であるロンドンバスを模したブリキの空き缶。彼女にしか分からないたくさんの什宝の詰まった二階建てのバス。 


 夢の中でバスに乗る。


 外観は二階建てのロンドンバスの体を成しているけれど、中に這入れば吹き抜けの夜が見えるそれは床にも座席にも大切な収集物が有象無象に敷き詰められ、一歩一歩踏み締めるたびに、


 烏貝はザリっと云う音を立てて砕け

 抜け殻はクシャリと潰れ

 枝はポキリと心を折って

 豆電球は陽気に弾け

 形状記憶合金は全ての記憶を喪失してしまい

 蜂の巣からは慌てた幽霊蜂の子たちがまろび出て

 美しくも、美しくもない枯葉たちは散り散りに破け舞い

 下顎骨はもろもろと崩れ灰となる


 その様を、妙にひしゃげた塩化ビニルモノマー製の人形たちがやはり歪な笑みを揶揄うように浮かべ、見守っている。


 なぜだろう、なぜか悲しいとは思えない。モノが壊れて失うことをひどく厭う愛し子だが、目についた烏貝のザリザリとした残骸を手のひらに乗せ、ああ、壊れても一緒なんだなと感じ始めている。姿形が変わるだけ。一緒にいるよ。

 元の形を失ったモノと元の世界とは違う景色を多分に元とは違う姿で、あえて宝物を退かさずに、そのまだまだ小ぶりで愛くるしい臀部で愛おしそうにゆっくりと踏み潰しながら腰掛ける。

 夜を駆けて行くのが楽しみでしょうがない。


 ああ、この子は夜を怖がらない子だ。あの頃の私のように。 小夜子はそっと視軸を扉の向こうの居間へと向けた。


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