第10話 彼の地にて、妖怪 小夜子
小夜子はあの海での出来事を思い返していた。
先ほど触れた水晶の粒ひと粒ひと粒が、今より余程小さな小夜子が海で妖怪たちの名を呼ばわり、癒しを得ていたあのひと時へと還したかのように、その記憶をより鮮明とさせていた。波寄る海辺のじくじくとした踏み心地、あの日集めたサクラガイやカラスガイの欠片たち、何某かのカニの甲羅、灰色とも薄水色とも付かない小さなシーグラス、どこからか流れ着いたのかも分からぬすっかりと色褪せてしまったクルミの実、あの日拾ったそれらは時を経るに連れ、小夜子の宝箱からいつの間にやらその姿をほろほろと崩し行きてしまったが如く消えてしまっていたけれど、小夜子は今やそのひとつひとつの姿形や触れた際のカラスガイのざらりとした感触、サクラガイの姿と己の指の爪の大きさを比べて見たこと、浜辺へ座った際の腿の辺りへ当たる砂つぶの
あの水晶の礫は一体誰のものだったのだろう。小夜子はガァちゃんに問いただそうとしたけれど、そうだ、この地には名前と云うものがないのだと思い返し、名がないと云うのはなんと不便なことだろう、その名もなき世界で彼らはどう過ごしていたのだろうと想像し、己の想像力の乏しさに肩をすくめる思いであった。でも先ほど、バックベアードとガァちゃんは言の葉を交わし合っていたし、ここでもきっとそうやって妖怪同士がお話しをしたり、笑い合ったり時に喧嘩をしたり、各々が自由に過ごしていたのだろう、と推測し、それならガァちゃんは小夜子と出会わぬ長い年月をどのように此処で過ごして来たのだろう、お友達はいたのかしら、いたとしたらどんな会話を交わしていたのかしら、と好奇心がむくむくと頭をもたげ、何やらそちらはそちらで思案げなガーゴイルへと言葉を向けた。
「ねぇ、ガァちゃん。この世界ではあなたはどう過ごしていたの?」
不意の小夜子の設問に、こちらはこちらであの日のドラゴンとの邂逅を思い出していたガーゴイルは、声のした方を見遣り、未だ己の指をしっかと握る小夜子をギョッとしたような素振りで見詰め、己が彼の地にいることすらも忘れるほどに追憶に潜んでいたのかとしばし呆然とした。
その追憶の狭間に身を置いていた間、歩いていたのか立ち止まっていたかも定かではなく、全てを石や岩へと変えてしまったこの地はその深さまでも混沌とさせて居り、ガーゴイルは今や自分たちがどの辺りにいるのかをも完全に見失ってしまっていたのだ。
そんな無防備さを己が身に纏っていたこと、そんな不用意な姿を身に付けてしまったこと、そうしてその間にもし魔の手が小夜子を奪い去らんとしていたらと考えるだにゾッとしたガーゴイルは、いつになく乱暴に小夜子を抱え上げその胸へと抱き止めた。
好奇心に目をキラキラと輝かせてガーゴイルを見上げていた小夜子は、平素なら壊れもののように自分を扱ってくれるガーゴイルの突然の大雑把な行動に「ひゃっ」と声を上げ、目を白黒とさせた。
掲げ上げられた顔が互いのすぐ近くに在ることをガーゴイルは気付いているであろうか。
小夜子は温度のない世界で己が身体の熱が急激に上がるのをはっきりと感じ、大気のない世界で呼吸鼓動を早馬の駆ける蹄が如く速めて、合わさった視線の行く先を反らせるのに慌てふためいて、視軸を下へと向けた。ガーゴイルの大きな手は小夜子の腿の辺りを柔く掴んでおり、小夜子はなんとも気恥ずかしくなって、その辺りに急激に汗をかいたような気分となったけれどそんなこともなく、こんなにも、ガーゴイルの端正な顔の近くにまるで息がかかるほどに身を寄せているのに−−−と、そこまで顧みて、小夜子は自分が息をしていないことに漸っと気が付いた。
「ねえガーゴイル!私たち息をしていないわ!」
ガーゴイルは失念していた。
小夜子が余りにも呆気なく自分や自分を取り巻く環境を受け入れたように見えたものだから、小夜子自らが置かれている状況を説明することをすっかりと忘れていたのだ。
「落ち着け、小夜–––」
と、云い終わる前に、目の前の小夜子の瞳が無邪気な色へと変わっているのを見て取ったガーゴイルは、
「すごい!吸い込んでいるのに何も入って来ないだなんて、私こんなの初めて!」
と、楽しそうにはしゃぐ小夜子に呆気に取られた。
そうだ、こう云う娘なのだ。普通はパニックになって怯えるような状況をも受け入れ、溢れんばかりの好奇心をもって楽しむ。そんな小夜子だから気に入ったのだ、とガーゴイルは改めて顧みつつ、目の前で大きく深呼吸をする真似をしたり、己の髪の毛に息を吹きかけようと愉しみながら四苦八苦する小夜子の仕草を愛おしげに見詰め、一旦飲んだ言葉を体内で変化させ、続けた。「余りはしゃぐな、小夜子。落ちるぞ」 なんとなくデジャヴ感のある言葉を吐きながら、一から説明するから聴くようにと諭すよう続け、そう云われると一点して大人しく耳を傾け出した小夜子の純粋さと生真面目さ、そしてやはり瞳に映る好奇心と云う名の輝きに胸の辺りをきゅうと軋ませたガーゴイルは、己の内のその初めての感覚に得も云われぬ感情を抱き、さらに己の内を軋ませた。
それが『切ない』と云う感情だとガーゴイルが身を以って知るのは一体いつのことになるであろうか。
ガーゴイルは小夜子の好奇心に溢れた真剣な瞳からわざと視軸をずらし、此処には小夜子の住む世界と違い大気がないこと、故に息もする必要もなく、もちろん草木が根を張ることもなく花が咲くこともなく、小夜子を濡らす水滴の一雫すら存在しないこと、大凡『生きている』モノが存在することの許されない土地であること、をゆっくりと唱えた。
そう、そうであった、かつては。
「じゃあ…私は死んでしまったの?」
と問いかける小夜子にチラリ目を遣ると、その瞳には微かな怯えが見て取れたけれど、それに勝る怖いもの見たさのようなものがやはり色濃く宿り、全く困った娘だと笑みが溢れる思いであったガーゴイルは、
「そうではない」と一言に付し、一瞬躊躇するような間を作ったのち、「あのモノの中を通っただろう」と敢えて名を呼ばわず、さも忌々しげに小夜子に問いかけた。やはりそのモノの名を呼ぶのは癪であったガーゴイルは、小夜子が考えた名ではなく小夜子の世界ではそう呼ばれているのが当たり前だと分かっていても、小夜子が名を呼んだと思うとなんだか無性に腹は立つし、通った際の奴の小夜子に対する挙動も未だ腹に据えかねていたのだ。
そんなガーゴイルの心中を慮ったのか小夜子は短く「うん」とだけ応え、こんなに幼きものに気遣われる己の心のせせこましさにもうんざりとした。
小夜子はガーゴイルの思惑をなんとなく分かっていたし、何よりガーゴイルの尻尾がぶおんぶおんと右へ左へと揺れていて、ガーゴイルが何かを(多分にあの時のことを)思い返し苛立っているのが見て取れたので、小夜子も小夜子で敢えて「バックベアードのこと?」とは返さなかったのだ。だって、私だってガーゴイルが−−−そう、例えば美しきセイレーンなどとここで楽しげに過ごしていたなんて知ってしまったならヤキモチのあまり頭が沸騰して爆発しちゃう!
「どう云う原理かは分からぬが−−−」
ガーゴイルの声に己の無意な妄想から醒めた小夜子はちょっと恥ずかしくなり、まだ見ぬ美しきセイレーンの歌声を打ち消すように今度は力強く「うん」と返事を返した。
「アレを通ってこちらの地に入って以降、小夜子は我らと同じモノとなったようだ」
小夜子はまさに「ポカーンと云う顔をさせたならばこのような顔であろうな」と云う顔をし、しばし先ほどまでセイレーンと力戦奮闘していた頭の中を整理して、ガーゴイルの言葉を脳内へと
ちょっとした悪戯や冒険はお任せな小夜子だけれど、特に特技があるわけでもなし、きっと『妖怪 小夜子』を怖がる(と云うか厭う)のは母ぐらいだろうな…と寂しく思い、そうしてハッと思い立ち、詮無いことを考え込んでいたその
「ねえ、ガァちゃん。私がガァちゃんたちと同じモノになったのなら、なれたのなら、それなら、もし、もしも私が忘れ去られてしまったら、私もやっぱり石になってしまうの−−−?」と辿々しく問い掛けた。
その面立ちはらしくないほどに悲壮感に満ちており萎れた花をも思わせて、大いに戸惑ったガーゴイルは「小夜子は忘れられなどしないだろう」と慰めるように返すことしか出来ず、小夜子はその面を殊更青白く染め、心持ち下を向いたままふるふると頭を振り、ぽつり「そんなことないわ」と答えた。
それきり小夜子は黙り込んでしまい、ガーゴイルは殴れるものなら己を殴ってしまいたい気持ちでいっぱいであった。伝え方を間違えた。別にありのままそのままを告げずとも良かったのだ。「此処には空気がない」とか何とか伝えればそれで良かったではないか。
しかしそれは出来なかった。この素直で繊細でしかし好奇心の塊のような心を持った美しい生き物に隠し事をすることはもはやガーゴイルにとっては何百年何千年と過ごして来たこの世界での一番の
しかし、『忘れられる』。
小夜子が忘れられる可能性が微塵をもあるとは考えてもいなかったガーゴイルは−−−今でもそんなことがあるとは思ってはいないけれど−−−小夜子の、時に、ほんの時に見せる翳りの奥に潜んでいる悲しみの琴線に、己の発言が触れてしまったことを海ほどにも深く悔やんだ。
小夜子は別にいつの日か己が石となることには厭いはなかったはずだった。
このままこの地でガァちゃんと過ごせたならどんなに幸せだろうと願っていたし、小夜子にとっての救済はそれそのものでもあったのだから、ガァちゃんと同じモノになれたことは喝采するほどのことであったし、ただ喜んでいられればそれで良かったのだ。なのに、もう捨てても良いと思った世界にこんなにも未練があったのかと愕然とし、そして落ち込んでいた。捨て切れもしないのに救いを求めてしまった自分に随分とがっかりとし、ガァちゃんに対しても申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。私の彼への救済の思いはこんなに軽々しくも萎んでしまうものなのか。いつか石となる日が来たとしてもそれまで一緒に過ごせる時間があるのならばとそれを祝う気持ちより、忘れられて石となることをより憂いてしまった。『忘れられる』。誰かから忘れられると云うことはこんなにも辛く悲しいことなのか。それならば、数多の石くれとなってしまったモノたちはどれほどの思いを抱え、己が身が徐々に石へと変わり行く姿を目にして行ったのだろう。
父や母や弟や、祖父や祖母に親戚や、クラスメイトに先生や、と知った顔が次々と現れは消えて、小夜子は己の世界の小ささを改めて思い知らされた。小夜子を知る人間はこんなにも少なくて、そうして小夜子なんてすぐに忘れ去られてしまうだろう。小夜子に興味のない父も、弟にしか興味のない母も、小夜子に懐くでもない弟も、一番近くにいる家族ですらそう思えるのだから他人なんて殊更であろう。クラスメイトは正直どうでも良い気持ちが強かったが、小夜子は逃げ出したいと思っていた人たちに、それでも忘れられるのを恐れ悲しむ自分が心底嫌だった。そんな自分を図々しいとまで感じ、小夜子が最も嫌う人種、図々しくて無神経な人々の仲間入りをしてしまったことへの絶望感をも持った。
それならば。
いっそのこと忘れ去られてしまっても良いのではないか。
徐々に石くれへと変わり行く小夜子はきっとガァちゃんを悲しませてしまうかも知れないけれど、それは本当に申し訳のないことなのだけれど、それでも小夜子を小夜子として必要としない世界にいるよりはずっと良い。石に変わった小夜子はいずれ礫となり、その姿すら失ってしまうけれど、きっとガァちゃんならその礫すら大事にしてくれる。と、そこまで考えて、自分でもそんな自信が何処から出て来るのか分からなかった小夜子は、伏せていた面をおずおずと上げて、「ねえガァちゃん、もしも私が石になって、やがて礫になってしまっても、ガァちゃんは私を傍に置いていてくれる?」と頼りなげに問うた。
顔を伏せ考え込むような、さもなくば落ち込んでいるかのようにも見えた小夜子を心配げに見守ることしか出来なかったガーゴイルは、上げられた小夜子の瞳から悲しみや惑う色が失せ、おずおずとした所作の中にもはにかむような匂いが感じ取れて、一体この長いようで短い思考の旅の狭間にこの娘の中に何が起きたのだろうと、その移ろいに躊躇いつつ、小夜子の望む答えを己が口から導き出した。
小夜子は先ほどのガーゴイルの言葉を心の内で反芻していた。
−−−砂つぶの一欠片すら手放すものか。
それはまごう事なき愛の言葉であったけれど、今まで意識下で『愛情』と云うものを感受した記憶のない小夜子にはどうにも擽ったいような、それでいてどんな宝物でも叶いやしない、ほわほわとした温もりを持った出来立ての綿菓子のように、口に含むと緩やかに尾を引きながら蕩けて小夜子と交わりその身体に沁み入って来る魔法のようで、思い出すだに小夜子の胸の内をじんわりと暖かくさせた。
温度も湿度もない世界でこの身を暖かくさせるモノ。
小夜子の心に安堵と言う名の寝台を築き上げしモノ。
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