4 舞奈は、おまあっ! と叫びました。

 かわいらしい声と妙な声が、廊下に響いていた。


「もう、でにっしゅのばかっ! ぜ~ったい青っちに、変な子って思われちゃったじゃないのっ!」

『大丈夫。舞奈ちゃん、もともとおかしいから。げらげら』

「なっ!? あんた、ケンカ売ってんの?」

『べ~つに~。げらげら』

「むっきぃ~っ!」


 幸い廊下には舞奈たち以外誰もいなかったので、この腹話術のような言い争いを目撃されることはなかった。


『あ、舞奈ちゃん、このまま委員会室に行っちゃ、マズイんじゃない?』

 妙な声に、舞奈の足が止まった。

「そうだった。ヤバイヤバイ」

 そして、きょろきょろと辺りを窺う。

「うん、誰もいないね」

『散々わめいてたから、今さら感があるけどね』

「ぐっ」

 的確なツッコミに、舞奈は呻いた。

「そ、それより、どこかで着替えを……あ、ちょうどトイレが……」

『女の子のくせに、はしたないなあ舞奈ちゃんは。で、小さい方? 大きい方?』

「……あんたを流しに、ね」

 にこにこと鬼瓦は言った。

『や、やだな~、舞奈ちゃん。らしくない冗談は笑えないよ?』

「冗談じゃないから、笑えないのは当然」

 にっぱ~、と笑顔の狂い咲き。

『ま、舞奈ちゃん?』

 辺りに誰もいないことを再確認し、すばやくトイレに滑り込んだ。




『えぐえぐ』

「もう泣きやんでよ。さっきから謝ってるじゃない」

 漆黒のマントに身を包んだ舞奈は、駄々っ子をなだめていた。

『だっ、えぐ、まい、えぐ、ほんとに流そうと……うえ~ん』

 舞奈は早足をゆるめずに、ため息をついた。

「ごめんなさいって。でもね、でにっしゅが悪いんだからね。あたしだけならいいけど、青っちのこともからかってさ」

『う、う……ちょっと、水、ついた~』

「あ、それはほんとごめん。手、滑っちゃった」


 てへ、と舞奈。


『ただの水、ちが~う。便器のお、中のお、ひっく』

 びえ~ん、と再び泣き声が響いた。

 目深にかぶっているフードでその表情は窺えないが、彼女は困り果てているようだ。

「お願いでにっしゅ、もう泣きやんで。そろそろ委員会室なんだけど……」


 B棟屋上に通じる鉄製のドアを、申しわけ程度に開ける。

 傾きだした日差しが、漆黒のマントをオレンジに染めた。

 この時間になると感じられる冬の名残をはらんだ風が、今は心地よかった。


「よ~し! 今日の晩ご飯は、でにっしゅの好きなものにしてあげちゃうぞ!」

 舞奈は屋上にあるもう一つの扉、委員会室に通じるその前で、気前よく叫んだ。


 駄々っ子に対する最終兵器は、今も昔も変わらない。


 物で釣る。


 これである。


『まぐろの赤身っ!』

 大物、HIT! 入れ食いだ。

「ツナ缶じゃ、ダメ?」

 予想以上の好反応に、口もとをゆるめながら舞奈は聞いた。

『だ~め。新鮮なの以外認めない。それとね……』

「まだあるの?」

『当然』

 妙な声は、ニヤリとしているようだった。


『土下座』

「はあ?」


 緩んでいた舞奈の頬が、ひきつる。


「土下座は食べ物じゃないでしょう?」

『ふふふ……舞奈ちゃんの土下座をおかずに赤身を食べる……最高ね!』

「あんた、最低だよ……」

 委員会後にまだまだ話し合いは続きそうである。


 舞奈は緩慢な動きでセキュリティカードを読み取り機にかざす。ぴぴっ、と認証が完了し、ロックが解除された。それから真新しいドアを開け、新築独特の匂いがする建物に入った。


「星川さん、少々遅かったようですが、何をしていらしたのかしら?」

 美麗のつり目が、鋭さを増していた。

「す、すいません。クラスの用事でその、遅れました」

 フードを素早くはずし、舞奈は頭を下げる。

「クラスの、用事?」

 いぶかしむようなその声に、舞奈はピカピカの床を見つめたまま肝を冷やす。


『会長さん』

「っ!?」


 不意に響いたでにっしゅの声に、舞奈の全身からイヤな汗が噴き出した。

 何も今仕返ししなくてもいいじゃない?

 そう目が言っていた。


「何かしら、でにっしゅさん」

『じつは舞奈ちゃん……』


 はなはだ真剣なおかしな声は、もったいつけるようにためをつくる。

 祈るように舞奈は目をぎゅぎゅっとつむった。


『幼なじみのことで思い悩む哀れな男子生徒の話し相手になってたんだな。ま、下心チラチラで──』

「まあ! まあまあまあまあっ!」

 興奮気味の会長が、でにっしゅの言葉をさえぎった。

「ラブマスターとしてのお仕事をされていたんですのね! それならそうと仰って下さればいいのに!」

 舞奈の手を強く握ると、美麗は激しくシェイクシェイク。

「え、え?」

「会長、困惑している」

 目を白黒させるラブマスターを救ったのは、佳奈だった。

「はっ、し、失礼……」

 我に返った美麗は、彼女としては珍しくもじもじと俯いた。

「わ、わたくし、ラブのこととなるとつい興奮してしまって……」

「ラブにラブラブ」

「そ、相馬さん……そういう恥ずかしいことを、淡々と仰るのはやめて下さらない?」

 赤面まっしぐらな美麗のたしなめに、佳奈はこくりと頷いた。


「こほん。では、みなさん揃いましたので、本題と参りましょう」


 なんとか難を逃れた舞奈は、はああ、と息を漏らす。

 そして。


(ありがとう、でにっしゅ)

(なんのなんの。お礼は赤身増量でよいぞよ)

(で、あたしの下心がなんだって?)

(ん? 言ったかなあ、そんなこと)

(はい、しっかりと。あ~あ、ダシを取った後のにぼしって、おいしいのかなあ?)

(まま、舞奈ちゃん!?)

「星川さん、どうかなさいましたか?」

「す、すいません。なんでもありません」

 鋭い美麗の問いかけに、舞奈は姿勢を正した。

(や~い、怒られた)

(るさいっ!)

「ほ~し~か~わ~さ~ん~っ」

「ほんとにすいません……」


 反省顔を提示しつつ、舞奈とでにっしゅは、((い~っ、だ!))といがみ合う。


「腹話術、おもしろい」

 佳奈は二人? のやりとりがいたく気にいったらしく、無表情のはじっこにどこか楽しそうな雰囲気をにじませたようだった。

「もう、相馬さんも増長を招くような発言は控えて下さい」

 ため息まじりの会長はさらに続けた。

「それから星川さんとでにっしゅさんも、いつまでも小学生みたいにふざけない」


 佳奈は機械的に、舞奈はしょんぼりと頷いた。しかし、美麗のことなど実はなんとも思っていないような暴れん坊が一人? いた。


『誰が小学生だって? それを言うなら、おま──』

「きゃ~っ!?」

 当然さえぎるような舞奈の悲鳴が間髪入れずに響いた。

「おま、なんですって?」

 しかし、美麗にはしっかりと聞こえていたわけで。


 ギロリ。


『だ~か~ら~、それはおま──』

「おお、おまあっ!」


 ばかでにっしゅ! そう叫んでいるような、おまあっ! だった。


「そこまでかばうのでしたらいいですわ。星川さん、仰いなさいな。おま、何ですの?」


 その場に縫いつけられるような美麗の眼力に、舞奈はたじたじの涙目で対抗。


(もう、あんたのせいで、今日はこんなのばっかりなんだから)

(舞奈ちゃん、そんなこと言ってる場合じゃないよ。鬼瓦がにらんでるにらんでるぅ♪)

「るさいっ、黙ってて!」

「……それは失礼しましたわ」

「ああっ、ちが、違います。今のは会長さんに言ったんじゃなくて……」

 こめかみをひくつかせる美麗に、わたわたと両手をふり、舞奈は否定する。

「別によいのです、そんなことは。ただ……」

 桁外れのプレッシャーに、舞奈の喉が自然と鳴った。

「あなたの回答が、人前では憚られるような単語でないことを、祈っています」

「お、おおお、おお……」


 黒マントからのぞく舞奈のかわいらしい膝が、震えていた。

 濡れた視線は、せわしなく宙をさまよう。


「さあ、星川さん」


 会長の死の宣告にも似た催促に、そのつぼみのような可憐なくちびるが、ついに形を刻む。


「お、おまんじゅうリーチっ☆ てへ!」


 円形の部屋が、四角く凍りついた。


「……では、相馬さん。報告をお願いいたします」

「おまんじゅうは、つぶあんが好き」

「は? 相馬さん?」

「ん? 何?」


 噛み合わない会話に苛つく美麗。

 そこへ、例の二人がさらに追い打ちをかける。


『舞奈ちゃん、大スベリっ! 言うに事欠いて、おまんじゅうリーチっ☆ てへ! は、ないんじゃないかなあ? げらげら』

「あ、あ、あんたのせいでしょうがっ! こんのバカでにっしゅっ!」

 すぐに蜂の巣をつついたような喧騒が沸き起こった。


「あなたたち、いい加減になさい」

 美麗は言うより早く、舞奈たちの足もとへレーザービーム。


「あ、あぶな……」

「…………会長、あぶない」

 瞳孔が開ききっている舞奈に対し、佳奈は冷静に苦情を述べた。

「いつまでも騒いでいるからです。そんなことより、調査結果は出ているのですよね?」

 こくりとうなずき、佳奈は口を開いた。

「今朝のスカートめくり疑惑事件の主謀者三名を特定」

「さすがは相馬さんです。それで、どこのお馬鹿さんだったのかしら?」

 美麗の口もとが、いやらしく微笑んだ。

「今回の実行者は2-Bの藤代孝明。共犯者として同じく2-Bの青山三太、それと2-Aの山瀬康司」


「えっ!?」


 心臓を鷲摑みされたような衝撃に、舞奈は思わず声を漏らした。

 その顔はみるみる青ざめていく。


「そうですか。では、早速対策会議に移りましょう」


 しかし、舞奈の耳にその言葉は届いていなかった。

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