第36話 ホストメル侯爵領
ゼレムリャ侯はほぼ何の抵抗も無くホストメル侯の侯爵屋敷に足を踏み入れた。
侯爵屋敷と一言に言ってもレイアウトは様々である。
ただゼレムリャ侯は何度かこの屋敷に来た事があり、ある程度のレイアウトを把握している。
二階への階段を上り最初の部屋が応接室、その隣が侯爵執務室、そこから先は侯爵の家族の部屋である。
一階は執事たちの作業部屋と来客用の客間であり、一番奥に親衛隊の詰所がある。
ゼレムリャ侯は真っ直ぐ二階に上がりホストメル侯の家族を拘束しようとした。
ところがまるで物音がしない。
注意深く侯爵執務室の戸を開ける。
するとそこには血まみれの男性の遺体が転がっていた。
机の影に誰か隠れていたりしないか注意深く護衛たちと部屋に入って行く。
どうやら誰もいないらしい。
ほっと胸を撫で下ろし、改めてその遺体が誰かを確認した。
その遺体はホストメル侯の嫡男イヴァンであった。
ただし死後何日も経過している風である。
ホストメル侯には男児が二人いる。
嫡男のイヴァンと次男のセルゲイ。
セルゲイは先ほど、この屋敷を守ろうとして衆寡敵せず討死している。
ゼレムリャ侯の記憶では、イヴァンもセルゲイも子は女児のみであった。
つまりこの時点で亡きホストメル侯の血筋に後継者たる男児はいないという事になる。
ゼレムリャ侯は奥の家族たちの部屋に立ち入った。
部屋の中は山賊でも押し入ったのかというくらいにありとあらゆる物が散乱している。
リビングだけでなく寝室や子供部屋まで全ての部屋がその状態なのである。
その一室で二人の女性の遺体を発見した。
ホストメル侯の妻とイヴァンの妻である。
こちらも遺体は死後何日も経過している。
ここから推測される事は一つ。
恐らく何者かがイヴァン夫妻を殺害し侯爵位を簒奪した。
『何者か』
恐らくは先ほど戦死したセルゲイであろう。
だがこの状況である。
どう考えてもセルゲイ一人で発案して実行したとは考えづらい。
最も怪しい人物を問い詰める為、ゼレムリャ侯は二階の廊下を階段を挟んで反対側に向かった。
手前に会議室、その奥に家宰執務室がある。
その部屋の戸を開ける前にふとゼレムリャ侯の脳裏に疑問が浮かんだ。
考えてみたら、ホストメル侯の家宰を誰が務めているか知らない。
護衛に戸を開けさせ慎重に部屋に入ると、剣を構えた人物が、手足を縛られた女児二人を拘束してその首筋に剣を当てていた。
「近寄るな! 近寄るとこの娘たちの命は無いぞ」
家宰と思しき男が震える手で剣を女児に押し当てている。
「お、お前はイルピン! 何でお前がここに!」
男は小太りで頭も禿げ上がり、そろそろ老年に入ろうと言う人物である。
指には大きな宝石のついた指輪をはめており、いかにも羽振りの良さそうな人物である。
男の名はアンドリー・イルピン。
以前ホドヴァティ村の村長だった男である。
「裏切り者のゼレムリャ侯め! この守銭奴め! あれほど
ホドヴァティ村の村長として何度もゼレムリャ侯の侯爵屋敷に足を運び、麻薬や媚薬の販売で得た利益の分け前を献上しに来ていたのが、このイルピンだった。
思い起こせばホストメル侯を宰相に推奨して欲しいと高額の賄賂を持ってきたのがこの男であった。
あの時は、なぜホドヴァティ村の村長がホストメル侯の宰相選挙の応援なんかをしているのかと思ったものだが、なるほど、家宰になる事が決まっていたとすればそれも得心がいく。
殺せ。
ゼレムリャ侯は冷静に護衛に命じた。
「ふざけるな! この娘たちが見えないのか! 本当に殺るぞ!」
イルピンが剣を震わせたせいで首の皮が切れたらしく首から鮮血が流れた。
娘は恐怖で失禁し、絶叫をあげ、暴れて逃げ出そうとしている。
イルピンは、うるせえと叫び片方の娘の背に剣を突き刺した。
まだ人質はもう一人いるんだと震える声で言い、首筋に血の滴る剣を押し付けた。
「殺れ。どうせあの娘は助からん。構う事は無い」
娘が来ないでと騒ぐ中、護衛は一歩また一歩と近づいていく。
イルピンが娘を盾に剣を無作為に振う中、護衛は冷静に娘もろともイルピンに剣を突き立てた。
一方その頃、ソロク侯爵軍はオラーネ侯爵領との境に迫っていた。
ここまで西街道に伏兵を何箇所か伏せられていたが、侯爵屋敷へ進軍する時同様、一部の兵を切り離して一気に領土の境を目指した。
先ほどゼレムリャ侯爵軍がやったと同様に、ソロク侯爵軍は後続がある程度追いつた時点で領土境に陣取っていたオラーネ侯爵軍に突撃を行った。
ホストメル侯爵軍と対峙した時同様に、最初はソロク侯爵軍の方が数が少なく劣勢であった。
ホストメル侯爵軍との戦闘で数を減らしており、さらに劣勢だったと言っても良い。
突撃を命じたサラタ将軍は、すぐに後続が追いついてくるし、そうなれば初期の劣勢などいくらでも挽回できると考えていた。
ところが後続は追いついて来るものの、明らかにその早さは遅い。
侯爵屋敷での一戦と異なり、ゼレムリャ侯爵軍の先行部隊が侯爵屋敷の占領作業に入っていて来ていないのである。
オラーネ侯爵軍の兵も傷つき倒れている。
だが、その分ソロク侯爵軍も多大な被害を出している。
やっと戦力が上回り初期の劣勢を挽回した頃には、サラタ将軍は武器が折れ、満身創痍となって戦死した後であった。
領土境の戦況報告を受けたソロク侯は、電撃戦でオラーネ侯の侯爵屋敷を取り囲むという当初の予定を破棄し、一旦ホストメル侯の侯爵屋敷へと兵を引き上げた。
その日の夜、ソロク侯とゼレムリャ侯は、ホストメル侯の侯爵屋敷で今後の事について検討をした。
遠征軍として連れてきた兵のうち三分の一を失ったソロク侯爵軍と、元々数の少ないゼレムリャ侯爵軍で、オラーネ侯の侯爵屋敷を占拠した後、引き返して来る遠征軍を迎撃できるものなのかどうか。
するとゼレムリャ侯がワインのグラスをくるくると回しながら、そこまで危惧する必要は無いかもしれんと言い出した。
「ここまでずっと考えていたのだがな、果たして本当にホストメル侯爵軍とオラーネ侯爵軍は、スラブータ侯爵領から引き返してくるのだろうかな?」
戦況の話は全く入っては来ぬが、もし彼らが快勝しているのであればそのまま押してスラブータ侯爵領を占拠してから改めて取って返して来るのではないだろうか?
仮に彼らが不利なのだとしたら、なおさら戦場からは容易には撤退できないだろう。
引き返してくるとすれば、辛勝か惨敗かである。
ただ彼らが惨敗しているならばとっくに自領に戻って籠城の準備をしているはず。
とすれば帰って来るパターンは彼らが辛勝しているというパターンのみ。
そういう計算でヴァーレンダー公たちは自分たちを派遣したのではあるまいか。
そう説明するゼレムリャ侯にソロク侯はただただ関心するばかりであった。
「そういう事ならば、オラーネ侯の侯爵屋敷が落とせれば我らの任務の九割は終了だな」
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