第50話 教師
現状、プリモシュテン市の外部収入はエモーナ工業の港湾工事の収益のみである。
驚異的な財政赤字。
その大赤字をマーリナ侯、オスノヴァ侯、アルシュタに肩代わりしてもらっているという状況である。
それでも建物の建設費を差し引くとわずかだが黒字になるというのだから、いかにエモーナ工業が稼いでいるかが察せられる。
エモーナ工業の作業員たちは、現在、サモティノ地区ではなくプリモシュテン市に住んでしまっている。
妻と子供をサモティノ地区に残し、父親だけ単身でプリモシュテン市に住んでいるという人も多い。
そのせいか現在プリモシュテン市の男女比はかなり男性に偏っている。
というより、女性の多くは誰かの妻かエレオノラのような赤子という状況である。
一応、コウトの食堂に独身女性がいることはいる。
だが独身男性の方が圧倒的に多く、取り合いが非常に激しいことになっている。
そんなプリモシュテン市に独身女性が複数やってくることになった。
ビュルナ諸島で療養していた奴隷の女性たちが療養を終えやってくることになったのだ。
何かあった時のためと、ムイノク、イボットも一緒に帰って来ている。
アルディノ、ペティア夫妻、アルテム、ナタリヤたち。
アリョーナ、フリスティナたち。
麻薬中毒から回復した女性たち、奴隷として病臥に伏せていた孤児院の子供たち。
ドラガンは船から降りる懐かしい顔ぶれに感動が収まらなかった。
出迎えに来たアリサも涙が止まらない。
アルテムもナタリヤもアリサの顔を見るなり言葉を失い、崩れ落ちるように泣き出した。
アンジェラ、イネッサ、ダリアもまさかここに来てアリサに再会できるなんて思ってもいなかった。
三人とも泣きながらアリサに駆け寄って抱き着いている。
オレストもドラガンに抱き着きわんわん泣いている。
そんな感動の再会ではあったのだが、ポーレとザレシエは手放しでは喜べなかった。
「教師が要るな。それも早急に。学校はとりあえず工員宿舎の一室を使えば良いとしても教師は急務だ」
しかも彼らはこれまでまともに教育を受けていない。
その遅れを取り戻す必要もある。
そう考えたら、かなり熟練の教師に来てもらう必要がある。
できれば老練の教師が良い。
だがポーレですらそんな人物に全く心当たりが無かったのだ。
「最低限の教育がされへんと、今後街が発展した際に彼らが社会から弾かれかねないですもんね。どうします? またマーリナ侯に泣きつきますか?」
ザレシエの言い方は、できれば別の手段を取りたいという言い方である。
正直なところを言えば、ポーレもドラガンも、マーリナ侯の手ばかり借りるのもと思っている。
「とりあえずは私が代理でやりますわ。会計の仕事はボロヴァンさんが来てくれたから何とかなるでしょうし。ですけど、私だけでどこまでやれるかは……」
子供たちの人数はそれなりに多く、果たして自分一人でどこまでやれるのかとザレシエはため息を付いた。
翌週、エモーナ工業の輸送船に山賊たちに混じってとある人物が乗っていた。
その人物を見て、ポーレはげっと変な声を発し逃げ出そうとした。
「待たんか、デニス! どこへ行く気だ!」
今のプリモシュテン市の年齢層からは大きくかけ離れた、老人と言っても良い年齢の男性。
顔は精悍そのもの、鼻の下に立派な髭を蓄えているが加齢により真っ白に脱色している。
頭髪もまばらで、残った髪も真っ白。
だが背筋はピンと伸びていて、まだまだ元気溌剌といった風である。
隣には品の良さそうな老婆が侍っている。
恐らくは奥さんであろう。
「あの……ネヴホディー先生、どうしてこちらに?」
じりじりと後ずさろうとするポーレを、ドラガンとザレシエで両脇を固めて逃げ出せないようにしている。
ネヴホディーは、そんなポーレにずんずんと近寄って来る。
「誘拐された孤児院の子たちを追っていたらここに辿り着いたのだよ。まさかデニス、お前が仕組んだことだったとはな」
どなたですかと尋ねるドラガンに、ポーレはすこぶる嫌そうな顔をし、昔の担任だと吐き捨てるように言った。
――ペトロー・ネヴホディー。
かつて神童と噂されたポーレ、その神童を誰が教育するんだとエモーナ村の学校は大いに揉めることになった。
辺境伯の家宰になる予定の者への教育である、失敗は許されない。
当然のように誰も手を挙げなかった。
だがその中で、たった一人手を挙げたのがネヴホディーであった。
当初ポーレは、ネヴホディーが功名心から手を挙げたのだと思っていた。
だが実際に授業を受けたポーレはそうではないことをすぐに察した。
疑問を口にすると、ネヴホディーは答えを教えず調べる方法を教える。
「その内お前の疑問は誰も答えられなくなるだろう。だから、その際にどう答えを導くべきか、それを私は教えるから後は自分で考えなさい」
だがそんな教育方針に、ネヴホディーの周囲はもっと教育に集中させるべきと何だかんだと口を挟んできた。
教育が始まったわずか半年後、学校の校長はポーレを別の生徒から隔離することにした。
遊んでいる暇など無いというのだ。
子供には遊びから学ぶことが無限にあるとネヴホディーは猛烈に反対したのだが、校長も他の先生も聞く耳を持たなかった。
当初は大人しくいう事を聞いていたポーレだったが、次第に反発するようになり、ある時から教室に来なくなってしまった。
来なくなる前日、ネヴホディーは校長たちとポーレの教育方針を巡って激しく意見を対立させた。
そんなネヴホディーに、ポーレは帰り際、先生の悩みを解決してやると笑ったのだった。
結局ネヴホディーはポーレの担任から外されることになった。
だがポーレは代わりの先生を全て拒絶。
難しい質問を繰り返し、何で答えてくれないんだと教師を追い詰め、教師の方から担当を外れたいと言わせた。
最終的に校長は村長と共に辺境伯の屋敷へ行き、ポーレの教育の失敗を報告したのだった――
そこからネヴホディーは教師も辞め、妻と二人どこかに移り住んで余生を過ごしていると聞いた。
「い、今までどこにいらしてたんですか? 完全に姿を消してしまって。し、心配してたんですよ?」
明らかにポーレは動揺し、笑顔も引きつっている。
「ロハティンだよ。そこで様々な理由から教育を受けられない子たちに教育を施していたんだ。教育が漏れればその子は犯罪に走るしかなくなるからな」
だがロハティンで孤児院が公安に襲われ子供たちが連行されるという事件が起こった。
ネヴホディーは志を同じくする人物と二人でその子供たちの行方を追っていた。
恐らくは目的は奴隷にするためだろうからと推理し捜索していた。
するとどうだ。
その子たちはアルシュタの船に乗せられ、プリモシュテンという場所に連れていかれたというではないか。
恐らく大規模な奴隷購入があったのだろうと、もう一人の教師を残しネヴホディーはその子供を追ってスラブータ侯爵領に行きエモーナ工業の船に乗り込んだのだった。
「まさか孤児の行方を追って、かつての教え子の名を聞くことになるなんて夢にも思わなかったよ。デニス」
逃げ出そうとするポーレを必死に掴み留め、ドラガンとザレシエはネヴホディーに事情を説明した。
二人の必死の説明に、ネヴホディーは自分の推理が誤解であることを理解した。
「ほうほう。そうであったか。良いだろう。その役目、私が引き受けようじゃないか」
異論は無いなと聞くネヴホディーに、ポーレはすこぶる嫌そうな顔をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます