第57話 治安
ヴァーレンダー公の家宰ロヴィーに呼ばれ、ザレシエは一人総督府へと向かった。
ザレシエはてっきりヴァーレンダー公に呼ばれたのだと思っていた。
だがそうではなくロヴィーが招いたらしい。
ロヴィーは執事に湯を持って来てもらい紅茶を淹れると、ザレシエに差し出した。
ロヴィーはアルシュタ産の紅茶が非常に気に入っているらしい。
紅茶を飲みながら、暫く昔話を語った。
ロヴィーが家宰になって、最初の課題は大規模な財政赤字であった。
街の収入が軍の運営金以外にほとんど無く、その一方で移民が増え、社会保障費が増額の一途をたどっているのだから当然と言えば当然である。
アルシュタは当初は軍港として整備された町でしかなかった。
その後、海軍拠点になった。
何倍にも住人が増え続けたというに、ここまで抜本的な経済政策は一切打ってこなかったのだからそうなるのも当たり前だろう。
財政赤字の解消の方法など古今二つの方法しかない。
収入を増やすか支出を減らすかである。
増え続けると言っても社会保障費を削る事は現実的では無い。
それは市民の不満に直結し、いづれは暴動になる。
もし軍人に背かれでもしたら、軍事都市であるこの街は終わりである。
であれば収入を増やすしかない。
収入を増やす方法も古今それほど手段が多いわけでは無い。
増税か産業振興かである。
どこかのアホ辺境伯ではないが、安易に増税などしてもそんなものは一時的に税収が増えるだけに過ぎず、すぐに経済活動に支障をきたし税収は落ちてしまう。
であれば方針はただ一つ。
産業振興しかない。
街の様子を視察に行き、社会保障費に負担をかけているのが移住してきた亜人たちである事がある程度見えてきた。
人間たちに比べ学の無い彼らは、とにかく働き場所が圧倒的に不足している。
仕事が無ければ食事にも事欠く事になる。
当然そうなれば犯罪に走る事になる。
そこで、彼らに何か学が無くてもできる仕事を与えられれば、多くの問題は解決するのではないかと考えた。
そこで、当時アルシュタの周囲に広がっていた荒地を開拓する事にした。
開拓地は畑として活用する事にしたのだが、いかんせんロヴィーには農業の知識が無い。
そこで、サモティノ地区から技術者を借りて大麦とお茶の栽培にこぎつけた。
土地の差なのかアルシュタの茶は緑茶での飲用に向かず、少し寝かせて紅茶に加工したら各段に美味しくなった。
今、ザレシエが飲んでいる紅茶は、その最初の大事業の成果なのだ。
「カーリク様たちはどんな感じですか? その……帰るなどと言い出してはいませんか?」
ロヴィーの言葉にザレシエは無言で紅茶を口にした。
無言。
この場合は言い出していると言っているのと同じ事だろう。
「私はね、カーリク様に家宰を代わってもらおうと考えていたんですよ。私とあなたが補佐について、三人で公爵閣下を盛り立てていけたらってね」
そこまで言ってもザレシエはまだ黙っている。
ドラガンではなく自分だけが呼ばれた。
恐らく最後の説得だろうとザレシエも感じていたのだった。
「あなたたちも味わったように、この街の治安は最悪です。それでも私が来た頃に比べれば劇的に良くなったのですよ。憲兵隊を独立させ、取り締まりを強化し、罪には厳罰を持って当たる。当たり前の事を徹底させる事でね」
だが未だにこの体たらく。
そう言ってロヴィーは首を何度も小さく横に振った。
「何か良き案は無いものだろうか? 何、重く考える事は無い。もちろん私が最終的にしっかりと判断して殿下と相談の上で取捨を決めるから」
突然助言と言われても残念ながらザレシエもすぐには思い浮かばない。
「今回の件、原因はどこにあると考えてるんです? それがわかるんやったら、それに対処したら良いだけやと思うんですが」
そう言うのが精一杯だった。
ロヴィーも憲兵総監のヴォルゼルから報告は受けてはいる。
だが、およそ納得のいく報告では無かった。
『この街の民の根底にある亜人への偏見』
ヴォルゼルがそれを言い訳に使った時、ロヴィーはぶん殴ってやろうかと思った。
憲兵隊のトップが部下からそう言われてそれに納得したという事である。
それは仕方がない事と。
考えてみれば憲兵隊は全てが人間で亜人は一人もいない。
恐らく歴代の憲兵総監が、亜人は学が無いから高度な治安維持には不向きだとでも考えたのだろう。
海軍の一部であった時は百歩譲ってそれでも良かったのかもしれない。
だが正式に総督府直属となったからにはそれでは困るのだ。
「憲兵隊の組織の上層に亜人がいない事が問題ではないかと考えています。それは総督府にも言える事ですがね。プラマンタを採用した時も執事の中からそれなりに反発はありましたからね」
ため息交じりにロヴィーが言うと、ザレシエは飲んでいた紅茶のカップを机に置いた。
「エモーナ村に帰って来たカーリクさんがアルシュタに戻らなあかんと言うた時、私は即座に付いて行く言いました。その時カーリクさんは何て言うたと思います?」
ザレシエは膝の上で両手を絡めロヴィーに問いかけた。
「以前からご友人だったのですよね? 喜んだんじゃないんですか?」
ロヴィーの言葉にザレシエは静かに首を横に振った。
「『君が来ても不愉快な思いをするだけやから来へん方が良い』。この街への滞在は、わずか数日やったはずです。たったそれだけの期間でそう思えるだけの体験をしたんやと思うんです」
であれば、もう偏見はこの街の文化と言っても過言ではない。
文化慣習を変えるというのは、法整備などでどうこうなる問題ではない。
無理に変えようとすれば、反対に亜人は面倒な存在と思われ排除する動きが出かねない。
それがザレシエの回答だった。
この時点でロヴィーはザレシエの説得を完全に諦めた。
ザレシエの回答は、エルフである自分はこの街には住めないと言っているようなものだからである。
そして同様にドラガンの繋ぎ止めも完全に諦めた。
「ザレシエ殿なら、この状況どうしていきますか? あなたも、いづれは他人事では済まなくなるかもしれませんよ?」
ロヴィーの質問にザレシエは無言で考え込み、残った紅茶を飲み干した。
そうですねえと言ったまま、また暫く考え込んだ。
「憲兵総監と裁判長、それと家宰、総督の四人で定期的に意見のすり合わせをします。当然、意見の差異は出るでしょう。ですけど根底ですり合わせができてれば、それで治安方針は固まるんやないかと」
ゆくゆくはその中に亜人が含まれるのが理想。
家宰であるロヴィーが亜人の地位を上げたいと望むならそう三人と意見をぶつけ合えば良い。
今回の件でもそうだが、問題点というのは内だけを見ていても中々わかるものではなく、外から見ている人の意見を聞く事で明るみになる事もある。
ザレシエの案にロヴィーはなるほどと頷いた。
「ですが、かなり時間がかかりますね」
ロヴィーの指摘にザレシエは鼻で笑った。
「文化慣習になったものを変えるんは容易ではありませんよ。それにすり合わせも時間がかかるのは最初の頃だけで、そのうち問題が発生した時だけ開催でも問題無くなりますよ」
これだけの人材をみすみす手放す事になるなんて。
惜しい、実に惜しい。
ロヴィーは悔しがった。
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