第19話 ペティア
早くアルシュタに行かないと嵐になるかもしれない。
艦長が焦った顔でドラガンたちに報告した。
朝から海は荒れていたのだが、夕方から雨が降り始め少し風も出てきている。
少しの雨なら降り出す前にここまで風が吹いたりしない。
恐らくこれは嵐だと艦長は言った。
嵐になればその後は暴風。
そうなれば海は大時化となり、もはや静まるまで航行は困難となる。
残念ながら今は冬場で陽が短い。
そこで、今から一旦沖に出て完全に暗くなるまで全速で竜を泳がせ、早朝からまた全速で泳がせる。
それで何とか嵐の前にアルシュタに着けると思うがどうかと相談してきた。
艦長の不安材料はただ一点、ベアトリスの体調である。
もしかしたらザレシエも耐えられないかもしれない。
ドラガンとアルディノは、ザレシエにどうすると尋ねた。
ザレシエは、その間自分も網で寝ているのでよろしくお願いいたしますと決死の表情をした。
艦長はこくりと頷くと、急いで食堂を出て慌ただしく船内に命令をして回った。
そこから数時間、船は揺れに揺れた。
ザレシエどころかレシアまで気持ちが悪いと言って寝込んでしまった。
ドラガンは大きく揺れる船内で、ベアトリスとレシア両方の様子を見てまわった。
さすがにペティアは海の民サファグンだけあって、どれだけ船が揺れても全く平気だった。
外は荒天で満足に絵も描けない。
他の女性二人は寝込んでいる。
それをペティアはドラガンと親密になる良い機会と感じたらしい。
飲み物を用意し、ドラガンに絵を見て欲しいと言って自分の船室に連れ込んだ。
ドラガンは技術的なアイデアは出るのだが、芸術方面はさっぱりだったりする。
正直、絵を見ても綺麗な絵だねくらいの感想しかなかった。
ペティアはそれが意外だった。
漆工房の救世主、サモティノ地区に漆細工という芸術を広めたドラガンである。
てっきり芸術にも造詣が深いものと勝手に思い込んでいた。
だが学生時代からドラガンには芸術の才が全く無かったらしい。
学校の授業で動物の絵を描いてくるようにという授業があった。
ドラガンはアルテムやゾルタン、ナタリヤと一緒に竜舎に竜の『オレン』を描きに行った。
教室に戻り三人はザバリー先生に絵を提出。
ザバリー先生はドラガンの絵を見て明らかに笑いを堪えた顔をし教室に暫く貼っておくからと告げた。
アルテムはそこまででは無いが、ゾルタンは中々に上手に描けていた。
ナタリヤはドラガンたちより年少な為、まあこんなものかという程度。
問題のドラガンの絵だが、わずか一日しか教室には貼られなかった。
既に貼った時点から生徒たちは爆笑だった。
そもそもこれは生き物の絵なのかと言って、アルテムとゾルタンは大爆笑だった。
その後、ドラガンの絵がどうしても目に入って授業に支障が出ると言ってザバリー先生が剥がしてしまったのだった。
「何それ。どれだけ酷い絵じゃったんよ!」
ドラガンは大真面目に竜を描いただけである。
だが皆、伝説の怪物だの、昨日見た悪夢に出てきただのと言い合った。
一番小さい子の中には、怖いと言って泣き出す子も出る始末だった。
ペティアはお腹を抱えて笑い出した。
ドラガンはペティアに、いつから絵が上手なのかと尋ねた。
絵が上手。
最初に言ってくれたのは六年ほど前に亡くなった母だったと思う。
幼い頃紙に何かを描いていて、そう母に褒められた記憶がある。
ただそれは世の母親なら皆そう言うであろう。
だが恐らくそれに気を良くしたのだろう。
ペティアはその後も暇さえあれば絵を描いていた。
学校に通い始めて四年目の時、『父の絵』というお題で先生に褒められた事がある。
だがペティアは素直には喜べなかった。
何故ならペティアの父は前年に漁の事故で亡くなっており、生前の記憶を頼りに描いた絵だったからである。
先生もその事は十分承知している。
ペティアを呼び出し絵を見せて先生はペティアに言った。
「人は誰しも、いづれは亡くなるんだよ。だけど見てごらん。君の父さんはこうして絵の中で生き続けている。それは君が綺麗に絵として仕上げたからなんだよ」
そう言われてもペティアは、父の絵など描きたくなかったと心の中で反発していた。
描いたがばかりに亡くなった父の事をどうしても思い出してしまい切ない気持ちになってしまう。
ペティアはその絵を母親に見せた。
すると母親はその絵を見てポロポロと涙をこぼした。
母は父の名を呟き、服で顔を隠して泣き出した。
その姿を見たペティアは母に、ごめんなさいと呟くように謝った。
母はどうして謝るのとペティアに尋ねる。
ペティアは素直に、私の描いた絵のせいで母さんが泣いたからと答えた。
母はそんなペティアをぎゅっと抱きしめ、そうじゃないと言った。
あなたのおかげで父さんにもう一度会えて母さん嬉しいの。
その絵は母が父の霊前に供えた。
それからというもの母は何かあるとその絵を見て心を癒していたらしい。
母が亡くなった時、父の絵はボロボロになっていた。
「そこからかな。私にゃあ絵の才能があるんじゃ思うてね。それからデザインの仕事で食べていくって決めたんよ」
ふとドラガンに疑問が浮かんだ。
確か以前、サモティノ地区ではデザインでは食べていけなかったという話を聞いたことがある。
ペティアは、その時はまさかデザイナーがごく潰し扱いされているなんて知らなかったのだそうだ。
だから昼間に絵を描き、夜になったら酒場で給仕をして日銭を稼いでいたのだとか。
その酒場に来たお客様から、コザチェさんという凄腕のデザイナーがいるという噂を耳にした。
尋ねてみるとデザイナーではなく漆職人でがっかりした。
だがコザチェは、工房に昔のデザイナーが書いたデザイン画があると言って見せてくれた。
聞けばペティアは両親が無く一人暮らしだという。
ならばうちで面倒を見てあげるからデザインの勉強をしたら良いとコザチェは言ってくれたのだそうだ。
そこまで言うとペティアは、ドラガンに少しだけ近寄り体を密着させた。
胸の膨らみがドラガンの腕に当たって、ほんのりと体温を感じる。
その柔らかな感触にドラガンは言葉が出なくなり体を硬直させた。
ペティアはその端正な顔を少し赤らめドラガンに近づけ、その透き通るような声で囁くように言った。
「全てドラガンのおかげじゃ。感謝しとるよ」
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