第三章 雌伏

海府アルシュタ

第1話 あれから

 ドラガンを乗せた『バハティ丸』は遠い海の上を漂っていた。

甲板から見える景色は四方全てが海。

見渡す限り水平線しか見えない。


 船を曳いていた竜は既におらず、舵も壊れた。

この状態になってから、もう何日も経過している。

食べ物もここ数日は魚しか口にしておらず、限界は皆とっくに突破している。




 ――話は出発の数日前に遡る。


 街道警備隊の侵攻を迎撃したあの一件の後、予想していた通りサモティノ地区は竜産協会から頻繁に嫌がらせを受けるようになった。

ただマーリナ侯にも街道警備隊侵攻の報は入っており、以前から聞いていた竜産協会の嫌がらせに対処するように、執事をドゥブノ辺境伯とユローヴェ辺境伯の屋敷にそれぞれ派遣していた。

何かあったらすぐに報告するように、辺境伯の家宰たちもそう各村々には通達していた。


 すると出るわ出るわ。

どの村も、竜は売らない飼料は売らないなど嫌がらせの数々。

それを各村は全て辺境伯の屋敷に報告した。

それをまとめ上げ、執事はマーリナ侯に定期的に送付した。

あまりの量にマーリナ侯も怒りを通り越して呆れ果ててしまった。


 マーリナ侯は書をしたため、船を出し執事の一人キドリーに海府アルシュタへ急行してもらった。

キドリーは現状をアルシュタ総督に訴えた。



 アルシュタ総督であるヴァーレンダー公も、先の街道警備隊の狼藉は報告を受けている。

しかもそれだけでなく、敗北し、ほとんどが戦死したという話まで聞いている。

だが、数に勝る街道警備隊が、どうしてそうまで一方的な敗北を喫したのか疑問に感じていた。

こっそり執事に調べさせると一人の人物の名前が挙がった。


 ドラガン・カーリク。


 どうやらこの人物を引き渡してもらおうとして、街道警備隊はサモティノ地区と激突することになったらしい。

最初、ヴァーレンダー公はどこかで聞いた名だとは思ったが思い出せはしなかった。

調べていくと例のロハティンの竜盗難事件の最重要参考人であることが判明。

そこでやっと、以前ボヤルカ辺境伯が引き込みたいと言っていた人物である事を思い出した。


 ここで手を差し伸べておいて損は無い。

ヴァーレンダー公はキドリーに、自分の添え状を書いて渡した。



 それを持って、キドリーは王都アバンハードへ向かった。

キドリーはアバンハードにある竜産協会の本社へ行き、事務長のペレピスにマーリナ侯の書簡を見せ、サモティノ地区への嫌がらせをただちに辞めよと命じた。

何を証拠にとペレピス事務長が鼻で笑うと、キドリーはサモティノ地区の各村々の訴えの書かれた書面を見せた。

それでもなおペレピス事務長は、そのような事実が本当にあるのかどうか調査をすると面倒そうに言っただけであった。


「これは本当は見せたくなかったのだが、そちらがそのような態度を取られるのであればやむを得ませんね」


 そのペレピス事務長の態度に憤慨したキドリーは、ヴァーレンダー公の添え状を事務長に手渡した。

ペレピス事務長は添え状を読みながら手を震わせた。


「……貴殿はこの中身を知っているのか?」


ペレピス事務長は震える声でキドリーに尋ねた。

キドリーは首を傾げ、中身までは把握していないと答えた。


「そうであろう……知っていたらそんな涼しい顔はできないだろうからな……」


 ペレピス事務長はヴァーレンダー公の添え状を握りしめて項垂れた。


「営業に不手際があったことは謝罪する。なにとぞ万事穏便にお願いしたい」


 ペレピス事務長は小刻みに体を震わせキドリーに深々と頭を下げた。



 それを境に、サモティノ地区への嫌がらせは表面上はぴたりと止んだ。

だがそれでも小さな嫌がらせは続いた。

恐らくは組織として通達が来ても、営業が個人的にやっているのだろう。


 ユローヴェ辺境伯は村々に、見つけ次第拘束して悔い改めさせて構わないと許可を出した。

もし抗議が来たら、うちは漁師の村だから皆気が荒いと言い訳すると。

結局、数人が『悔い改め』させられ小さな嫌がらせも止む事になった。




 こうしてサモティノ地区に以前と変わらない平穏が訪れた。

少なくとも多くの人はそう感じた。


 先の戦闘で略奪を受けた村々は、二月ほどで無事復興される事になった。

これにはサファグンの全面協力があった。

サファグンは、それまで一グリヴナにもならなかった貝殻を買ってもらえる事になったのだから、そのお礼だと言い合っていた。



 ユローヴェ辺境伯の屋敷で怪我の療養をしていたマチシェニは、一人で歩けるくらいまでには回復。

プラジェニ母娘も精神的に回復して三人でエモーナ村に移住する事になった。


 そんなエモーナ村ではアリサがお産の日を迎えていた。

最初ポーレは、出産に立ち会った方が良いんだろうかなどと言っていたのだが、ポーレの母から、お前にできる事は何も無いと、きっぱりと言い切られてしまった。

出産当日、ポーレはすぐにドラガンを呼びに行った。

それを見たポーレの母は、ドラガンの前に産婆を呼んで来いと怒鳴った。


 産婆を呼んだ後は、何をしていいかわからず家の中をうろうろしていた。

それにアリサが気を取られてしまったらしい。

産婆から暇なら外で湯でも沸かしてろと叱責され、ドラガンと二人で台所に行き竈に薪をくべお湯を沸かした。

だがどうにも落ち着かないらしく、自宅の周りをドラガンと二人でうろちょろうろちょろしており、近所のおばさんに大笑いされていた。


 家の中から赤子の鳴き声が響くと、ポーレとドラガンは抱き合って喜んだ。

急いでアリサの元に向かうと、アリサは布団でぐったりしていた。

髪は乱れべったりと汗をかいている。

ポーレは妻の汗を丁寧に拭き取ると、よく頑張ったねと言って微笑んだ。

アリサは疲労でそんな雰囲気ではなく、ただ、しんどかったとだけ呟いた。


 生まれた子は女の子でエレオノラと名付けられた。



 冬が過ぎ、春になり、エレオノラが生後半年を迎えたところで、教会で神の加護を受ける儀式を行う事になった。

エレオノラは、デニスとアリサの娘という村で最も有名な娘である。

教会にはその姿を見守ろうという人たちで溢れかえっていた。


 儀式が終われば当然呑み会。

これはもはやサモティノ地区の定番である。


 この儀式の翌日からその年の遠洋漁業が開始される事になった。

出立の前の日、ドラガンはエレオノラに会いに行った。

ドラガンは何だか妹ができたみたいで、生まれてからやたらとエレオノラの様子を見に来ている。

あの人よりあなたの方がこの娘の顔を見てるんじゃないのとアリサがからかうくらい、ドラガンはエレオノラを溺愛していた。

暫くエレオノラの顔が見れないのが寂しいと言うと、いい加減にしろとアリサから怒られてしまったのだった。



 こうしてドラガンは後ろ髪を引かれる思いで遠洋漁業に出港した。

出港するまでは誰も、あんな事になるだなんて予想だにしていなかった。

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