第36話 櫂

 翌日からドラガンの漁師としての生活が始まった。


 仕事は『日出操業』と地区全体で決められている。

網などの目の大きさも決められていて、獲って良い大きさも厳しく制限がされている。

托卵期はメスは採っても放流など、規制は多岐に渡っていて実に厳しい。


 漁の仕方は各漁師によって異なっている。

網を仕掛ける者、船で網を曳く者、仕掛けを沈める者、竿で釣り上げる者、様々である。

貝を採る者は浅瀬に半身入って籠の付いた棒を揺すっているし、近海に素潜りしてカキやアワビを採る者もいる。

各人その日の漁が終わると市場に収穫したものを競りに出している。


 市場は人間とサファグン共有で、加工工場や料理人が集まって競りを行っている。

魚屋も競りに参加している。

村民の多くが何かしらで漁業に携わっているとは言え、農業に従事している者や、酒造や畜産業を生業にしている者など漁業と関わりの無い者も多くおり、そういった者のために何件も魚屋が存在しているのである。



 ドラガンがお世話になっているサファグンのテテヴェンさんは刺し網漁師である。

夕方、小型船を人力で漕いで浅瀬の良い漁場まで行き、小さな重りと浮きの付いた網を流し入れていく。

刺し網を行っている漁師は他にも何人かいて、場所の取り合いにならないように大まかに各人で範囲を決めているらしい。

刺し網漁師は全員がサファグンである。

一方で人間も同じような場所を漁場としていて、こちらは定置網漁をしている。

その為、両者は諍いになることが多いのだとか。

刺し網は夜、定置網は昼と漁の時間が違うのだから、傍から見たら揉める必要は無いと思うのだが、当事者は中々そういうわけにはいかないらしい。

あまりに激しく揉めると、首長と村長に対処が委ねられることになる。

大抵の場合は頭ごなしに叱られ、漁場変更処分がされる。

ただし、一方にあからさまに咎があれば、最悪の場合漁業権剥奪となり生活の術を失うことになる。


 『揉めるだけ損』そういう風にお互いに思わせることで揉め事を収めているらしい。




 漁師として船に乗り込んだドラガンだったが、かいを漕ぐ、ただそれだけの事も難しくてできなかった。

何度も手本を見せてもらい、手を取って教えてもらうのだが、なかなかどうして一人でやると思ったところに船が進んでくれないのだ。


 船尾に長い棒が一本乗せられているだけで、それを手前に奥にと動かすのだが、これがとにかく難しい。

何もなければ真っ直ぐ進ませることはそこまで難しくはないかもしれない。

だが、海には波もあれば潮の流れもあり風も吹く。

ドラガンはまだ漕ぐ力が弱いので、潮の流れや風に負けてしまうのだ。


 ドラガンが四苦八苦している間、テテヴェンは網から魚やカニを外して船外に垂らした『びく』に入れていく。

テテヴェンは見た目に反しかなり気の長い人物で、そんな事では魚が腐ってしまうと笑っている。

それでも船が進まないと、ついには網の掃除を始めてしまう。

それも終わると、しょうがねえなあと呆れ顔で船漕ぎを代わってくれる。

ドラガンにとってはこれがなんとも言えない屈辱であった。


 今日も何の役にも立たなかったと、がっかりしながら昼に合わせて家に帰る。

豆だらけの手に軟膏を塗っているドラガンを見て、スミズニーは、まだ櫂も漕げないんだってなと大笑いする。

スミズニーも豪快な性格のわりに面倒見が良く、どこからともなく棒を持ってきて、こうやって動かすんだと教えてくれる。

それを翌日試すのだが、実際にやるとやはり上手くいかないのだった。


 そんなこんなで、やっと多少なりとも櫂が漕げるようになったのは半月後の事だった。


 テテヴェンは人の褒め方が実に上手い。

少し櫂が漕げるようになると、おお、やればできるじゃないかと褒めてくれる。

だがそこからは上達してもちっとも褒めてくれない。

むしろ、どっちに行こうとしているんだと叱られる。

すみませんと謝ると、謝らなくて良いから櫂を漕げと叱られる。


 こうして一月が過ぎる頃には、完璧に櫂が漕げるようになっていた。

初めて真っ直ぐ漁場に向かい網を引き揚げ、魚を外し終わる前に港に着いた時、テテヴェンはやっと櫂を漕ぐのが上手になったじゃないかと褒めてくれた。

ドラガンは思わず嬉しさで涙が溢れ出た。

テテヴェンも貰い泣きし、どんなことでも諦めなければやれるようになるんだよとドラガンの背を叩いた。


 その頃、既にムイノクとエニサラは冒険者として仲間と一緒に狩りに出ていたし、ザレシエは船大工として事務をしながら先輩たちの作業を手伝っている。

コウトにいたっては自分の店を運営し繁盛させている。

ドラガンは、自分だけが未だにまともに仕事ができていない事に引け目を感じていたのだった。

だが、やっと一人前に船を扱うことができ、皆に少し追いついた気がした。




 そろそろその年も終わろうというある日の事、ドラガンはアリサの呼び出しを受けた。

夕日がこれから沈む準備に入ろうという時刻であった。


 アリサはドラガンと赤々とした砂浜が一望できる松林の端まで歩いた。

何も言わず、ただちらちらとドラガンの顔を見ながら砂浜に向かって歩いていく。

急に立ち止まるとアリサはドラガンの方に振り返った。


「ねえドラガン。私ね、結婚することにしたの」


「そうなんだ。おめでとう」


 顔を真っ赤にして意を決した感じで言うアリサに対し、ドラガンの反応はあまりにも冷めたものだった。

その反応がアリサにとっては面白くなかったらしい。


「ええ? それだけ?」


「それだけって他に何かあるの?」


「いや、ほら、相手は誰なのとか、いつするのとか」


 明らかに二人の間に温度差があるとアリサは憤っている。

自分の気の昂りと同じように、ドラガンにも昂って欲しいのだ。


「誰なのも何もポーレさんでしょ?」


「まあ、そうなんだけどさ……」


「逆にそうじゃなかったらびっくりだよ」


 アリサはそんなドラガンの態度に、生意気な口だと言って頬をつねった。

ドラガンは痛い痛いと言いながら笑い出す。


「むしろ随分かかったなって思った。何かあったの?」


「色々とね。ほら、私、再婚じゃない。その上別の地区の生まれだから、それを懸念されちゃってね」


 デニスは一人息子である。

しかも、有事の際先頭に立つ事が決まっている。

そんなデニスの嫁として、果たして流れ者のアリサが相応しいのかどうか、ポーレ家でも少し揉めたのだそうだ。


「でも、納得してくれたんだね」


「やっとね。お父様は最初から納得だったのよ。だけど、お母様がね……」


「ふうん。結婚しても、お姑さんとあまり喧嘩しないようにね」


 アリサはぶすっとした顔をすると、本当に生意気なことを言うようになったわねと、またドラガンの頬をつねった。

ドラガンはまた、痛いよ姉ちゃんと言って笑った。


「で、いつ結婚するの?」


「年が明けたらすぐに。私の方は身寄りが無いから、お父様が親族に立ってくれることになったの」


 結婚の事を興味を持って聞いてくるドラガンに、アリサは気恥ずかしさを覚える。

ドラガンにとっては、何をそんなにもじもじとしているのかよくわからなかった。


「そうなんだ。結婚の衣装はどうするの?」


「そっちはお母様の嫁入りの時のを貸してもらえることになったわ」


 ドラガンはアリサの最初の結婚のことを思い出した。

あの時、アリサは母の編んだレースを頭に被り、母の家に伝わる白のドレスを身にまとっていた。

だがあのドレスは、恐らくベレメンド村と共に失われてしまっている。

そう考えると、改めて自分たちの置かれた境遇を惨めと感じるのだった。


「なんだかポーレさんに頭が上がらないね」


「ほんとね。でもねドラガン。私が結婚しても、あなたが家族であることには変わりないんだからね。それだけは忘れないでね」


 当たり前じゃん。

そう呟いたドラガンの声を波の音がかき消した。

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