第2話 泥水

 竜舎の掃除が終わった後、アリサとドラガンは井戸で手を洗い水桶を持って台所に向かった。


 アリサは地面の一部を掘り下げて作った野菜入れから野菜を取り出し、空の桶に無造作に放り込むと、ドラガンの顔を見てニコリとほほ笑んだ。

井戸に行ってお野菜の泥を洗い落としてきてねとお願いした。



 ドラガンは言われた通り、野菜の入った桶とブラシを持って井戸へと向かった。


 釣瓶桶を井戸に落とし水を汲むと、野菜の入った桶に入れる。

ジャガイモの泥をブラシでこすって落とす。

すると桶の中の水は泥で茶色に濁った。


 一体どういうことなのだろう?

ドラガンはじっと泥水を観察した。


 地面の土を少し手に取ると、土は非常に小さな粒ということはわかる。


 水を吸った土は色が付いている。

水に土が溶けると水に色が付くのだろうか。


 だとしたら、いつも母さんたちがやってるように井戸の周りに水を捨てると、井戸水は濁ってしまうはず。


 ドラガンは水を捨てようとジャガイモの入った桶を手にした。

ところが、先ほどあんなに濁ってた水が少し透明に戻っている。

そのままじっと観察していると、桶の水は徐々に透明になっていった。


 実に興味深い!


 ゆっくりと水を捨てると、桶の底には薄っすらと土が残っている。


 母さんたちは、毎日井戸まで来て野菜の泥を落としているが、もしかして泥を落とすだけなら、瓶に水を貯めてそれで洗えば良いのでは?

定期的に底にたまった泥を洗うだけで大丈夫なんじゃないだろうか。



「ドラガンどうしたの? 暑いから気分でも悪くなったの?」


 あまりにドラガンの戻りが遅く、アリサは心配して様子を見に来たのだった。


 ドラガンは汗を流し水桶を前にじっとして動かない。

桶を見ると野菜は一切洗えていない。

もしかしたら体調を崩したのかもとアリサは心配した。


「ねえ姉ちゃん。よくみんな、ここで水を捨ててるけど、井戸水が濁ったりしないの?」


 ドラガンはアリサの顔を見ると目を輝かせた。

アリサはガックリと脱力した。

心配して損した。

心底そう感じた。


 その質問に答える前にアリサは、ドラガンに何しに来たのか尋ねた。


「……野菜を……洗いに」


「だよね? 野菜はどうなったの?」


 ドラガンは桶の中の泥の付いた野菜を見てバツの悪そうな顔でアリサの顔を見た。

その何ともいえない表情に、アリサは怒る気力を削がれてしまったらしい。


「あっ……えっと……泥水が気になっちゃって……」


 ドラガンの言い訳にもなっていない言い訳に、アリサは特大のため息をついた。

無言で釣瓶桶から水を野菜にかけると、ブラシでこすって野菜の泥を落としはじめた。

困った弟だ。

アリサはドラガンの顔を見て眉をひそめ苦笑いした。


 その表情でドラガンは、アリサがそこまで怒っているわけではないとわかり少し安心した。

さらに、何の話だっけと言われ、先ほどの泥水の疑問をぶつけた。


「さあねえ。でも、そんなので濁ったとこ見た事ないかな。雨降った時は濁るけどね」


 アリサの言葉にドラガンは首を傾げた。


 井戸にはいつも蓋をしているし、屋根も付いている。

であれば雨が降り込むはずは無い。

それなのに何で濁るのだろう。


「井戸の周りから入り込むからじゃないの?」


 アリサは特に何も考えずにドラガンに言った。


「じゃあここに水をジャバジャバ捨てたら、井戸の水って濁るのかな?」


 そのドラガンの一言に、アリサは擦っていたブラシをピタリと止めた。

ゆらりとドラガンの方に顔を向けた。


「近所迷惑になるから絶対やらないでね!」


 あなたはちゃんと言っておかないと、やってしまう子だから。

アリサが厳しい視線をドラガンに向けると、ドラガンはじっと井戸を見つめ何かを考え込んでいる。


 その様子に、アリサはまたため息をついた。


「ドラガン! ダメだからね!」


 アリサはドラガンの視線に顔を潜り込ませて、あえて釘を差した。


 濡れた手でドラガンの顔に水をはじくと、わかったわねと念を押した。

ドラガンはその威圧的な表情に少し恐れを抱き、無言で首を縦に何度も振った。


 アリサは洗った野菜の桶をドラガンに持つように言い、井戸に蓋をすると、台所へと二人で歩いて向かった。



「さっきね。桶の水、じっと見てたら透明になったんだよ!」


「そんなになるまで野菜洗わず放っておいたの?」


 アリサの指摘に、ドラガンはしまったという顔をして、アリサから目を反らした。


 また変な事に興味を持ちだした。

正直なところを言うと、アリサはまた始まったというような感想しか抱かなかった。


 ドラガンがまだ幼い頃、アリサに向かって何で何でを連呼していた時期がある。

成長するに従い徐々に治まっていくからと母に言われ、アリサもそういうもんなんだと思っていた。

だが治まっただけで止んだわけではなかった。


 アリサは何一つ回答はできないのだが、ドラガンはそういったことを考えること自体が好きらしい。


「ねえ姉ちゃん。水が透明になったらね、桶の底に泥が溜まってたんだよ」


 それがどうかした。

何をこの子は当たり前のことを言ってるのだろう。

そうアリサは感じた。


「だったらさ、瓶の中で野菜、洗えば良いと思わない? そうしたら、次洗う時には水は透明になってると思うんだ」


 その発言で、ドラガンが考えていることがアリサには何となく理解ができた。

つまるところ自分が行っている家事が、ドラガンから見て重労働に見えたのだろう。


「ドラガン。瓶の水って、そのままにしておくと腐るのよ?」


 ドラガンは初めて聞く話に目を丸くして驚いた。


 水が腐る。

それって一体どんな状況なんだろう?


 好奇心でドラガンは目を輝かせてアリサを見た。

アリサはやってしまったと後悔した。


 案の定そこからドラガンは、アリサに質問を浴びせ続けた。


 腐ったらどうなるの?

色は? 味は? 匂いは?


 ドラガンの質問にアリサは本気で後悔した。


「良く知らないけど、沼みたいな匂いがして、飲むとお腹下すらしいよ」


「じゃあ何で井戸は、ずっと水溜まってるのに腐らないんだろうね?」


 確かに言われてみれば水が溜まっているだけという状況は、井戸も瓶も同じである。

ならば井戸の水も腐っても不思議ではない。


「姉ちゃんも不思議って思ってくれるんだね!」


 ドラガンは透き通るような純粋な瞳でアリサの顔を見つめた。


「不思議って思うけど、そういうもんかなとも思うかな」


 それが普通だと思うよという意味でアリサは言ったのだが、ドラガンは聞こえていないのか、そうでしょ、不思議でしょと嬉しそうに言ってきた。


 もうこうなるとドラガンは自分の世界に没頭してしまう。


 手に野菜の桶を持ってはいるものの、何かをぶつぶつ言っていて、もはや何を言っているかわからない。


「ちょっとドラガン! どこ行くのよ! 家はこっちよ!」


 ドラガンははっとして周囲を確認し、姉の姿を見つけると、焦って踵を返した。


 もうと言ってぽんと頭を叩くと、ドラガンはニコリと笑って、ちょっと恥ずかしそうに舌を出したのだった。



 そこからアリサはドラガンに野菜の皮むきをお願いした。

ドラガンは非常に手先が器用で、小さな包丁を巧く操り次々に野菜の皮を剥いていく。


 アリサはドラガンが剥いた野菜と塩漬け肉を一口大に切り、潰したトマトをベースにスープを煮ていった。


「うわっ! 美味しそうな香り!」


 アリサはかまどに新たな薪をくべると、お玉に少しだけスープを取りドラガンに味見させた。


「……なんだか味が薄い」


 ドラガンは少し不満気な表情を浮かべた。


 これから煮込むんだから味が薄くて当たり前、姉はドラガンに笑いかけた。



 しばらく煮込むと台所は美味しそうな匂いで充満してきた。

その香りに釣られるかのように、両親が農場から帰ってきたのだった。

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